小西行長の父・ジョウチン立佐の遺言 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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 小西行長の父・小西ジョウチン立佐(りゅうさ)の、最期の時のようすをお話しましょう。

 長男は、ベント如清。アゴスチイノ行長は、次男になります。その他にも、隼人・与七郎・ルシア・ペトロ主殿介など、子沢山に恵まれていましたよ。

 立佐は、行長が、播磨から肥後・宇土の地に転封(てんぽう)になった後の、室(むろ)と小豆島の地を、関白・秀吉より委ねられましたし、郷里である堺の奉行職にも任ぜられていました。

 又、秀吉が、朝鮮と戦うため、最初に名護屋(肥前国・佐賀県)に行った時(1592.6.5~)には、立佐は、財務管理者として任務を託されました。
 しかし、この時立佐はすでに60歳を超えており、体調をくずし、堺の自宅で治療するため、秀吉に願い出て、許可を受けて帰って来ます。

 10月になって、召される日が近づいていることを悟った立佐は、現に奉行を務めている堺で召されれば、習慣上、多数の仏僧による葬儀がなされることになりそうですので、京の都にいる長男・ベント如清の家に移り、最期の時を迎える準備をします。

 寝床の正面に祭壇を設け、枕もとに十字架を置き、熱い信仰をもって、イエス・キリストに祈りをささげ続けました。
 最期の時が近づき、臨終の苦しみが始まりますと、自分を取り囲む親族一同とキリシタン達に、祈りをお願いし、そして、次のような遺言をのこしていくのです。

「大いなる安らぎと、主なるデウス様への信頼を覚えて、召されていきます。今の私には、死は何ら取るに足りぬことで、ましてや、後に残していく名誉・財産・主君の寵遇のことなど、いささかも気にいたしませぬ。なぜなら、主なるデウス様が、私の霊魂のしあわせのために、このように命じ給うたからなのです。
 私としては、ただひたすら、生涯に犯しました罪と己が弱さをお許し下さるよう、デウス様に懇願し奉るのみでございます。」

 その後、くり返し、イエス・キリストの御名を唱えながら、見守る人々に深い感銘を与えつつ、その霊魂を、天地の創り主(つくりぬし)・デウス様にお返しし、天のパライゾ(天国)に召されていったのでした。

● この時の、小西ジョウチン立佐と同じように、髙山右近もマニラの地で、感動的な遺言を、モレホン神父や、家族や孫たちに対して残して、召されていきました。

 ※ ホームページ「髙山右近研究室・久保田へようこそ」の、右近ブックレット・[髙山右近名言集]の中の「髙山右近の遺言」を、ご覧ください。

● ところで、現代の私たちはどうなのでしょうか。

 最近は、医療の技術がすすみ、最期の時は? というと、延命処置がとられ、意識不明の状態が何日も、あるいは何週間も続きます。
「遺言」を、近しい者たちに語った後、しばらくして召されていくというような状態ではありませんよね。

 私たち夫婦は、「我々は、天国に迎え入れられることは、神様から約束していただいているのだから、必要以上に延命処置は、とってもらわない」ことを、互いに確認しています。

 最後の最後・最期の時を、バッチリと決めたいですよネ!

 ※ マニラでの「髙山右近の召天(帰天)」 (画・木俣清史)

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