愛あふれる信長の道路整備 ~安心・安全・快適~ | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■愛あふれる信長の道路整備 ~安心・安全・快適~■□


1575年(天正3年)から          信長 42歳から


信長は安土城の築城と共に、安土から京への街道や自領の街道整備にも力を入れた。

街道を広く整備することにより、軍勢の派遣の迅速化に限らず、そこに住まう人々や旅人の為にもなった。
また、街道を行く人達が安心して安全に快適に往来できるように、細やかな配慮がなされている。
日除け対策として街道の両側に松や柳を植えさせたり、飲食ができる休憩所を一定間隔で作り、美しい景観維持の為に日に二、三回掃き清めたという。

琵琶湖に瀬田の大橋を架けさせ、その橋の真ん中にも休憩所を作るという心遣いもあった。

それまでは、野盗に襲われる心配などがあり、一人で旅をするのが危険だったのにも関わらず、信長の街道整備により、安心して一人旅や夜間の旅が出来るようになったという。

その様子は、ルイス・フロイスの『日本史 第33章』に詳しい記述があるので、そちらを引用してみようと思う。


①翻訳文

(前略)
この安土の市(まち)から都まで陸路十四里の間に彼は五、六畳の幅をもった唯一の道路を造らせ、平垣で、真直ぐ(にし)、夏には陰を投ずるように両側には樹木(松と柳)を植え、ところどころに箒を懸け、近隣の村から人々はつねに来て道路を清掃するように定めた。

また彼は全道のりにわたり、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体を(して)庭のような観を呈せしめた。
一定の間隔をおいて、旅人がそこで売っている豊富な食料品を(飲食して)元気を回復し、休憩できる家があった。

そして以前、その諸国では、少なくとも道連れのない一人旅の場所には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、彼の時代には、人々はことに夏はつねに夜間旅をした。
彼らは荷物をかたわらに置き、路傍で眠り込ん(でも)、他の人々が自宅においてそうできたほど安全となった。
彼は道中のこの秩序と設備をその統治下の多数の諸国において実施させた。

そして都から安土へのこの道が旅人にとり、あらゆる苦難から免れ得るよう、彼は近江の湖が狭くなり、激流と急流を伴う瀬田というところに、四、五千クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋を懸けさせた。
それは四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、形はきわめて完全で、彼はその中央に一軒の非常に快適な休憩所を作り、そこで通行人が休息できるようにした。
(身分の)高きも低き者も〔婦人だけは例外として〕、あらゆる階級の人々は同所で彼自身に対する畏敬から乗物を降りねばならなかった。
彼はきわめて強力であり、望めばごく短期間に十万人以上を難なく戦場に赴かせることができたからである。

安土山からのこの道には、さらに一つの障害があった。
すなわち都と近江の湖の間にある比叡山の嶮しい山地と岩石であった。
したがってその道路を容易に通過できるようにするために、彼はこれをすべて手で切り通させ、以前には人々に苦労をし、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく嶮しい道をまったく平らにし、なんらの障害がないようにした。
かくてそれは快適な道路、広大な道路となり、牛車や婦人の駕籠もなんらの困難なしに通行している。

彼はあらゆる賦課、途次支払わねばならなかった関税、通行税を廃止し、大いなる寛大さをもってすべてに自由を与え、この好意と民衆の賛意のため、一般の人々はますます彼に心を惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。

(後略)


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信長の民に対する慈しみや心遣いが随所に感じられて、心がほっこりする。

個人的には、街路樹の下に敷き詰めた砂や小石が道路全体と相まって庭園のようだったという、その美観を見てみたいと思った。


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参考文献

・『フロイス 日本史4 五畿内篇2(普及版)』 ルイス・フロイス著、松田毅一、川崎桃太 翻訳、中央公論社、1991年

 

 

 

 

 


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