先輩が語ってくれた「共和国国旗」への思い | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

トンポ・トンネ 日々イモジョモ

ブログの説明を入力します。

9・9 70周年が近づいているというので
先輩が語ってくれた「共和国国旗」への思い
【8月13日・月曜日】
 何日か前、東京朝高の先輩、といってもひと回りも上の大先輩から「会いたい」との電話をもらった。一世の高齢者の聞き書きをしたり、ウリハッキョ巡りをしたりしているので、こうした突然の「呼び出し」は珍しくない。覚えていてくれたと思っただけでうれしい。
 この日会った先輩は、東京朝高の4期生。地方の旧制中学を終え、東京中高の中級部3年に「編入」、校内で寮生活をしながら高級部を卒業、地方の民族学級で教えた後、朝大に行き、長らく「愛国事業」に携わったと聞いている。
 この4年余り闘病生活を送り、ようやく外出できるようになり、「ギャングの息子」に会いたくなったという。「ギャング」とは、草創期の中高で教鞭をとっていたのアボジのあだ名だ。この日も話は「お前のアボジによく殴られた」らはじまった。
 先輩は8歳の時に解放を迎えた。東京中高に編入したのが1949年。寮生活をしていた時に、警官隊が寝込みを襲った1951年の2・28事件や警官隊が校内になだれ込んだ3・7事件を体験した。その時警棒で殴られ血が噴き出たと、左ひじを見せてくれた。ナメクジが這ったような傷跡がくっきり残っていた。*本誌、47、48号掲載の「東京中高1951年2・28、3・8武装警官襲撃事件」参照。
イメージ 1

 朝鮮戦争当時の中高生活の話も詳しかった。中でも共和国の国旗にまつわることについて生々しく語ってくれた。
 1952年の皇居外苑での「血のメーデー」に参加した時の話だ。共和国の国旗を胸に潜ませ3人の同級生と会場に向かった。着くとすぐ日本の労組の旗を調達し、共和国の国旗に付け替えて会場で振っていたら警官に追われたというのである。慌てて逃げ込んだのが皇居前のGHQの建物。そこでも殴られたと言っていた。この時の傷が額に残っていた。慌ててトイレに潜み、縦1メートル余りの旗をどうするか3人で話し合った。そのままでは持ち帰れない。それで縦に3つに切り分け、彼は「赤い部分」をシャツの下で腹に巻いたようだ。有楽町駅に行くと警官の群れだ。東京駅まで歩くがそこにも警官隊が。ようやく電車に乗り池袋駅に着くと、ホームは警官隊で埋まっていたという。メーデーに参加した朝高生を捕まえるためだ。電車に乗れずに、歩いて中高に向かったという。
 朝鮮戦争に反対して、「朝鮮から米軍は手を引け」と書いた宣伝ビラ貼りと関連したというので、逮捕され48日間、府中刑務所で独房生活を送ったとも。125号という独房の番号も覚えていた。
 先輩は、共和国の国旗事件については、今まで何人にしか話さなかったという。「自分だけの共和国を胸に忍ばせていたかったから…」と。
 瞬く間に2時間余りの時間が過ぎた。
 「今日は急に呼び出してミアナダ…私なりの終活だよ…」と、大きく手をふって改札口を入っていく先輩を見送った。
 「一世が血で築き、守ってきた朝鮮学校、同胞社会をどんなことがあっても守り抜かなければ…トンムがやっていることは地味なことだが、できる限り…」
 優しいまなざしで、励ましの言葉をかけてくれた先輩の姿に身が引き締まる思いがした。(金日宇)
追1・写真は2・28、3・8事件を掲載した東京朝高第四期卒業記念アルバム
追2・GHQ(日本占領 連合国軍総司令部)は、朝鮮民主主義人民共和国創建当初から国旗の掲揚を禁じた。1948年10月7日には、マッカーサー総司令部参謀1部が米第8軍軍政本部部長に国旗掲揚の禁止を指示、翌8日には、第8軍軍政本部副参謀長名義で、国旗とポスターの掲揚を禁じるとのマッカーサーの「決定」を日本全国の米軍基地と軍政府に緊急無電(GX73532EO)で下達、日本警察当局はその指示に従い、「北鮮旗の掲揚禁止に関する国家警察本部長官の通達」を各管区警察本部長と警察隊長に伝達した。(以上、ソン・ムンギュ氏による「在日同胞が繰り広げた共和国国旗掲揚闘争関連日誌資料」よる)
 この禁止措置は、GHQの占領が終了する1952年4月28日まで続いた。
 「血のメーデー」は、その3日後の出来事である。

*加筆して、9月下旬に刊行する『朝鮮学校のある風景』51号に掲載します。