自分が渡米する際に空港まで見送りに来てくれた仲間の1人が、ゲートをくぐった自分の背中を「頑張れユッケ!!」と、それはまぁ周りの人も振り向く大声で押してくれました。色々な感情が混ざって溢れそうな涙腺をせき止めていた閂も一緒に。そういう歴史もあって、発展途上とはいえ自分なりにアメリカでの生活を確立した今、その張本人をお客さんとして迎えたことは少々感慨深かったのです。


 

フェイスブックに素敵な文章を書いてもらいましたが、実際は間違った電話番号を教えて極寒の駅で待たせるわ、ビールすら準備せずに一緒に買出しにいくわ(しかも払ってもらう)と、それはだって祭り騒ぎするほどの(内輪ネタ)スーパーホストっぷりを遺憾なく発揮しました。


 

多くの部分で正反対な性格で、共通する部分が共通しない部分よりも少ないが深い、そして変わらない。だからこそ続き、深まる関係。最近読んだ本の表現を借りるなら、同じ光を当てても、違った輝きを放つ“乱反射する友。そんな友人を持つことのありがたさを改めて思った、楽しい楽しい2日間でした。

アメリカで(未だに)大学生生活をしている楽しみの一つに、Intramural League、いわゆる学内リーグがあります。サッカー、バレー、ソフトボール、フラッグフットボールなどの、様々なスポーツが提供されていて、学生達は自分達でチームを編成して登録、スケジュールに沿って試合を進めていきます。自分が参加するのは、もちろんバスケ。




学内リーグだからといって甘く見ると驚かされます。去年チームメイトだった、Division Iでプレーしたこともある友人曰く、「優勝チームなら、そこらへんのDivision IIの大学に勝てる」そうな。まぁ実際に試合をしたら、同じチームで練習を重ねてきている大学のチームに勝てるわけないだろうとは思いますが、個人個人のレベルに限って言えば、満更でもありません。その友人は密着マークの上から一試合に10本近くのスリーを決めるし、全米屈指の強豪MSUのバスケチームの練習生だった選手がいたり、ヨーロッパでプロをやってたプレイヤーがいたり。そんなプレイヤーが結構ゴロゴロしているので、楽しいのです。




MSUでの生活も4年目となり、うっかり登録を逃した1年目を除いては、今回が3度目のリーグ。4年間もこの大学にいて、定期的にピックアップゲームでジムに顔を出していると、結構な人数のプレイヤー達と顔見知りになるものです。それに加えて、4年間で500人以上の生徒をクラスで教えて来た事もあって、相手のチームに知り合いや元生徒がいる、なんて事がかなりの確率で起こります。4年前に自分の生徒だったフレッシュマンが、逞しいシニアになって相手として現れるというのは、彼らにも同じように時間が流れていたんだな、と感慨深くもなります。たまに、暫く見ない内に物凄く太ってしまい、Hey Yusuke!と声を掛けられてくれても、一瞬「え、誰きみ?」となってしまう生徒もいますが。。。




 

おそらく最後のリーグとなる今年は、今までで一番のチームに恵まれました。知り合いのチームに誘われた形になったので、ガードとしてまだ手探り状態な部分もあるけれども、中と外のバランスが取れた、いいチームです。先週の試合は、2m(間違い無く100キロ強)のおっさん風センターを中心とする手強いチームを相手に、序盤の15点ビハインドをひっくり返して、終盤の小さなリードを守りきって勝利を収め、いい手応えを摑みました。自分の出来も、ここ一年では一番のパフォーマンスで、開始5分でコートに入ってからは、試合終了までフル稼働でした。いいゲームの中に1人だけアジア人が混じっていたせいか、途中からアジア人の学生達が集まって応援してくれてました。恥ずかしかったので気づかない振りをしてしまいましたが。

それにしても、その相手の2mセンター、速攻のトレーラーで走ってきてボールを受け取り、チャージを狙ったディフェンスをスピンターンで交して決めるなど、上手かった(ちなみに自分は彼からチャージングを取れるチャンスに、闘牛士張りにひらりと身をかわしました。体重差40キロは無理です。)。その2mセンターの他にも、相手チームには、自分が一年目に毎週参加していたピックアップでしょっちゅう一緒にプレーしていたプレイヤーがいて、試合前も試合中もお互い知らんぷりしてプレーしていたけど、ゲームが終わった途端に向こうから物凄い勢いでハグして来ました。彼は2m近くあるアスレティックなSFで、もの凄くいい選手。彼のシュートが外れていたから、こっちに勝機がありました。ずっと見かけなかったと思ったら、MSUのチームの練習生になってたんだと。


そんな楽しいIntramural Leagueも、来週から負けたら終わりのプレイオフ。スケジュールが自分の仕事と重ならない事を祈りつつ、どこまで勝ちあがれるか楽しみです。

滲んだ目に映る、見飽きたハイウェイの風景が、パッと開けた。

ニューヨークからミシガンに移ってきて4年弱、来年の今は、ここにはいない。どこにいるのかはわからないけれど。もしかしたら日本かも知れないし、台湾かもしれないし、このままアメリカかもしれない。はたまた他の国かもしれない。

多くの変化が待っているこの一年。この場で公言できる一番大きな変化は、長くに渡る学生生活に終止符を打つという事。仕事を見つけ、働く、という事。 ミシガンでの生活を始めたときに、それまでの各地を転々とする生活もあって、「この先4年間は次の場所を心配しなくてよい」という一種の安心を抱いたのを覚えている。その4年間が終わりに近づき、次のステージを探す時期になった。

日本での学生時代、卒業後に留学する事を目指していた自分は、就職活動の一環として自己分析に励む友人や他の学生を傍から見ていた。いざ自分の番となり、彼らの気持ちが分かった。なるほど、余計なものを(その"余計なもの"も自分を形成している一部分なのだけど)を限りなく削ぎ落とした自分の芯に近づく作業は、この時期に必要である。削ぎ落としたものが実は大切だと気づいてまたペタリと付け直したりと、行ったり来たりの自己問答を何度も何度も繰り返す。

そんな出口の見えない霧の中に光を射したのは、フィオナから伝えられた、2歳半の息子謙信が自分の留守仲に発した一言。

この半年間、家を空ける時間が長く、謙信が寝た後に帰宅して、起きる前に家を出ることもしばしば(働いている人達にとっては特異な事ではないのかもしれないけれど)。その状況を、2歳半なりに解釈しようとしていたその言葉は、余りに大切なのでここには書かないけれど、家に向かう車の中で思い出した時、涙が溢れてきた。涙の正体は、家を空けている申し訳なさでも、もっと一緒にいてあげたいという親心でもなく、もっと包括的で絶対的な、愛おしさ(字に残すのは、やはり少し恥ずかしいが、ここは頑張る)。

その瞬間、自分の芯に、ようやく手が届いた。 家族が何よりも大切。そんな事は、ずっと分かっていたし、そこに何の迷いもなかった。が、目指した「場所」に限りなく近づいたという事実と、そこから広がる可能性を、澄んだ心で削り落とす(諦める、とは違う)事は、別問題として常に存在していた。 自分がこの4年間、家族に我慢してもらって蓄えてきたのは、環境に左右されない力だというのに、「場所」に執着して、それに付随するものに思いを馳せるなんて、今になって思うと、なんとも幼稚で情けないのだけれど、そこに手をかけようとする事を無意識にブロックする自分自身が、なんというか、しぶとかった。

「夢を追っている姿に励まされる」と言ってくれる友人が、少なからずいる。そう言ってもらえることは嬉しかったし、自分自身、正直出来すぎなその過程を楽しんできた、楽しませてもらってきた。 今回自分が辿り着いた境地と、それが導く自分の次のステージと今後の歩みは、周りの人に同じことを感じさせないかもしれない。 でも、それでいい。それがいい。

本当の楽しみ、生き甲斐は、もっと内側の深いところにある。
教えていたクラスの期末試験の採点をして、成績に文句を言ってくる生徒(毎セメスター恒例)の対応も終え、ミシガンステイトでの7つ目のセメスターが終了しました。

コースワークは先セメスターで終了していたので、このセメスターは卒業論文のデータ収集が主な内容でした。最初の難関はIRB(Institutional Review Board)からデータ収集の許可を得ることでした。重箱の隅を突く様な質問や、理解不能な要求やらで多少躓き、少し予定が遅れてしまったものの、なんとか許可を取得。

120人強の被験者を対象に50日の間に3回データ収集をして(120x3)、100人分の使えるデータを集める事が目標でしたが、被験者の学生達を信じすぎていたようで、Invalid、ようするに使えないデータが出るわ出るわ。
結局、集まったデータを洗ってみると、使えるのはおよそ80人分。
ちょいと凹みました。
とはいえ、データ解析をして結果の輪郭を摑むには十分なので、卒業論文の結果や考察の章にも入っていけます。が、研究の質を上げるために、結果と考察の執筆と平行して来セメスターも引き続きデータを収集、100人分集まったところでもう一度解析、数字を修正、といった流れになりそうです。

冬休みは、ミシガンに残ります。


デトロイトの空港にて、イーストランシング行きのバスを待っています(後半は帰宅してから書きました)


昨日は東京タワーを文字通り見上げるチャペルにて、兄夫婦の結婚を祝福していました。緊張している兄と、それを微笑みながら見つめる新婦。身内が言うのもなんですが、絵になる二人でした。そんな二人を祝福してくれる出席者の方々の暖かい眼差し。スケジュールは中々厳しかったけれど、その場にいることが出来て、本当によかったです。二次会で流すために、式と披露宴のビデオ撮影の役を任され、自分なりに遂行しましたが、映像が多少ぶれていたのは仕方ありません。


一つ違いの兄とは、小学校、中学校、それに高校と、同じ学校に通いました。一緒に通学して放課後も一緒に遊んだ小学校時代、テスト前に夜遅くまで共に勉強して、もう一頑張りするぞ、と夜食を作ったものの満腹になり二人して寝てしまった中学時代や、思春期になり「学校では俺に話しかけるな」とツンツンしたりもした高校時代。いつも、自分が通る道を先に歩いてくれた事に、自分がどれだけ助けられたことか。


自分が留学を決めた時には、援助金だと言って知らぬ所でコツコツとお金を貯めていてくれたり、日本を発つ際には、「こっちの事は俺に任せて、思い切り勉強してこい」と送り出してくれました。自分がアメリカで何かを達成する度に、自分の事のように喜んでくれる、そんな兄です。


式の後に、妹と話をして分かったのは、自分達が兄の晴れ舞台で泣きそうになったのは、同じ理由だったということ。そんな3人兄弟は、両親が自分達に与えてくれた宝物です。その兄に、最高のパートナーが見つかった事を、家族全員が心から喜んでいます。ほんと、こんなに彼にピッタリで、その上に綺麗なお嫁さんが見つかるとは。披露宴のスピーチでも触れられたように二人の出会いには必然的な部分はあるにせよ、幸せものです。


兄の高校時代の友人達(自分にとってもお世話になっている先輩方)に祝福されている兄の姿は、自分を幸せな気持ちにしてくれました。二次会の乾杯の挨拶では、それを聞いている兄が涙を堪えているのに気づきました。それは挨拶の言葉そのものだけによる涙でなく、挨拶をしてくれている親友との関係を物語っている涙のようでもあり、それがまた嬉しかったです。


また、先輩方は二次会の前に競馬場に行き、「アイムユアーズ(I’m yours)」という結婚式に相応しい名の馬の馬券を皆で買って兄にプレゼントしてくれました(二次会にて携帯を通してレースの様子を伺う彼らの姿は他の参加者には不思議に思われていたことでしょう)。こういう、彼らと兄の友人関係が伝わってくるエピソードは心に残ります。レースの結果はどうあれ、彼らの気持ちと共に、その馬券は大切に保存されると思います。2人の先輩達が、兄の結婚式のことをブログに書いてくれました。こちら  と こちら です。 ありがとうございます。


書きたいことはまだまだありますが、明日から始まる自分の日常に備えなければいけません。兄のサポートがあってこそ始まり、そして続いている自分のアメリカでの生活。一日たりとも蔑ろにできませんから。



亮、里美さん、おめでとう!



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