去年の年末から1月中は
あの人から連絡がきていた。

一度、夜遅くに家のインターホンが鳴ったこともあった。

だけど出なかった。



そして2月はあの人から連絡がこなかった。

安心した。


お願いだからもう連絡してこないで…

会いにこないで…


もう私のことは忘れてくれていい
もう死んだと思ってくれていい

それくらいに思っていた。



そして3月上旬。

また連絡があった。

寝ていたから気づかなかったけれど
不在着信に表示された番号は、見覚えのあるものだった。

だけど折り返すことはない。


着信の秒数が表示されていた。

普通だったら留守電に切り替わるまでの
だいたい16秒くらいが表示されるのに
あの日の表示は、「03秒」だった。

あのわずか3秒

あの人はどんな気持ちで電話をかけていたのか。

3秒ですぐに電話を切ったのは
私のためを思ってだったのか…。

もう二度と電話に出ることはない私の決意を
思い知ってくれたのだろうか。


自分の気持ちの乱れを感じながらも
必死に落ち着かせて
ただただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。



そして、あの日。

3月11日。


あの日、私はひとりで仕事をしていた。


仕事の忙しさはピークで
時間との闘いだった。


そんな時、揺れを感じた。


まさかね… と思った。


まさか、すぐに静まるよね…って。


だけど、静まるどころか
感じたことのない揺れは増すばかりで

壁にあった本棚は重すぎて人間の力では動かすこともできないはずなのに
その本棚がガタンガタンと揺れ動き
本がバサバサと落下し
CDも音をたてて何枚も飛んできて

テレビも押さえないと簡単に落ちてしまうほど

棚の上の雑貨類はあっという間に落下

向こうの方では何かが落ちて割れる音がした。

ガラス戸がガシャガシャと不気味な音を発し続けていた。



夢かと思った。

まさかのまさかだった。


必死に片付けようとしていた仕事の手は止まり
だけど納期に間に合わせなくてはいけないという思いもあり
自分の身の安全よりも、データの保存を優先している自分がいた。


初めて、死の恐怖を感じた。


この日、死んでしまうのかと思った。

こんな、たったひとりで。

誰もいない場所で、ひとりで遺体となって発見されるのか、と。



信じられない話かもしれないけど
人生を振り返ってしまった。


今まで生きてきた人生、悔いはないだろうか

やり残したことはないだろうか

このまま死んでしまっても
後悔はしないだろうか…



あの人と過ごした時間に後悔はなかった。

精一杯誰かを愛したことに満足はしていた。


だけど
あの人に、顔を見て直接「さよなら」が言えずにいるまま
死んでしまうのか…

このまま。。



家族の顔が浮かんだ。

それから…

あの人の顔も。


浮かんだのはほぼ同時くらいだったと思う。


怖くて怖くて

ひとりでいる不安と心細さと
誰かに助けを求めたいのに
誰に求めていいのかわからなかった。


助けて、怖い




テレビをつけた。

信じ難い映像が流れていた。


あるキャスターが言った。

「身の安全を第一にはかってください。
周りの人と助け合ってください。
小さなお子様は、ぎゅっと抱きしめてあげてください」


周りに人がいなかった。

誰かにぎゅっと抱きしめてほしかった。


誰かに、しがみつきたかった。

せめて誰かとこの恐怖を共有したかった。


怖かった。
心細かった。



あの人にしがみつきたかった。
あの人に助けを求めたかった。

「怖いよ」って言いたかった。

「大丈夫か?」って言ってほしかった。

飛んできてほしかった。
一緒にいてほしいと思った。


だけど…
できない。しない。


あの人は、真っ先に結婚相手に連絡をしたんだろうか。

結婚相手は、真っ先にあの人に連絡をしたんだろう。


「大丈夫?」ってお互いを心配し合ったんだろう。

夫婦の家の心配をしたんだろうか。

お互いの家族の心配をしたんだろうか。


夫婦の絆が
家族の絆が
一層強くなったんだろうか。


羨ましかった。

世の中の夫婦が、家族が
羨ましくてたまらなかった。


誰かがいることが。
助けを求める相手がいることが。
恐怖を共有する相手がいることが。


私は、ひとりだった。


ただひとりで
その恐怖に耐えることしかできなかった。


2月の下旬
結婚式があった。

不倫をやめた今となっても
結婚式は恐怖だった。


いとこの結婚式だったから
親族が集まっていた。


不倫をしてから、いつもいつも
後ろめたい思いでその場にいたし

実家に帰るたびに
親の顔を見るたびに
申し訳ない思いと後ろめたさを感じていた。


だけど、もう違う。

もう不倫の呪縛からは解放されていた。

だから後ろめたさを感じる必要はなかった。



同じ歳のいとこ(女)は
結婚もして、子供まで産まれていた。

可愛い赤ちゃんがそこにはいた。


羨ましかった。


お父さん…

ごめんね。

私、孫の顔を見せてあげるどころか
結婚もしないで…

今まで不倫なんかしていて

本当にごめんなさい。


父が肩身の狭い思いをしているんじゃないかと思った。


あの家の娘は結婚はまだなの?
もういい歳なのに…
孫はいつになったら見られるの?

そんなふうに言われたり思われたりしているんじゃないか…



お正月ぶりに会った父の姿。

あんなに白髪が増えたんだ…

また少し老けたように見えた。


お父さん、
今どんな思いで見ている?

早く自分の娘にも結婚してほしい?
孫が欲しいよね…?

ごめんね、ごめんね


結局、父に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


父が生きているうちに
父の望んでいる娘になってあげたい。

父の幸せを本気で考えた。




それと同時に
またあの人に対する不信感と憎悪が湧き上がってしまった。


あの人の結婚発覚からもう2年以上が過ぎているのに
不倫をやめた今になっても、苦い思いは変わらなかった。

この2年で何度も結婚式に出席した。

そのたびに苦しくて悔しくて悲しくて
みんなとは違う涙を流してきた。



新郎であるいとこの姿が
あの人に見えた。

新婦であるその女性が
あの人の結婚相手に見えた。

2人は幸せそうだった。



どんな気持ちで…

どんな気持ちで結婚したの…?

どんな気持ちで私と会っていたの?

どんな気持ちで「愛してる」なんて言っていたの?


結婚ってなに?

私への「愛してる」ってなに?

どうして結婚してるのに
ほかの女を愛せるの?

どうして幸せなのに
私を求めるの?


結婚って…

何のために結婚してるの?

どうして結婚してるの?


「愛してる」って?

『愛』ってなに?


わからない
全然わからないよ…



彼から離れて2ヶ月が経っていたけれど
また振り出しに戻ってしまったみたいだった。

2年前と何も変わっていない思いに落胆した。


せっかく不倫をやめられたというのに…




さらに気持ちは乱れたまま
2月を終え、3月になった。



先輩との一件があってから
というか、先輩と別れたその日から
私は泣くようになってしまった。

あの人を想って。


先輩と過ごした時間や先輩の温もりが
あの人を思い出させた。
苦しいほどに。


比べていた。


失礼なことだとはわかっていた。

意識して比べていたわけでもない。

でも、どうしてもあの人が邪魔をした。


先輩にぎゅってされた時
あの人とのそれがフラッシュバックした。

あの人の腕を
あの人の体温を

肌質から肉付きまで
細かいところまでを比べていた。



あの人にぎゅってされるのが大好きだった。

あの人の腕が大好きだった。
あの人の体温も。

あの人にぎゅってされるようになってから
3年くらいの間ずっと
毎回、胸がきゅんとなったし
それは私を幸せにさせた。

それを思い返してしまった。


先輩にぎゅってされた時…


何も感じなかった。

きゅんとしなかった。

ただ、温かいな…と思った。

久しぶりの人の温もりだった。




キスもされた。


キスって、もっととろけるような気持ちのいいものだと思った。

だけど、何も感じなかった。

普通だった。


また

思い返してしまった。


あの人とのキス。

あの人の唇や舌。



顔も
声も
体格も
肌の質感も
骨の太ささえも
あの人と比べていた。


自分の身体を
あの人じゃない男の人に触られるのが怖かった
嫌だった。




先輩と別れてから、自宅に帰って
先輩がいたその部屋で、ひとりで泣いた。


先輩に申し訳ないという思いと
あの人が恋しくてたまらなくて
気持ちがぐちゃぐちゃになって、泣いた。


先輩が残していったタバコの吸い殻。

あの人とは違うタバコだ と思った。



最低だ。

ごめんなさい。




その日から気持ちは乱れまくって、しばらく泣いていた。

あの人の何もかもが恋しくて愛しくて

だけど

絶対に会ってはいけない
絶対に戻ってはいけない
もう戻らない
もう不倫はしない
不倫はいや…


葛藤の日々。




2月はあの人から連絡が来なくなった。

それがせめてもの救いだった。



ただ、1人でもがき苦しんだ。


時間が過ぎるのを待つしかなかった。




バレンタインも過ぎていった。


去年の宣言通り
“(あの人との)バレンタインは去年で最後にする”
ことを実行できた自分を
褒めてあげたいと思った。