ゆうきの話 -18ページ目

しょこたんぶろぐを読もう

今日もしょこたんぶろぐを読もう。


菩薩

ちび太が菩薩と化しとる。

先日、しょこたん菩薩説というトンデモ記事を書いたが、その想いがちび太を菩薩にしたのかな。

まあ、私が超能力者だと言う事にしておこう、そうしておこう。

その方が楽しいじゃないか、うん。


しょこたんのエヴァンゲリオンとのコラボの服はとっても可愛い!!

私が女性だったら間違えなく着ているな。

でも、今の私が着たら・・・・通報ものだな。

まあ、この服は見て楽しむ事としよう。


もうすぐコンサート、ここまで来たら自分を信じてやり切るしかない!!

わたしも、宇宙の果ての隅っこのそこらへんから、成功を祈ろう。


・・・ナナフシか。

私も子供の頃、近所で20cm位のナナフシを見たことがある。

小さなナナフシは結構見かけるが、20cmもあるやつはあれっきりだ。

私が住んでいた所は自然が結構残っていて、23区内でも最も自然豊かな場所の一つと言っても良いかもしれない。

カブトムシやクワガタがそこそこいたし、秋になれば、幼稚園の裏にあった梨の畑にコガネムシが山ほどやってきていた。

そんな環境でも、やはり、大きなナナフシは一度しか見なかった。

ナナフシは確かに不思議な生き物だ。

何であんな形になったのだろうか、そんな事を考え出すと眠れなくなりそうなので、それは昆虫学者に任せよう。

いずれ世界の昆虫標本をコレクションして何処かに展示をしたい。

虫はとにかく形が美しい。

生物として、行くところまで行き着いた、究極の姿と言っても良い。

実物の標本ではなく、画像での展示館でもよい。

それならば腐ったりしないし、いくらでも展示が出来る。

3D画像にすれば、立体的に見えるので、より実物の標本に近い感覚で展示も出来る。

博物館のような物でも良いし、お店などに併設して、そこでのんびりと雑貨でも売りながら暮らすのも悪くない。

しょこたんは、寝子カフェを開くのが夢のようなので、私も店の中に寝子を住まわせて店長と名づけて接客をお願いしようかな。

そして店を開いたら、そこで飼い主の居ない寝子の里親募集をしよう。

昔から思っていたのだが、ペットショップが保健所に居る寝子や犬の里親探しをする事にもっと協力すべきだし、そして、ただ協力させるだけでは無く、その際にペットショップに金銭的な見返りを与えるべきだと思う。

それは国からでも良いし、その子を引きとる人が手数料として収めても良い。

ペットショップも営利企業なので、何の金銭的利益も無い行為に、しかもこの場合、里親探しは自分たちの商売を圧迫する行為になるのだから、積極的に協力できるはずも無い。

だから、金銭的な利益を与える事により、協力してもらうことが出来るはずだ。

ペットショップ経営者も、寝子や犬が好きだからこそその様な商売をしているのだろうから、自分たちの利益になるのなら、里親探しに協力してくれるはずだ。

法律でペットショップが里親探しをする事を義務化して、それと同時にその行為に対する報酬の支払いを国や里親がするようにすれば、おそらく不幸な捨て猫などは激減するはずだ。

こう言う事は、それに関わる人の利益になるようにすれば、一気に話が進む。

里親探しが得である事になれば、ペットショップも協力するはずだ。

そもそもペットショップはこの問題では悪者にされる傾向があるので、そのイメージを払拭するチャンスでもある。

・・・と、言う事を考えてはいるが、まずは身の回りに捨て猫がいたら、飼い主を探すか、自分で飼ってやろう。

それだけでも、だいぶ状況はよくなるはずだ。

そしてなにより、捨ててはならない、これに尽きる。

これを読む未来の世界の人間は、寝子を飼っているのだろうか。

未来の世界では捨て寝子が一匹も居ない事を願っている。

いかん、話が重くなってしまったな。

しかもナナフシとは関係ない話になっている。

まあ、たまにはこう言う話を書いてもいいだろう。


しょこたんぶろぐを読もう。

うむ、ビーフシチューか、美味しそうだなぁ。

あーあ、しょこたんが「食べにおいでよ」とか言ってくれねぇーかなぁ。

まああれだ、「不可能で無い事は可能である」どや、まちがっちゃぁいめぇ。

食べられないからといってどうと言う事は無いが、食べられれば、とっっても幸せだなぁ。

だって、幸せって、幸せだもの。

とりあえず、夢の中で現実世界より一足先に食べてこようっと。


しかし、わしって、しょこたんが本当に好きなんだな、よく考えてみると。


これを御覧のあなたは好きな人やモノはありますか?

わたしはどうやら、しょこたんが大好きなようです


御覧いただきましてありがとうございます。

そんな貴方に私から心よりの笑顔をお贈りいたします


さぁて、ビーフシチューを食べに夢の中へでも行って来るかな。

糸と針を持ってね

未来の変わり者に向けた雑記


暑い。

と言っても、もう秋はすぐそこまで来ている。

現在22時、室温は34度。湿度は50%。

この文章は、未来の変わり者の目に触れる可能性だけがあるので、このような情報も書いて行かなくてはならない。

遠い未来、21世紀の人間がどの様なことを考え、どのような環境にあったのかを知りたい事もあると思うので、そのヒントになれば嬉しい。

私個人が書く事は断片的でも、それを寄せ集めれば、21世紀の人間のおおよその姿が見えてくるに違いない。


BGM : Stanislav Bunin - Bach: Ich Ruf Zu Dir, Herr Jesu Christ, BWV 639


21世紀になっても、バッハを聞く人間は存在している。

これを読んでいる遠い未来でも、きっと、大昔の音楽を聞く人は居るのでは無いだろうか。

その人が、21世紀の音楽を聴いているかどうかは分からないが、何か聞きたくなったら、しょこたんの音楽などはオススメなので聴いてみて欲しい。

未来のデータベースの中になら、その情報はある筈だから調べてみて欲しい。

情報は容易に時間を横断できる。

21世紀でも、過去限定であるが、何百年、何千年の昔にアクセスする事が出来る。

未来の世界では、それがもっと幅広く、もしかしたら、未来の情報へもアクセスできているかもしれない。

そしてこの文章によって、2012年の人間の断片にアクセスする事が出来る。


ここは東京だが、夜は暗く、星空が見える。

月には一切建造物はなく、望遠鏡で見れば、クレーターが見えるばかりだ。

大きな歴史的事実はそちらでも簡単に調べることが出来ると思うので、ここでは歴史に残らないような、もっと細かな事を書いていこう。

外の様子はというと、飲み物を売る自動販売機が10m置き位に設置されている。

ここは大通り沿いだが、この時間でも交通量は多く、0時過ぎまでは車が引っ切り無しに走り続ける。

9月の中旬だが、まだ秋と言うには暑く、紅葉も始まってはいない。

紅葉が始まると、街路樹のスズカケノキが大きな葉を落とす。

近所には光が丘公園と、石神井公園という大きな公園があり、紅葉の季節になったらこのブログでもその様子を写真で紹介する予定だ。

21世紀の日本人は紅葉狩りが好きで、シーズンになると、紅葉の名所は車の渋滞が出来る。

遥か未来の世界ではどうなっているか分からないが、今の日本では、紅葉を見ると言う目的の為だけに何時間もかけて遠出する。

21世紀の人間にとっては当たり前の事でも、仮にこれを10000年後の人間が読んだとしたら、仰天するかもしれない。

21世紀には買い物と言う概念があり、紙や金属で出来た券を食べ物やほしい物と交換できるようになっている。

ちなみに私はそのための券を牛の皮で出来た黒い財布と言うものに入れている。

これもデータベースを調べればどんな物かわかると思うが、牛の皮が使われていると言う点は少し驚かれるかもしれない。

野蛮かも知れないが、21世紀の人間にとっては珍しい事でもない。

ちなみに、革靴という牛の皮で出来た靴も持っている。

ただ、私が持っている動物の皮でできた装飾品はそれくらいで、後は大体石油製品や綿で出来てものがほとんどだ。

そういえば、21世紀では石油と言う化石燃料を使っているが、これはあと100年は持たないとされているので、これを見ている人が遠い未来の人ならば、石油を見た事も無いかもしれない。

石油については調べてもらえばわかると思うが、我が家では石油ストーブと呼ばれる暖房器具を使用している。

これは、厳密には灯油と呼ばれる原油を生成した物を燃焼させて暖を取る装置で、湯を沸かす事も可能だ。

二酸化炭素をはじめとする様々な有毒なガスが出るので、定期的に換気しなくてはならないが、費用と暖房能力の点で優れている。

でも、そう遠く無い未来、燃やす灯油が無くなると思うので、そうしたら、電気ストーブを使うことになると思う。

と言っても、21世紀の東京は暖かいので、厚着をすれば、真冬でも暖房無しで過ごす事は可能だ。

現に私の部屋ではストーブは使わない。

ストーブはあるが、それを使うのは私以外の人間だ。

まあ、石油の事などは多くの資料があると思うので、興味があったら調べてもらえば良いと思う。

私個人に事については、このブログに色々と書いてあるので、そちらを読んでもらえれば、今の私が何を考えて、何が好きで、何をしているのかは大体わかると思う。

そういえば、この文章は、書いた瞬間にかこのものになり、読む人全てが、書いた瞬間の私にとっては未来の人と言う事になる。

21世紀にこれを読んだ人は、多分面白くもなんとも無いかもしれないがお許しいただきたい。

これは、少なくとも数百年は未来の人間、もしくはそれに相当する知性に向けたものなので、今の私たちが読んでも、つまらないと思う。

でも、こういうどうでも良いような情報は案外保存されずに消え去ってしまうものだ。

私が子供の頃はデジカメも無く、写真が高価だったので、住んでいた場所や近所の写真はほとんど残っておらず、ネットで調べても全く見当たらない。

そこで最近は出来るだけ写真を撮る事にしている。

それは特別なイベントだけでは無く、ありふれた日常の光景も意識的に撮るようにしている。

そうしないと、その光景は永久に失われてしまうだろうから。

ただ、最近はストリートビューという便利なサービスがあって、あれが更に発展すれば地球上全ての日常のありふれた光景を永久に保存する事も可能だと思う。

でも、googleとて一企業であり、永遠に続くとは限らない。

それに、いくらストリートビューが発達しても、私の家の中にまで来る事は無い。

だから、これからもその様な個人的な記録を続け、未来の誰かの為に、こうして残して行こうと思う。

ちなみにアメブロが無くなっても問題は無い。私もサイトを開いているし、絵ならば、他のサービスにも投稿している。

この文章は、其の時にバックアップを取って、別の場所に移転させ、アーカイブは私のサイトなどにも公開するので消えはしない。

まあ、未来の事は分からないが、残す意志があれば、必ず残ると思う。

もし消えても、まあ、いいじゃないか。

未来のあなたへ、今後も書き続けよう。

もっと色々と書く事はあるから。


BGM : Stanislav Bunin - Bach: Jesu, Joy Of Man's Desiring

何を書くか考え続ける

地を這い、爪を立て土を掻き毟りながら、ほんの僅かずつ先に進むしかない。

それが、道だ。



私の頭の中には既に答えがあるのだろうか。

脳を物理現象と捉えれば、決定論に従わざるを得なくなり、自由意志は否定される。

ならば既に答えは存在している事になる。

私は思考する事が出来るのだろうか。

しかし、例え自由意志が無くとも、外部からの入力は予測不能だ。

その予測不能な入力に対する出力そのものは決定されていても、それが入力されるタイミングは決まっていない。

外部入力の不規則性によって、擬似的な自由意志が出現すると考えられる。

つまり、意思は入力によってのみ仮の自由を得る事が出来る。

入力が必要だ。入力をしよう。


などと言う意味不明な供述を繰り返しており・・・・



BGM : THE HIGH-LOWS - 日曜日よりの使者



今は文章を書くターンだ。

絵を描くターンの後は、文章を書くターンになる事が多い。

そして、このような文章が読まれる事はほとんど無い。

しかし、この前書いた、このブログの役割の通り、私はそれでも書き続ける。


昨日のブログアクセス数は5だった。

見知らぬ皆さん、ありがとうございます。

やはり、文章よりも、絵や写真があると、アクセスされることが多い。

多いと言っても、1とか2だけど。



絵について書こう

私は大首絵が好きだ。

大首絵とは、浮世絵の一種で、顔のアップを描いている絵だ。

私はあれが好きで、だからそういう絵を描くのが好きだ。

それと、全身を描くにはPCのメモリが足りない、と言う理由もある。

でも、決して全身を描くのが嫌いな訳では無く、躍動感を全身で表した絵が好きだ。

とくに、昔の絵、ギリシャやローマの彫刻とか、ダビンチやミケランジェロの絵が好きだ。

特にミケランジェロの躍動感のある絵や彫刻が好きだ。

だから、PCのメモリを増設できたら、そんな絵を描きたい。

でも、メモリがどうのこうのと言う以前に、大首絵が好きなので、これからもメインは今描いている感じの絵になるとおもう。

よく、「10000時間すれば天才になれる」などと言うが、あれは正しくない。

なぜなら、天才とは実体では無く、関係であり、役割であるからだ。

誰かがその人を天才と感じ、そして天才と認める、その関係性においてのみ、天才は天才として存在できる。

さもなくば、ゲームが好きな人間はゲームの天才になっているはずだし、私はざっと計算しても数万時間は描いている筈だから、天才になっていなくてはおかしい。

でも、現実は御覧の通りだ。

つまり、どれだけ描いたかは正直言ってあまり意味が無い。

天才に必要なのは、天性の才能と、運だ。

だから、今の私に出来る事は描くことしか無い。

天才にはなれなくても、描いていれば、近所で一番の絵が上手い人、位には成れるかもしれないから。

問題なのは、いくら上手くても、それだけでは何の意味も無いことだ。

宇宙の果てに、どんな上手い絵があっても、そんなモノは何の意味も無い。

宇宙の果てにあるこれを、人々の前に持って来なくてはならない。

ただ、宇宙の果ては、果てしなく遠い。

宇宙の果てから、地球まで行く方法を、私は知りたい。

いつの間にやら宇宙の話になっているが、これは絵の話だ、絵の話を続けよう。

絵を描くのは楽しいが、それと同時に難しい。


例えば



ゆうきの話



この絵を描くのには20時間かかっている。

つまり、これを描いている20時間は他の事が出来ない。

この絵は丸一日を全て費やして描いたので、それだけの価値のある絵であるべきだが、果たしてどうか。

公開後、この絵が見られた回数は合計で数回だ。

数回表示されるだけの絵を描くのに20時間かけて良いものか、少し考える必要がある気もする。

描く事そのものは苦でも無いが、それによって消費される時間が、適切な利用方法だったかが、少し気になる。

人生は有限だ、だから時間は有効に使わなくてはならない。

絵は細部にこだわるほどに時間は必要になる。

だから、持っている時間を考えて描かないとならない。

この絵は寝子を大量に描いたので時間がかかってしまった。

絵を描くのは楽しいが、何を描くか決めるのは少し大変だ。

どれくらい時間が掛かるかもそうだが、それ以上に、描く意味があるか、それを見つけるのが大変だ。

なせ描くのか、これを見つけるのは意外と難しい。

しょこたんの絵を描くにしても、どんな絵を描くかで色々と考える。

半分以上描いた時点で気に入らずに止めてしまう事もたまにある。

だから、何を描くかには多少時間を掛けても、トータルで見た場合には、良いと思う。



BGM : The Carpenters - Top Of The World



秋は良い季節だ。

眠くなるが、私の好きな梨や葡萄が出回る季節だ。

紅葉も好きだし、気候が過ごしやすくなる点は、クーラーが部屋に無い身にとっては有り難い。

絵の中にもそろそろ秋を取り入れよう。

そして、秋は何より夜が長い。

私は夜が好きだ。

落ち着くし集中できる。

昼間の太陽も嫌いでは無いが、何かを描いたりするのは夜のほうが、はかどる。

さあ、秋の夜長に絵を描こう。



しょこたんぶろぐを読もう

今日も、しょこたんぶろぐを読む。


・・・なるほど、甲状腺か。

私は基本的にこう言う話題はあまり書きたくない。

何故なら、医学的な知識が皆無だし、数値データに対する信憑性の検証が出来ないからだ。

だが、その事実をあえて無視して、直感を基に書くことなら出来る。

過去を変える事は出来ない。

責任者を見つけ出してつるし上げても、幸福にはなれない。

今すべき事は簡単で「検査と治療」だ。

日本は世界一、医療が発達している。

今それが試されている。

私がこの話題に対して書ける事はこれ位だ。

幸運と健康を、心から祈る。


気を取り直して、しょこたんぶろぐを読み進めよう。

いよいよ梨と葡萄の季節だ。

私が大好きな果物が沢山取れる季節だ。

スイカや梨などの酸味の少ない果物が私は好きだ。

柿も好きだが、これは冬なのでもう少し待たねばならない。

今年は幾つ梨を食べよう。

葡萄を生で沢山食べられるのはこの季節だけなので、出来るだけ食べよう。

ぶどうジュースは好きなのでよく飲むが、やはり実のままの葡萄は美味しい。

収穫の秋、私も今年の秋は人生の収穫を少しくらいは得たいものだ。

ん、得られそうな予感がする、なんとなく、そんな気がする。

まあ、それはともかく、秋の収穫を楽しもう。

あと、近所の公園とかの紅葉を写真にとってこよう、まだ気が早すぎるかな。


しょこたん裁縫をしたがる、か。

私はしょっちゅう裁縫はしている。

穴の開いたズボンを縫ったり、ぶっ壊れかけた座椅子を縫い合わせたりしている。

あと他に、いつも持ち歩いているウサギのぬいぐるみに穴が開いたときに直したりしている。

たぶん、裁縫はかなりするほうだと思う。

それにしても何故裁縫なのだろうか、「持ち歩くだけではなく、したほうが良い、と言われた」と書いてあるので、開運とかそういうものなのかもしれない。

運気上昇とかはともかく、出来ないよりは出来た方が良いのは確かだ。

絵を描くのが上手いので、裁縫もきっと上手なはずだ。


長くなってしまった。

続きはwebで、と言うことでここら辺にしておこう。


ここまで読んでくださったあなたと、その周りの全ての人が笑顔でありますように。

そして、何よりも、しょこたんがギザかわゆすである事を改めて強調しておきたい!!

雑記を書くよ

絵を描いていると、ブログを書くのを忘れてしまう。

でも、もちろんしょこたんぶろぐは欠かさず読んでいるよ。


絵を描き始めると、他の事を考える事が減る。

このブログは、思考を出力する物だから、絵に対して思考が集中すると、それ以外の思考をあまりしなくなる。


最近分かった事だが、このブログ、書いた直後にアクセスがあると言う事は少なくて、しばらくたってからアクセスがある事が多い。

ブログの寿命は3日だとは思ってはいるが、それ以降も決してアクセスが無くなる訳では無く、ポツポツと見てくれる人は現れ続ける。

これは、生鮮食品と乾物との違いのような気がする。

乾物だって美味しい。

生鮮食品としてのブログは3日しか持たないが、乾物になったブログは、数こそ多くは無いが、いつまでもアクセスは続く。

ただ、乾物になれる文章となれない文章はある。

といっても、乾物にすることを前提に書いたりはしないけど。




絵を描こう

イラストを有料で描く人が集まっているサイトを見かけたので少し見てみてた。

いろいろな人がいろいろなイラストを描いていた。

それを見て「絵の価格が安い」と感じた。

どの絵を見ても、それを描くのに要する時間を時給換算すると、200円以下位だと思われる。

それとも、よほど高速に絵を描ける人が何百人もいるのだろうか。

あれならタダで描いたほうがマシだ、と感じた。

タダで描く代わりに、絵の中に自分の名前やURLを入れたり、リンクを貼ってもらったりした方がよほど有益な気がした。

そして同時に、あれ以上の料金を取れないのが実情だとも感じた。

ちなみに1枚1500円位だった。

つまり、イラストを普通に売るだけでは、到底生活は不可能だと言う事だ。

私はイラストを売る予定は無いが、それで生活する事はそもそも難しいと感じた。

イラストと言えば、私はオリジナルのイラストや似顔絵を無料で描くという試みを行っている。

私が絵を描く目的は、画力の向上、そしてその画力で漫画や絵本を描く事にある。

だから、イラストを無料で描いても何の問題も無いので、イラストを無料で描くと言う試みを行っている。

と言っても、今の所、依頼は半年で1件のみで、ほとんど何の反応も無い。

つまり、必要の無いモノはタダでもいらないと言うのが現実だ。

そう考えると、有料で売れると言うのは、相当凄い事だ。

でも、もう少し高く無いと、描く人が描いていられなくなる気がする。

ちなみに私がもし描くイラストに値段を付けるとしたら、今の絵のクオリティで6000円~位が妥当だと思う。

内容や使用条件によって価格は変ると思うけども。

でも、その価格で売れるイラストを描くのは、大変だと思う。

タダでも誰も欲しからないのだから。

プロの漫画家の原稿料が1ページ数千円だと言う事を考えれば、まあ、イラスト1枚1500円でも必ずしも安くは無いのかもしれないけど。


今日もまた絵を描こう、プライスレスな絵をね。



食べ物






メガ寝子しょこたん


ゆうきの話


メガネと寝子耳を装備したしょこたんです。

横にいるのはメガネを掛けたショコラですが少し丸っこいかも。


それにしても、ますますメガネしょこたんはママに似て来ている。

しょこたんのママもとってもチャーミングだ。

わたしはメガネが好きなので、メガネを装備したしょこたんはどう考えても無敵だ!!

コルナ

コルナとは、ジェスチャーの一つで、悪運や邪視を祓う力があるといわれている。

ゆうきの話


このジェスチャーをする事で、超自然の力を呼び出す事が出来ると信じられている。

そのほか、へヴィメタルで「Rock on」と言った感じの意味で使われる。

他に、悪魔崇拝等に関連した使われ方もある。

一般的には、悪運や邪視を祓うおまじないとして使われている。

しょこたんはこのジェスチャーをよく使う。

これは、猫を現したものだと思うが、魔よけ的な意味も同時に込めているのかもしれない。

そして、このジェスチャー、どこかで見たことがあると思い調べてみると、この写真にたどり着いた


ゆうきの話

弥勒菩薩(京都 広隆寺) 画像はwikipedia より

弥勒菩薩は56億7千万年後に現れ、人々を救済すると言われている菩薩である。

コルナのジェスチャーから、中指を親指から外すと、まさに弥勒菩薩の指の形になる。


ゆうきの話


七福神の1人、布袋は弥勒菩薩の化身だと言われ、実在の人物と言われている。

つまり、現代に弥勒菩薩の化身が現れてもおかしくはない。

しょこたんのコルナのジェスチャーは、弥勒菩薩のそれを暗示しているのかもしれない。


まあ、変人の血迷い事だと思って、笑って聞き流して欲しい。

ちなみに私は無宗教である。

ただ、思い付いてしまってので、こうして書き記した次第だ。


しょこたんが弥勒菩薩だとは言わない。

しかし、少なくとも私は色々と救われている。

そして、それが彼女の役割なのだと、改めて感じる。

溢れ煌く生命力で、人々に喜びを与え続けて欲しい。


しかし、しょこたん弥勒菩薩説はやっぱりトンデモだよなぁ。

でも、いいんだ。

だって、そう思っちゃってるんだから。



人を好きになれないより、人を好きになれるほうが、ずっと幸せだ。

だから、好きになる事を恐れる必要は無い。

その感覚をただ受け入れれば良い。


にしても私は、惚れっぽい。

といっても、、性格的にホンワカした感じの「好き」なので、好きが互いに喧嘩せず、好きがどんどん増えていく。

まあ、いいじゃないか、大好きなんだから。


ゆうきの話-1000  ゆうきの話


ゆうきの話


雑記

このブログの役割


なるほど。

今、このブログの存在理由を発見した。

このブログを書くことによって、アメブロは多少なりとも人が来て栄える。

すると、サイバーエージェントが儲かり、このブログを維持する事が出来る。

このブログが維持できると言う事は、このブログでいろいろなことを書く事を生きがいにしている人、生活の糧としている人、それらの人にこの場を提供していることになる。

つまり、この場の維持に貢献すると言う事が、このブログの最大の存在意義だ。

このブログをこうやって更新することによって、いろいろな人の幸福にほんの少しでも貢献出来ているのだとすれば、これ以上の存在意義はあるまい。

従って、このブログが沢山見られているかどうかは、あまり意味が無い。

もちろん、閲覧者が多い方が、広告収入が多く入り、アメブロがより発展することにはなるかも知れないが、無理に閲覧者数を延ばす事はしない。

無理に閲覧者数を延ばそうとすると、そこには必ず良くない事が生じる。

私には私なりの閲覧者数があり、ある時はそれが増え、ある時は減る。

それでも、この場を維持する事へ貢献していることに変りは無い。

それがこのブログの役割であり、存在意義だ。

そして、私にとっても、頭に浮かんだ事を書きとめられる場所があるのは有り難い。

私はとても忘れっぽいので。

だから、これからも、自分のために、そして、すべての人の為に、このブログは書いていきたい。

と、今、思ったので書き留めた次第だ。



石ころ

道端に転がる石ころは必要だろうか。

もし、その石ころが不要だとしよう。

では、そのとなりにある石ころはどうか。

これもまた不要と言う事になる。

それを突き詰めて考えると、いわば地球全体が石ころの集まりであり、つまり地球は不要であると言う事になってしまう。

地球が無くては我々は生きていけない。

この、かけがえの無い地球と、道端に転がっている石ころには区別が無く、必要不可欠なものである。

だから、地球上に不要な石ころなど一個も無い。

全てが地球そのものだからだ。

不要な人間は存在するだろうか。

少なくとも私は、不要な人間に出会った事が無い。

このブログを御覧の方は全員、私にとって、必要不可欠な存在であり、このアメブロを維持するために貢献しており、それらに関係する人全てにとって不可欠な存在だ。

例えば、寝たきりの人は不要だろうか。

もし、不要だと言うのならば、自分がそうなったときも、自分が不要な存在だと言う事になる。

つまり、寝たきりの人が幸せに生きる事は、将来自分がそうなっても幸せに生きられる事を保証することであり、多くの人の不安を取り除く事に貢献している。

「だいじょうぶ」を身をもって示す事は、人々の不安を除き幸福な人生に貢献すると言う非常に尊い行いだ。

このように考えると、すべての人に存在意義があると言える。

宇宙にとって、石ころと人間は区別は無く、共に無くてはならない存在だ。

私たちは宇宙そのものなのだ。


絵を描こう

今日も絵を描こう。

私の描く絵が、例え誰に見られなくても、そんな事は問題では無い。

でも、この絵の存在を否定する事は、ネット上の全ての絵、そして地球上に存在する全ての絵の存在を否定する事に繋がる。

なぜなら、私の絵とそれ以外の絵の違いを明確に決定する事など誰にも出来ないのだから。

良い絵と悪い絵を明確に区別できないのだから、私の絵を否定する事は全ての絵を否定する事に他ならない。

だから、私の描く絵を、個々人がそれぞれに判断をして好き嫌いを言うのは自由だが、だからといって存在そのものを否定してはならない。

それは全ての絵を否定する事になるのだから。

今日も描こう



しょこたんブログを読もう

しょこたんブログを読む事も、意味がある。

ブログは、読んでもらう事を前提に描いている。

私のような者が読むことによって、その役割を果たす。

つまり、ブログには読者が必要であり、そして、私にはしょこたんが必要だ。

こうやって、様々な文章を書いたり、いろいろなことを考えるきっかけを与えてくれるしょこたんは、私にとって必要不可欠な存在だ。

そしてまた、しょこたんも、私のような存在がいるからこそ、ブログを書く意義があるのだろうし、タレントとして活動できるし、自分の夢を実現させることが出来る。

つまり、それがお互いの役割であり、存在意義なのだ。

両者はコインの表と裏であり、光と影である。

そして両者の間に優劣や区別は無い。

ただお互いの役割が違うだけで、本質は同じだ。

つまり「心」だ。

私もしょこたんも、そして、これを御覧のあなたも、すべての人は皆「心」であり、それ以外の何者でもない。

みんな一緒だ、置かれた立場や役割に違いがあるだけで。

みんなの幸せは、自分の幸せである。

自分が大好きな人の笑顔を見ると、こっちまで幸せになれる。

大好きな人が笑顔になるには、その周囲の人が笑顔で無くてはならない。

そしてその周囲の人が笑顔になるには・・・と、すべての笑顔は繋がっている。

だから、あなたの笑顔は私の笑顔だ。

そして、私の笑顔はきっとあなたを笑顔にする。

世界が笑顔でありますように!!


しかし、ますますしょこたんはママに似てきているよね。

はっきり言ってママもとってもチャーミングだ。

今日の写真の一枚にしょこたんがママに抱きついている写真があるのだけど、この写真が素晴らしい!!

しょこたんの笑顔、そしてママの慈愛に満ちた表情、見ているだけで心が温かくなる。

こういう心の温かくなるような絵を描けるようになりたい。

そういう文章を書けるようになりたい。

この文章をお読みの貴方、是非しょこたんブログを御覧頂きたい。

そして少しでも私と同じ感覚を覚えていただけたら、何よりの幸せだ。



しょこたんは心があったまる



人を笑顔にしたければ、まず自分が笑顔になろう。

楽しい絵を描くには、描いている自分が楽しく絵を描こう。



うん、今日も絵を描いたり、ブログを書いたり、やりたい事が出来た。

そして、しょこたんの可愛い笑顔も見れたし、ブログも読めた。ありがとうしょこたん!!


明日もすべての人にとって素晴らしい一日でありますように。

ありがとう、おやすみなさい。

みぞれバー


ゆうきの話


スイカ味のみぞれバーを食べるしょこたんです。

ちなみにスイカ味のみぞれバーは今の所ありません。

しょこたんが大好きなみぞれバーを食べる様子を描いてみました。

期間限定では無く、いつまでもみぞれバーが販売され続けますように!!

しょこたんが好きなだけみぞれバーが食べられますように!!

でも、食べすぎには気をつけて!!


背景のみぞれバーは、3DCGで描いたものを合成。

そのうしろは、スイカ味のみぞれの結晶をモチーフにしている。

スイカ味のみぞれバー、食べたいなぁ。

しょこたんブログを読もう

今日もしょこたんブログを読もう。

googleがスタートレックになっていた。

私はスタートレックが大好きだ。

しょこたんが大好きになったのも、ひょっとしたら、あのヴァルカン人みたいな耳が理由の一つかもしれない。

もちろんそれだけじゃないけどね。


今日はダンスのレッスンに、ケルディオに、貪欲ッキング、やっぱり色々充実した一日だったようだ。

私は運動神経はいまいちなので、ダンスは多分上手く踊れないけど、中学の時は一応バスケットボール部だったり、卓球クラブだったりに入っていた。

最終的には美術部に落ち着いたけど。

コンサートに行った事は無いけれど、この前の握手会の時のミニライブでみんなが楽しそうにしょこたんにあわせて踊っている姿を見ているだけで何だかとっても楽しかった。

それにしても、どうやったらあんないろいろな振り付けを記憶できるのだろうか。

やはり、体が覚えるまで繰り返すしかないんだろうね。

自転車にしても、ピアノにしても、頭で考えずに、体が勝手に動くようにならないとまともに扱えないだろうから、ダンスもそれと同じ感じだろうか。

私は自転車は乗れるから、あれと同じ感じで、体が自然に動くようになるんだろうね。

ダンスと言えば、ジェンカくらいしか踊った事が無いけど、あれですら何だか楽しい。

コンサートでみんなが一緒に踊る理由はよく分かる。

私も夜中にPCの前でたまに手振りで何かやっている事がある。何をやっているのかは自分でも分からないけど。

あの、インタビューを受ける人が回すロクロみたいな感じだと思う。



ボストンテリアを見ると心の中で絶対「イギーだ!!」って叫ぶよね。

今度コーヒーガムでも見せてみようかな。

もしかしたら、本物のイギーが紛れ込んでいるかもしれないからね。



私は料理は好きだけど、最近はもっぱらポットのみで調理すると言う挑戦をしている。

まあ、半ば強制的だけど。

料理は化学の一面もあるから、手順を覚えれば、ある程度上手くなる。

愛情とかいうのはいわば隠し味で、味を決めるメインの要素は化学だ。

まあ、化学だとか言ったら料理人は怒るかも知れないけど。でも、基本である事は確かだと思う。

いずれにしても、料理が出来ないよりは、出来た方が良い。

貪欲ッキング、なかなか良い感じだなぁ。

将来しょこたんが小料理屋でも開いたら、食べに行ってみたいな。

まあ、しょこたんは性格的に接客業をやりそうもないけど、今の所。

食べたいなったら食べたいな。

縁があったら食べられるかな。

結局は、縁、だからね。

こうやって私がしょこたんブログの事を記事に書くのも何かの縁で、それをあなたが読むのも何かの縁だ。

70億の人間がいる地球上で、この出会い、この縁は、偶然では片付けられない何かがあると私は思う。

縁があったら、きっとまた会える、料理だって食べるし、何か奇跡が起こる事だってある。

まあ、縁と言うモノはそういうものだ。


良いご縁がありますように


特にしょこたんとね!!



魅惑的だ