東京第九の夜会・卒業生の活躍
【7月29日・日曜日】
台風一過の晴天、開場四五分前、仮設舞台では、児童たちがミニ公演のリハーサルの真っ最中、売店の準備を進めながら、保護者たちの目は舞台に、先生たちもせわしなく動き回っていた。

とにかく暑い。冷房の効いた校舎に一時避難。鄭校長が男女の若者と話している。
男性・「…撮影は…」
鄭校長・「児童の顔が…自由に…」
男性は、校長の話を女性に英語で伝えてる。
女性は、事前に聞いていた、シンガポールから来た記者のようだ。
男性・「教室の撮影は…」
校長はオーケーを出しながらも、「…案内する…」。先生たちは、夜会の準備で手一杯だ。それではというので、「阿佐ヶ谷朝鮮学校サランの会」のメンバーとして、案内役を買って出た。
まずは美術室へ。女性記者は教室をぐるりとひと回り。運動場が気になるようだ。ベランダに出て、準備が進む運動場を撮り終わると、教室に展示してあるキジのはく製と朝鮮ニンジンが入った瓶にカメラを向けた。
「共和国からの贈り物…一九七〇年代、全国の朝鮮学校に…」。
朝鮮ニンジンの効能は知っているようだ。「長寿」とか「健康」という言葉は聞きとれた。
図書室では韓国で出版された童話や歴史書を…。この何年間、日本政府の制裁で共和国から児童書すら持って来ることができなくなっているという説明に耳を傾けていた。
いくつかの教室は出演者の控室になっていた。それ以外の教室をひとつずつのぞく。児童の手作り感あるポスターや壁新聞が気に入ったようだ。カメラを回し続けていた。
教室からピアノを弾く音がもれてきた。耳慣れた曲だが、ウリノレではない。教室に入っていく。ピアノのレッスン中のようだ。
「○〇トンム?…何しに…」
ピアノを教えていた女性に話しかけられた男性は、少し驚いていた。
「…何年振り…一年生の頃からピアノを…ピアノコンクールでは…」
校内を周りながら、男性が、この学校のかれこれ二〇年前の卒業生で、現在はエンジニアをしていて、シンガポールで暮らしたことがあり、その縁で、シンガポールの記者を案内してきたと、聞いていた。「何年振り」に在学当時の音楽の先生と再会したわけだ。
先生に促されるように、ピアノに向かう。いままで女子児童が奏でていた曲をひき始める。元教師がスマホを向ける。母校を訪れた卒業生が、そこで恩師と遭遇する、ウリハッキョあるある風景だ。シンガポールの記者は、予想だにしなかったその様子にカメラを回す。男性もうれしかったのだろう、通訳することも忘れたかのように、つづいて「アリラン」をひき続けた。

多目的ホールでは、舞踊のリハーサルに励む同校出身の女子生徒の姿を、笑顔で撮り続けていた。
開場三〇分前、そんなことで、ホッコリとして、運動場にもどる。七割がた席は埋まっていた。
校門の前の席では、数日後に訪朝する番場さんが申さんと一緒に七輪を囲んでいた。二人とも「サランの会」の中心メンバーだ。
ビールに七輪焼き肉、それに「サランの会」が出店している冷え冷えのキュウリを食べたかったが、先約があり、後ろ髪をひかれる思いで校門を後にした。
fb友達の李さんから写真と共に、「三〇分後には満席でしたよ〜〜! チヂミ、キムパ、全て完売」とのコメントが寄せられていた。
翌日、「朝鮮新報」を見ると、「くらしの周辺」のコーナーに、「時代と朝鮮籍と海外生活」とのタイトルで、彼の文が載っていた。シンガポールの国立大学の修士課程に留学、企業の内定をもらった後、就労ビザ取得のいきさつが書かれていた。
多目的ホールの前で会った、駅前で飲食店を営む安さんは、「あのシンガポール? それで…卒業生が逞しく育って…こうして母校のために…」と、盛んに感心していた。「あの?」とは、朝米会談のことで、「それで」というのは、「それでシンガポールでも朝鮮への関心が高まって」ということだ。
夜会の前、何日間の暑さをも吹き飛ぶ、そんな爽やかな出会いだった。(金日宇)
*加筆して、九月に配本する『朝鮮学校のある風景』53号に載せます。