ただいま、おかえり -10ページ目

ただいま、おかえり

山田花畑の番外編

学級崩壊と言う言葉が世の中に登場する何年も前に、ある小学校の学級崩壊の現場を見て衝撃を受けた。

その学級崩壊の現場には、特定の条件が存在していた。

学年は一年生。
その教諭の持つクラスは、決まって学級崩壊となるのである。

この時すでに、10年以上の実績があった。
(ふた昔前の話ですね)



児童は授業中であっても教室から自由に出入りし、校庭で好き勝手に遊んでいたりする。
掃除道具入れの上から飛び降りたり、オルガンを倒して怪我人が出たりする。

数か月前にあどけない顔で入学した子供たちが、なぜこのように豹変したのか。
なぜこの教諭のクラスの子供たちは、そろって豹変してしまうのか。

教諭の話で印象に残ったのは
「昔の子供は黙っていたって言うことを聞いたのに」
「親御さんは、言うことを聞かない子供がいたら注意したのに」
と。
学校の先生とは子供の上に君臨するもので、黙って言うことを聞くものだと言いたいのかと不思議に思った。

授業を見せてもらった。

教諭の声は特徴的で、綿のようにフワフワとし、芯がなく、教室の後方まで届かない。
教壇にしっかり起立し、真面目に表情を崩さず、笑顔もなく、抑揚もなく話す。

ひいき目に見ても魅力的ではない。

話の内容は、可もなく不可もなくと言ったところで、雲をつかむような印象だった。

次第に子供たちがピクピクと動き出した。

小学校一年生の子供に
「先生は偉いんだから、どんなことがあっても座って話を真面目に聞かなくてはいけない」
と、、言ったとして
「はい、そうですか」
と素直に聞くだろうか。

教諭は仕事だから、教壇に立っていると言う様子である。
確かにそれは正しい側面があるかもしれないが、子供に働きかける姿勢とは違って見えた。
子供への興味はあるようには見えず、可愛いと思っているのか疑問であった。
真意は定かではないが。

はたして信頼関係が築けるであろうか。

その教諭は、どの年代の学級担任になっても、転勤しても、子供をまとめることができず、定年を前に退職を余儀なくされた。

学級崩壊が起きはじめて、 10 年以上問題が繰り返されたと聞くが、不登校や怪我人も複数確認されたそうだ。
しかし、この問題について教育委員会は、調査を実施することもなく、問題解決の対策を講じることもなかったと言う。

人間の日常に起こる異常は、時代や世代を超えて、ある条件のもとに共通して発生するのではと思うものである。

お母さんと赤ちゃんは、子育てに大変適した身体構造を持っています。

この身体構造は、特にスキンシップに有効です。

たとえば、座ったお母さんの膝の上に赤ちゃんを抱っこして、母乳を与えるときのことを思い出してみてください。
お母さんの太ももの上には、赤ちゃんのお尻がチョコンと乗りますね。
そして、曲げた腕の関節に赤ちゃんの頭を乗せると、ちょうど赤ちゃんの口元を無理なく乳首に含ませることができます。

しかも、母乳を飲んでいる赤ちゃんは、飲みながらお母さんとしっかり目を合わせることができる。
目線の位置にずれがない。



これは絶妙な調和と言えるでしょう。
まるでパズルのようです。

母乳を飲みながら、赤ちゃんはお母さんの顔を瞬きもせず、じっと見入っています。
そして、何を思うのか途中でお母さんに微笑みかけたり、「あうー」 などと声を発したりします。
その愛らしさに、お母さんはつい微笑んでしまいます。

この時、微笑んだお母さんの体には、お母さんらしくなるためのホルモンが分泌されます。
そして 「可愛い」と思った瞬間、その気持ちは赤ちゃんに通じます。
赤ちゃんはきっと、幸せな気持ちで満たされるでしょう。
そんな赤ちゃんの姿は、たまらなく可愛く、お母さんの気持ちはさらに幸せいっぱいに膨らむことでしょう。

赤ちゃんに母乳を飲ませる行為は、ただ単に赤ちゃんの空腹を満たしてあげるだけでなく、様々な効果がもたらされるのです。
肌のぬくもりを感じながら、視線を合わせ、幸せな気持ちを共有する大切なひと時なのです。

抱っこしたり、抱きしめたりするといろいろな情報が、お母さん、赤ちゃんに伝わることでしょう。
体は温かいとか、ふっくらしているとか、優しいにおいがするとか。
そして、そんな感触とともに、お互いの感情もしっとりと伝え合うことができます。
そんな心身の交流が、お母さんはお母さんらしくなるために必要で、赤ちゃんにとっても育つエネルギーとなるのです。

このような交流は、物理的に省くことはいくらでも可能ですが、省くことにより、その行為から得られるお母さんらしくなるチャンスと、赤ちゃんの育つエネルギーがプラスにはならなくなります。
極論が立証されていますが、赤ちゃんを抱っこしないで育てた場合、サイレントベビーとなります。

赤ちゃんに対する刺激が少ないため、赤ちゃんはお母さんに要求をしなくなると言うのです。
そんな赤ちゃんは、寝かされっぱなしのまま、何時間でもおとなしくしています。
それは、育てやすい良い子ではなく、自己表現を諦めた、悲しい姿なのです。

昔、昔、アメリカから「スポック先生の育児書」なるものが入ってきました。
それには、おそらく 「自立した人間に育てるため」 のいろいろな情報が掲載されていましたが、赤ちゃんが泣いても、抱き癖がつくからすぐに抱かないとか、離乳食を早くから始めるなど書かれておりました。

一時、大変流行したそうで、このブログで紹介した、少し前の世代のお母さんも愛読していたと言います。
ところが、そのお母さんの赤ちゃんは、まぎれもなくサイレントベビーとなってしまい、大人になってからは重い精神疾患を解決できない状況となっています。

とある助産婦さんから以前伺ったお話ですが、赤ちゃんはいくらでも抱っこしてあげてかまわないと。
抱っこすることによる悪影響は、、ありません。

一回の抱っこで、お母さんと赤ちゃんが織りなす心身の交流が多ければ多いほど、お母さんは、本能的にお母さんになります。

一般的に、育児下手は次の世代の新米お母さんによほどの覚悟や改善の意識が無い限り、受け継がれることが多いのですが、

新米お母さんが育児に躊躇するようなことがある場合でも、赤ちゃんを抱っこしながらの子育ては、お母さんらしくなる本能が刺激されるため、育児下手を改善する効果があると言うわけです。

人間の赤ちゃんが未熟な状態で生まれてくるため、お母さんの手が必要な時期に、リスクを改善するチャンスがあると言うわけです。

怖がらず、肌を寄せながら、視線を合わせてみましょう。
育児に自信がなくても、赤ちゃんがお母さんを自分が困らないように育ててくれるはずです。
先日、網谷由香利先生の著書を久しぶりに読み、自殺をする子供について書かれている一説が、大変心に残った。

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現代は引きこもりをネガティブにとらえている傾向がある。

しかし、網谷由香利先生は、自分を守るために引きこもっていると。
引きこもることは、傷ついた心の修復にとても有効な時間であると書いている。

この考察は真実をとらえていると思った。
よく 「男は外に出ると 7 人の敵がいる」 などと言うが、子供が未知の世界に出るのだって、同じくらい生命力を使うものだと思う。

子供は純粋で、好奇心旺盛なので、何の苦も無く集団に入って行っていると思っていたが、そうではないと改めて思ったのだ。

まだヨチヨチ歩きの赤ちゃんの姿を、部屋の真上から数時間観察した動画を見たことがある。
部屋の真ん中にお母さんが座っていて、赤ちゃんは好きに遊びんでいる。

赤ちゃんは、お母さんの膝から興味のある方向へ消えるが、しばらくするとお母さんのもとに戻ってきて、満足するまで抱っこしてもらうと、新しい興味の方向へ消えてゆき、その行動の軌跡は、お母さんを中心に太陽の形のように描かれた。

この動画の意図するところは、赤ちゃんはお母さんのところで安心や勇気をチャージし、新しい冒険へ出かけることを繰り返すと言うのだ。
赤ちゃんが離れた場所で活躍するには、安心と勇気が必要であることを裏付けている動画であると思った。


この行動の軌跡は、人の自立と大きくかかわっていると考える。
精神の安定が無い状態で、人は困難な場所に臨むことはできない。
困難な場所には恐怖が存在するため、恐怖に立ち向かうエネルギーが無い状態では、到底困難を克服し目的を果たすことはできないだろう。

立ち向かうエネルギーの源となるのが、お母さんからの温かい支えである。
この支えの第一は安心であり、安心が充満し立ち向かう勇気がみなぎるのである。
安心の無いところで勇気を振り絞ると、それは虚勢であったり、空元気であったりする。

ここで、学校に行くことは、どれだけの力を使うか考えてみよう。

通学の間に、知っている友達に会うかもしれない。
会った時、攻撃されるかもしれない。
攻撃されなくても、何か話さなくてはいけないかもしれない。
もしかしたら無視されるかもしれない。
しくじらないように、頑張らなくちゃいけない (と恐らく思うだろう)

誰にも会わなければ、苦痛は少ないが、、いつか誰かに会うことになる。
会う人ごとに、この繰り返しを行うのだ。
心が傷ついて敏感な時にこの繰り返しは、かなりエネルギーを使う作業となる。

人の問題がクリアできたとして、何時間か授業がある。
当然新しい何かを学ぶことになるが、これは普通に考えてエネルギーを使う作業である。

お昼には給食やお弁当がある。
誰と食べるか。
一人ぽっちで食べるか。
これもただ食べれば良いだけの問題ではないのだ。

誰かにいじめられている状況で、これらの環境で一日を過ごすことは、大人が思っているより多大なエネルギーが必要である。

ここでいじめっ子の気持ちを考えてみたい。
いじめっ子は、不安そうな子をターゲットとすることが多い。
いじめられる子には、いじめたい要素が何かしら存在する。

いじめられる要素を持っている子が、この多大なエネルギーを持ち合わせて学校に通えているだろうか。
恐らく違う場合が多いと推測される。

学校でいじめられ、家では本当のことが言えない。

どこにいても自分が力を抜ける場所が無い。

どんどん自分の存在価値が小さくなる。
その存在価値が消滅した時、不幸は訪れるのではないか。

人は誰でも、力を充電する時間や場所がいくつになっても必要だ。
そんな場所や機会を失った時、または無い場合、自分を守るために最優先に取った行為が引きこもりではないだろうか。
引きこもりは再生のための大切なプロセスなのである。
F さんと話をしている時に気が付いた。
私の話を真面目に聞いてくれていると思っていたが、別のタイミングで全く聞いていないことが分かった。

あれほど言ったのに、どうしてわかってくれないのか?
と不思議に思ったが、F さんに限らず、ある特定の条件をもった人に同様に見られる現象ではないかと思うようになった。

別に F さんは、不真面目なわけではないのだ。
聞く気が無いわけでもなさそうである。



話が伝わらない人に共通して見られたことは、過去に言葉でひどく傷ついたことがある人だと言うことである。
たとえば、成育環境において、日常お母さんが口うるさいとか、お父さんが口汚いなど。
また、必要な言葉をかけてもらえなかった場合も、同様に見受けられる。
継続的に、何度も失望するチャンスが多かった場合に顕著であるようだ。

一般的に言葉とは、コミュニケーションのツールであるが、上記のような環境における言葉の位置づけは、刃物と同等である。

人の心は目に見えないのでわかりにくいが、心の傷は外傷と同様に痛みやダメージがある。
そして厄介なことに、外傷のように自然治癒はしない場合が多い。

なので傷を負ったら、その傷は心に蓄積される。
外傷のような痛みはないが、心臓がドキッとしたり、涙が出たりする。
悲しい、悔しいなどの感情を伴うものも多い。

そして防衛本能が、傷を負わないよう働き、刃物 = 言葉をよける。
したがって、言葉で傷ついた経験を持つ人にとって、言葉は刃物でしかないため、一般的な言葉がけが伝わりにくい。

もちろん伝える側の力量の影響もなくはない。

が、この現象がどうやら本当であるらしいことを、F さん本人が自覚したのだ。
F さん自身、人の言葉が受け入れられないことを、不思議に感じていたようだ。
なぜだろうと考えて、自分が多くの言葉に傷ついたため、言葉を拒否していると実感したのだ。

なるほど、他の人にも合致しているかもしれないと、あてはめて考えてみると、みな、何かしらの共通点が確認された。

言葉で傷ついた人は、自身の傷を癒すことによって、言葉を言葉として受け入れる力を得てゆく。
F さんは、治療を継続することにより、ゆっくりと、言葉を心に刻めるようになってきた。

人の行動には、何かしら理由があるものである。
M 子さんには子供の頃から、ささやかな夢があった。

家は貧しく、争いが絶えなかったが、いつのころからか音楽が唯一の癒しとなっていた。
そして、音楽家になりたいと切望するようになる。

M さんは、中学に入ったころから音大の受験勉強を始める。
いつも反対ばかりの両親は、世間体が良いと言う理由から、M 子さんに芸大卒の優秀な先生をつけた。

M 子さんは毎日、練習に没頭した。

家は自営業だったので、大学は学費があまりかからない国立の受験を希望していた。
それには、ピアノのほかに、専門分野の先生につく必要があり、高校生になったらレッスンを始める約束をしていた。


ところが受験の準備と言う時になりお父さんは、
「才能があれば、国立だろうがなんだろうが、先生になんてつかなくても合格できる!」と。
レッスン代は出してもらえず、 M 子さんは、勉強を中止せざるを得なかった。
それは、大学受験はできず、音楽家になる夢はかなわないと言うことだった。

唯一の夢だった。

頭の中が真っ白になって、何かがガラガラと壊れた。
だからと言って、進路の代替案があったわけではない。
一人で道端に放り出された気持ちになった。

M 子さんは、学校へ行くのがおっくうになった。
かよっていた学校は、家計に負担をかけないよう、レベルを 3 段階下げて、絶対に落ちない公立高校を選んだ。

大学進学の夢が断たれた今、行く理由が消えたも同然である。

学校へは行かず、アルバイト先と友達の家を、行ったり来たりするようになった。
不良になるほど勇気はなく、家に帰っても味方も居場所もなかったから、帰りたくなかった。

そんなある日、友達の家でたむろしていると、同級生が怒鳴り込んできた。
両親を心配させて、何をやっているのかと。

両親は、この同級生に娘を説得して家に連れて帰るよう頼んだようだ。
その場の空気が凍り、M 子さんは帰るしかなかった。

家に帰っても、進路の話があるワケもなく。
両親は M 子さんが絶望したことなど、気にも留めていなかった。

お父さんは家出した M 子さんの姿を見ると逆上し、殴りかかってきた。
「てめーブッ殺されたいか!」

M 子さんは応戦した。
約束など一度も守られたことがない。
子供の気持ちなど 「くだらない」 と聞いてもらったためしがない。
この両親のもとで幸せだと思ったことも一度もない。

牢獄の中で、生き地獄を味わってきたような生活で、唯一の安らぎが音楽だった。

いつになったら解放される?
解放されないのなら、死んだってかまわない。

「くそっこの野郎!てめえこそ死んでしまえーーー!!!」
M 子さんは、殺されても良いと思った。

どうやって、この取っ組み合いが終結したか覚えていない。

それから少したったある日、、
両親が目の前で、黙って取っ組み合いのけんかをしている異様な光景を目にした。
お母さんは、お父さんに立ち向かっていき、お父さんに突き飛ばされ、殴られる。
何度も立ち上がり、立ち向かっては突き飛ばされる。

しまいにお父さんは、どこかに行ってしまう。
お母さんは、おいおいと泣き崩れ M 子さんに向かってこう言った。

「あんたのせいで、お父さんと一年以上も他人なんだから!」

高校生にもなれば、夫婦が一年以上も他人と言われて、どういうことなのか理解できないわけはないのだが、M 子さんはげんなりした。
お母さんは、お父さんにせがんで拒否され、それを M 子さんのせいにして M 子さんの前で泣いたのだ。

夫婦不仲なのは M 子さんが悪いのか?
M 子さんが従順に両親の命令を聞いていれば、両親には夫婦生活が成立し、母親は満足なのか?
娘が将来に絶望していたとしてもか?

M 子さんは辟易としてつぶやいた。
「この女、母親失格だ」

M 子さんがどうして音楽に没頭したか、それは現実生活があまりに悲惨だったからである。
いつもお腹が空いて、いつも寒くて、笑いのない生活だった。

怒鳴り声と、泣き声と、暴力と、ゴミにまみれた生活から逃げ出したいと何度思ったことか。
無力な子供に逃げ場はなかった。
逃げきれず連れ戻されたら、父親から殴られ、母親は夫婦生活の愚痴をこぼして泣いている。
子供を抱き寄せもしない、この家は親が機能していない。

貧困だから虐待が起きるのか、虐待をする両親に貧困がついてくるのか、にわとりと卵のようなものだ。
子供は衣食住ままならないことが多く、将来一人で生きていくための力をつけるチャンスを失うことも多い。

しかし、驚くことに虐待にあった子供の多くは、自分の不幸の原因は、自分に落ち度があったからだと思っている。
そして、その亡霊のような罪悪感によって、明るい人生を送ることができないのである。

M 子さんのその後は、亡霊が付きまとうような人生展開となり、それが虐待によるものであったことを知ることとなる。
何年も治療にかよい、気持ちが少し上に向いてきた。

そして、自分に落ち度がないことを、何度もカウンセラーから教えられた M 子さんは、信じられない気持ちだったと言うが、徐々にその事実をかみしめられるようになってきた。

M 子さん、あなたは何も悪くない。
今まで十分我慢してきた。
もう我慢しなくて良いんです。
自分が望むように生きて良いんです。