高山右近と細川ガラシャの出会いは? | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. 高山右近と細川ガラシャの出会いは、あったのでしょうか。

A. 高山右近と細川ガラシャ。お二人は、 “ キリシタンの星と花 ” と言えるでしょうか。出来れば、二人が一緒におられる場面を考えたいですよネ。でも、どうなのでしょうか。

 右近は、ガラシャより11歳年上。二人が出会う可能性を考えてみるために、細川玉(のちのガラシャ)の動きを見ておきましょう。

・ 1563年(永禄6) 細川玉・誕生。同じ年に、細川与一郎(のちの忠興)も誕生。
    ※ 右近 11歳。翌年の12歳の時に、大和・沢城で受洗。ジュスト彦五郎。
・ 1578年(天正6) 与一郎と玉(共に15歳)、織田信長の命を受けて、細川家居城・勝龍寺城で婚姻(京都府長岡京市)   ※ 右近 1573年~85年 高槻城主
・ 1580年(天正8) 細川藤孝・忠興父子は、12万石を拝領して、宮津城に。
・ 1582年(天正10) 宮津城で、西国出陣の用意をしていた細川父子は、「本能寺の変」の報に接する。
    ※ 玉を、味土野(京丹後市・弥栄町)に幽閉。
・ 1584年(天正12) 秀吉の赦しが出て、玉は、大坂玉造の細川邸・越中屋敷へ。
    ※ 天満橋の近くにあった大坂教会のそばに、高山右近屋敷があり、教会を中心にして、右近は宣教の働きに励んでいた。
・ 1587年(天正15) 「伴天連追放令」発令。右近・改易。
玉、清原マリアより、越中屋敷内で受洗。霊名:ガラシャ(24歳)
・ 1600年(慶長5) 関ヶ原の戦い・直前、小笠原少斎に介錯を頼み、越中屋敷で帰天。(37歳)

 右近と玉が出会う場があったとしたら、玉が玉造の越中屋敷に戻り、右近の方も、少し離れた天満橋のあたりに高山屋敷があった時、しかも、右近が「伴天連追放令」発令の時に改易されるまでの、1584年~87年までの間ということになります。

 玉が洗礼を受けて「ガラシャ」となるのは、「追放令」が出された直後のことですから、[右近とガラシャ・玉との出会い]は、考えられません。

 ところで、玉造の越中屋敷に戻ってきてからの玉ですが、秀吉の赦しが出てのこととはいえ、夫・忠興にとっては、逆臣・明智光秀の娘・玉を、大坂城と目鼻の場所での日々の生活の中に、迎え入れたわけですから、いわば、爆弾をかかえているようなものです。ちょっとでも玉にかかわって、よくない噂がたったり、不祥事があったりしたら、細川家存亡の一大事になってしまいます。

 忠興は、妻・玉に対して、異常なまでの、徹底した防御措置をとっていきます。よく言われている、「玉が美人だったから」とか「しっと深かったから」などといった、低レベルの理由からではありません。細川家の・自分自身の存立がかかっていることなのです!

・身分の高い2人の家臣に、昼夜不断に、妻の監視を義務づけます。
・忠興が外出(特に、出陣)する時には、いかなる使者が家に入り、またはいかなる女たちが家から外出したか、そして誰が彼女らを出させたか、また彼女らはどこへ行ったかを観察し、その月日を記録して書面によって報告するように命じます。
・ごく親しい親戚か身内の者でない限り、妻に対してはいかなる伝言をも許しませんし、又、ゆるされる伝言も、まず監視の2人の検閲と調査を受けるようにと命じます。
・屋敷にいる女たちは、それぞれが起居するための場所があてがわれており、特別の命令なくして、勝手に互いの部屋を行き来することを認めません。
・妻に対しても、屋敷内のいくつかの特定の部屋以外に、出向くことは許しません。
・調理場などで働く者たちにも、それぞれの行動を規制する掟が与えられており、それを破る者に対しては、仮借のない罰が科されましたので、皆は文字通り、それらの掟を守ることに務めました。
・・・・・・・・・・・・・・・

というぐあいですので、右近が、いかに忠興の大の親友であったからとしても、一触即発の原因となる恐れのある妻を、右近の前に、挨拶のために召し出させるなどというようなことは、とても考えられません。

 しかし、こういうことはありましたよ。
 右近と忠興は、大の親友であったわけですから、忠興の口から、右近が彼に話して聞かせたデウスの教えに関することとか、説教のこととかを、玉にも話して聞かせました。
 玉は、それらの話を夫から聞かされた時に、それらのことをもっと深く知りたいとの、異常な望みに駆られたようですが、たとえ夫に、教会へ説教を聞きに行く許可を願ったとしても、とうてい許してもらえるはずがないと思われましたので、彼女は、そ知らぬふりをしていたそうですよ。

 というようなわけで、「右近と玉」「右近とガラシャ玉」との出会いは、フィクションとしてのドラマの中ではあったとしても、実際には、考えることは出来ません。

 とは言いましても、2012年の今の今は、天の御国(パライゾ)で、右近さんも・妻のジュスタさんも・父のダリオ飛騨守さんも・ガラシャさんも・・・・・ 殉教していった多くのキリシタン達も・・・・・ みんなみんな、ご一緒されているんですよ!
 そして、いつの日か、私たち夫婦も、天国で、右近さんやガラシャさん達とお会い出来るのを、楽しみにしています。

 あなたは、だいじょうぶ? 天国へ行けますか? 天国で、右近さんやガラシャさんとお会い出来ますか?


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         ( 木俣清史・画 )