ジャック・ラカンと能面 | 京都を遊びつくすブログ

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今、山折哲雄さんの『能を考える』を読んでいます。

しかしですね、

昨日、美術の先生とお話した濃密な内容に心が引っ張られすぎて、

全然進まないことをここにご報告いたします。

いやそれもそうなんですが、

この本の内容もすごく豊満で、

私の走らせるメモも、いっぺんに本の余白を埋め尽くしています。



えー、ホントに色々書きたいことが満載なのですが、

今回は山姥と般若について書きたいと思います。

ある日、山折哲雄さんは、白洲正子さんとごはんに行ったとき、

白洲さんから言われたことをずっと心に引っかかっていたんですって。

「女の面は、翁の面に対応するようなものがない。

 山姥とか般若とかになっちゃう」

という言葉だったそうなんですが、ここで山折さんは、

鈴木大拙さんの山姥論を引用してこの章を結んでいます。

その鈴木さんの言葉はこうでした。

「愛とはなんだか、若々しくて、見た目の美しいものを

想像しがちだが、本当はそうじゃない。よく働く農婦のように、

やつれた姿をしている。」

つまり、山姥とは、愛の形なんだと。

あー、こういう考え方もあるなとも思いました。



しかし私は、違う考え方もあるんじゃないかと思いました。

以前、野村万之丞さんが記した『マスクロード』という本を

読んだのですが、この本の内容には、うろ覚えですが、

以下のような内容が書かれていました。



現在の能では、翁(じいじの象徴)、父尉(パパの象徴)、

千歳(ボクの象徴)という構図がある。

大陸に残っている芸能には、

じいじ、パパ、ボク、そしてママ、という、

時間と性という座標を基にした宇宙観を表現したものがある。

しかし観阿弥はそれを芸能から芸術に昇華するため、

もしくは政府に認められてお抱えとなるため、

ママという象徴を捨てて現在の構図とした。



との内容が書かれていたように記憶しています。

私は能のプロではありませんし、

その本も現在は手元にありませんし、

間違っているかもしれません。



したがって現在の日本の能に、

翁に対応する女性の面が無い、と考えることができるかも

しれないと思いました。




それともう一つ考えられます。

フランスの精神科医、ラカンの言葉、「女は存在しない」が、

能に表現されている。

えーっと。。。

そもそも私がラカンの言葉の解釈を間違えている可能性もあるワケですがw

「女は存在しない」という意味が、

男性からすると、男性が女性を追い求めても追い求めても掌握できない

女性からすると、今ここに女としての肉体があるにも関わらず、

自分の女性性を追い求めても追い求めても掌握できず、

その末にヒステリーになってしまう

と仮定しましょう。



そのヒステリーの姿が、山姥だったり、般若だったりするのではないか、

と私は考えています。

世阿弥作の『山姥』には、以下のような謡があります。

妄執の雲の。塵積もって。山姥となれる。鬼女が有様。見るや見るやと。

峯に翔り。谷に響きて今まで此処に。あるよと見えしが山また山に。

山廻り。山また山に。山廻りして。

行方も知らず。なりにけり。

これを、ヒステリーの姿と読むこともできるのではないかと思うのです。



私は常々、山姥や般若の、一般のイメージに腹が立っていました笑

男を追い求める女の卑しい姿と認識されることに。

そして女性の面はそういう面しか残っていないことに。

能の演目でも、男を追い求める女しかいない。

道成寺とか松風とか葵上とか。

でも本当は、男を追い求める形相ではなく、

自分自身を求める形相なのではないかと。

ラカンのいう「女は存在しない」という言葉は、

能面が一番物語っているんじゃないか、

というのが私の仮説です。

このブログを書いた人
山本和華子

自分を変えたい、変わりたい、でも何から始めたらいいかわからない・・・本当は、好きなことを仕事にできたら嬉しいなと思う。そんな方はぜひ下のリンクをクリックしてね♪
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