そんなこと突然聞かれても… | うじのブログ

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うだうだだらだら、鬱患者の日常。そしてホームページ、アフィリエイトの話もちらほら。気が向いたら見てやって下さい。

パーキンソン絡みのリハビリの時に聞かれました。

「一週間後に世界が終わるとしたら何をしたいですか?」

そんなの突然聞かれても…

即答できるに決まってるじゃないですか(笑)。

「特になし、普段通り」

mixi/twitterでつぶやいたか色々考えただけで書かなかったか定かではないけれど、ついこないだ考えたばかり。多分つぶやいた。

「明日世界が終わるとしても、今日私は林檎の木を植え続けるだろう」と、誰だかが言った。誰だか調べたけれどもう忘れたw

アメーバのゲームのいくつかが9/末でサービス終了した。その時も最後まで毎日のルーチンワークで無料ガチャを引き、ちょっぴり強化をし、などいつも通り粛々と最後の日を迎えた。

一般論としてはゲームの話と現実の話を同列に語れるわけではないけれど、ゲームのサービス終了を機に、やっぱり考えはした。現実でもかくありたいと。

そもそも鬱病患者というか鬱気質というか、そういうものなので、自分の終わりとか世界の終わりとかそんなのはくどくど考えているのだ。

自分の終わりと世界の終わりは自分にとって等価であるとか、そもそも明日終わるのと50年後に終わるのとにさしたる違いはないとか。例え不老長寿となったとしても、究極は宇宙の寿命には抗すべくもなし。

まあ、そんな話はともかくとして。

リハビリ時の質問は、リハビリの目標設定をどうするかに於いて、より深く何を望むのかを知りたいとのこと。よく意味がわからなかったけれど、今にして考えればQOLの話なのかなぁ、とぼんやりと解釈している。普通に歩ける様に、というのが難しい場合にどういう代替目標を設定するのが満足度が高くなるのか、とかそんなの。

それはそれで難問だけれど、まあ歩けなくなったらなったで仕方ないだろう。社会保障に対する負荷の小さい方向で、自分の生命(知的活動)維持に適当な選択肢を選びたいと思う。

要は、例えば体が一切動かなくなったとしても、ここでやくたいもない事を書き続けたり、役に立たないソフト組んでみたり、2ちゃんで「わんわんお」とか「ぬこー」とか「一日一韓」とか「いいから竹島返せよ」とかどうでもいいこと書いたり(「おっぱいおっぱい」とかはやらないw)出来れば大体満足できるし、生きている意味もあるだろうとは思うので、そんなことが出来て、さらにそんなことを継続できる程度に体の臓器などを健全に保ち、などで、自分で稼げるならそれなりに欲を出して、稼げないままならば社会に対して折り合いが付く程度で生活を向上(あるいは維持)させてもらいたい。

うん、この線で行こう。

閑話休題(←今まで脱線だったのかよ)

世界の終わりにやるべきこと。まぁ、お世話になった人や迷惑かけた人に挨拶するぐらいはした方が人として良かろうとは思うが、それなら何故今していないのかを考えると、突然世界の終わりが近づいて出来る様になるとは思えない。

偉い人は言いました。練習で出来ないものは本番で出来るはずが無いと。何でマスコミは日本人初の9秒台を大きな国際大会で期待するのか理解に苦しむ。また脱線した。

と言うわけで、世界が終わる前にやるべきことがわかっているならば今のうちにやっておくべきなのは自明。自分が不慮の事故で終わる可能性が常に存在するから。

最後の瞬間をどう迎えるかは、色々あるだろうと思う。社会的に許されない犯罪行為を欲望のままに続けるバカ共も出てくるだろう。何せ世界の終わりなのだ。

だが、私の場合は普段通りに過ごしたい。サービスが生きていればネットでバカ話をつぶやき、飯を食い、居眠りをし、そんな感じで。

そして最後の瞬間はやはりネットが生きていれば、世界の終わりに際してもサービスを支え続ける有志の人々に感謝しつつ2ちゃんで実況を続けるのだろう。「世界の終わりカウントダウンスレ」とか乱立するんだろうなぁ。私は早すぎると付いていけないので流れの遅い、いつものスレに張り付いていられれば良い。

最後のセリフは多分「世界の終わりキター」。

「キター」は例の顔文字が入ったヤツを単語登録しておこうかずっと迷っている。そう、常に世界の終わりに備えて(迷って)いるのだ。

結局何が言いたいのか良くわからない話になったが、世界の終わりとかいつでもどうでもいい、という話と、文中に書いたリハビリでどうにもならないならどうするかの方針ぐらい。

まぁ、どうせこの文章も世界の終わりにはなくなるのでどうでもいいのですが。