三角西港物語(その2 開港への道) | 三角駅前うきうきレンタカーのブログ

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鈍色の雲の切れ間から時折冬の日が射す三角です。

朝11時にA列車から満員の乗客が降りて来ました。

多分JRの計画した三角西港~万田抗をA列車と高速船でつなぐ

ツアーのお客さんだと思います。

費用は10000円 熊本からA列車で三角へ、そこから船で三角西港

ここで昼食。三角西港から高速船で長洲港へ行き万田抗見学して

再びA列車で「地元弁」食べながら熊本駅まで。

けっして高くは無い音譜


三角西港の設計を手掛けたのは

オランダ人ムルドルさんです。

近代化を進める上で技術は西洋から。。。

何と国家予算の5%を投じて大量の技術者と教育者を招いていました。

明治9年頃には港湾計画の基本計画が作成されていますが

この頃。。。

明治4年廃藩置県の後9年には廃刀令が出ています。

もはや武士と言う階級が無くなる。。。特に下級武士の不満は頂点に!!

それ以前。。。黒船来航から各藩には幕府から沿岸防備の申しつけがあり

あちらこちらに派兵されてます。

私の先祖も現在の千葉県の沿岸防備や長崎の防備と長年派遣されてますが

家に帰ると門前に店が出来て通行もままならない状況に。。。

流石に頭に来たのか屋敷地を返上するので別の場所に家をくれと上申書を

書いたのが残っています。その後も第三次長州征伐に行ったり。。。

廃藩置県後は今のみやま市の一角に集団移住し、それでも9年までは

録を支給されていますので良い方だったと思います。

その期間に、それぞれ次の道を探して旅立っていった。

祖父は大連の炭鉱職員として働き。。。その後三池炭鉱に移っています。

東北のある藩のように下級武士団を北海道や津軽の未開地に移住させ

大量の餓死者を出した。。。そんな時代でもあった訳です。


従って明治5年から10年に掛けては各地で反乱や暴動が

起きます。

熊本では9年に神風連の乱が起こり県令が殺害される事態と

なりました。

明治10年には西南戦争が勃発します。

熊本城下に押し寄せた反政府軍は桐野利明が進言したようには簡単に

落城せず54日の猛攻に耐え抜きました。

城内には、のちに西港建設に尽力した富岡敬明さん

や、旅順攻略で有名な小玉源太郎が居ました。

その後田原坂の決戦。。。熊本城は落ちていませんので

敗走は阿蘇の山中を抜けて延岡の北に出て日向から薩摩へ

出るしかない状況になってます。


てな時代に一方では港湾整備が着々と計画されています。

一つは熊本の戦後復興もあったものと思います。

どちらにしてもスピードが違う!!

現在の熊本県の初代知事は富岡敬明と言う人ですが

肥前小城藩の出身で。。。なかなかの豪傑です。

実際の港湾建設をしたのは小山秀と言う人です。

ムルドルさんはその後函館から下関港まで主要な港の計画

に参加されてます。

小山秀さんは天草の大工の棟梁みたいな人で長崎で近代建築を学び

石工集団を率いて大浦天主堂・オランダ坂・グラバー邸・外人居留地の建設を

行ってきた肥後石工の長の一人です。

肥後石工で有名なのは種山石工集団ですが、こちらは石橋の建設

天草の石工は港湾を得意としたようです。


三角西港はヨーロッパの港湾都市をモデルに設計されています。

港があり、そこに暮らす人が居る前提で。。。

従って、岸壁の他に排水路を通して衛生的な町に!!

今でも変わらず排水路3本が通り、地下の排水路もそのままで

排水は排水路を通して海に流れ出る設計です。

さて岸壁ですが。。。

海峡の対岸飛岳の安山岩を使用しています。(現在も採石場です。)

積み方は「布積み」と言う方法で積まれています。

約400kgの石を16段積んで、その上に2tの上石を乗せた工法になっています。

(現在は上から見ると10段くらい。。。6段は砂の中に)

この内6段は常時海中に。。。従って潜水夫も動員されています。

護岸の高さは海底から約6~7mあります。

何せ干満差の大きい有明海ですので、干潮から5m位の高さが無いとです。

桟橋は浮桟橋で作られています。(さすがに残ってはいませんが。。。)

これも干満差の大きい有明海ならではで。。。今でも殆ど浮桟橋なのです。


石工延べ14万人、大工1万人、人夫5万人が建設に従事しています。

その他一番の危険個所には囚人300人が動員されています。

建設中に亡くなった囚人は69人。。。過酷です。

今でも、その遺骨を集め供養している家があります。

海の日や春秋には慰霊塔で慰霊の行事が続けられています。


三角西港建設も大変だったでしょうが、現在の宇土市内から

宇土半島には昔の山道しかなかったので現在の有明海側を通る

57号線も同時に建設されています。

特に先端部分は急峻な崖を削る難所の連続で大変だったようです。


護岸建設と共に埋め立て工事も行われ、裏山を削って現在のような

三角が浦の町になったのでした。

三角が浦の風景は 文化庁の「重要文化的景観」の指定を受けています。

(熊本県では他に通潤橋、崎津集落があります。) *全国で≒50か所

さて次回は世界遺産「三角西港」の根拠である、我が故郷三池炭鉱との関係について


神風連の乱の最中に計画し、西南戦争の硝煙も残る中で着手し。。。

それほどまでに急ぐ理由は何だったんでしょうねぇ~DASH!