髙山右近や内藤如安一行の、マニラ上陸から宿舎までの道すじ | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. 髙山右近や内藤如安一行の、マニラ上陸から宿舎までの道すじを教えてください。


A. 髙山右近たちに同行し、右近の臨終にも立ち会ったのが、ペドゥロ・モレホン神父ですが、彼の記した「日本殉教録」の中に、右近たち一行のマニラでの様子が、生き生きと、詳細に書き留められています。

 右近さんたちを乗せた帆船は、もともと、ブレーキはききませんでしたから、自身で接岸することは出来ません。漕ぎ手によって進むガレーラ船に乗り換えて、上陸することになります。
 一行を乗せた船は、逆風でしたので、なかなか、マニラ湾内に入ることが出来ませんでした。
 総督ドン・ファン・デ・シルバは、信仰ゆえに祖国を追放されてきた一行を歓迎するために、ガレーラ船を派遣します。

 髙山右近や内藤如安たちは、その船に乗り移り、パッシグ川(Pasig River)の船着場へと向かいます。パッシグ川の入口にある「サンチャゴ要塞」の前まで来ると、多数の砲から礼砲が打たれました。
 全貴人・将兵・修道士・市民が迎えに出て、多数の人々が同行して、彼らを、サンチャゴ要塞内の、要塞門を入ってすぐの辺り一帯にあった「王宮」(Palacio Real)へと伴っていきました。
 そこでは、総督や王室顧問の人々が、一行を、信仰のために働き苦労したことに深い敬意と愛情を示して、迎えに出ていました。

 髙山右近や内藤如安一行は、王宮で歓迎と祝福の言葉を受けた後、彼らのために準備された宿舎へ向かうために、護衛兵付の馬車に乗り出発しました。この地の武官・貴人たちが、厳粛な雰囲気のうちに同行しました。

 途中、首都大司教座聖堂(マニラ大聖堂)・サンオーガスチン教会・イエズス会の聖アンナ教会で、歓迎を受け、馬車を降りて、祈りをささげました。
 鐘が鳴らされ、音楽が奏され、聖職者全員が教会の入口へ出迎えにでましたよ。

 通り道となった「レアル・デル・パラシオ通り」(王宮通り)には、信仰のための追放者の到来に感激した、多数の人々があふれていました。

 このようにして、イエズス会の「サンホセ学院&聖アンナ教会」のそばに、彼らのために準備された宿舎に落ち着かれ、マニラでの第一日(1614.12.11)が、感謝のうちに暮れていったのでした。

※ 髙山右近が召天(1615.2.3)した後は、人々は、シルバ総督によって1615年に新しく造られた日本人町「サン・ミゲル」に移り住み、日本人キリシタンの町として、内藤如安の指導のもとに生活していくことになります。

 その場所は、今「アダムソン大学」がある辺りで、隣接する「聖ヴィンセント・ポール教会」には、「ジョアン内藤飛騨守忠俊終焉の地」の碑が建てられています。

 現在の、「マラカニアン宮殿」のある「サン・ミゲル」は、日本人町の名を留めるために名付けられたもので、当時の「サン・ミゲル」の場所ではありません。

※ ホームページ掲載の、[トピックス1] 「これはビックリ! アッと驚く大スクープ!!」 [マニラ篇]も、ご覧になってくださいネ。

※      [イントラムロス]
 1 パッシグ川の、右近さん達一行の上陸地点
 ② 右近さん達が訪れた「王宮」(1599~1645年までは、ここにあった。)
 3 マニラ大聖堂
 4 サン・オーガスチン教会
 5 イエズス会の「サンホセ学院&聖アンナ教会」
 6 髙山右近一家の居住地(サン・ミゲルの家)

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