『朝鮮学校のある風景』誕生秘話・その1
「統一評論」があって今の『風景』が…
年初、「休刊」を伝えていた「統一評論」がついに三・四月の合併号をもって「幕を閉じた。一九六一年に創刊し、六〇四号。「停刊」ではなく、「休刊」なのでいつの日か「再刊一号」を、そんな淡い思いを胸に会場に向かった。

白山の出版会館に事務所があったとき、昼食後、コーヒーを飲みながら、時には時世を、時には雑誌の編集をめぐってああでもない、こうでもないと論じ合った者たちが崔錫龍編集長の労をねぎらおうと、集まることになった。
この何年間、「点描・朝鮮学校のある風景」を載せてもらっている。原稿の最終確認は、ファックスか、メールで済むのだが、時にはそんな雰囲気に浸りたくて、校正を口実に、その仲間入りをしていた。
朝鮮大学校を卒業して、青年同盟で働き、二九歳の時に統一評論社へ。その後四〇年余り編集に携わった。社長を兼ねた編集・発行人に就いてから十数年になる。休刊は断腸の思いだつたのだろう。それを思うと足が重い。
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朝鮮大学校を卒業して何年かして、統一評論社を訪ねたことがある。当時、事務所は銀座線・末広町駅の大きな通りに面した銃砲店の二階にあった。いやに天井が高い建物だった。資料やゲラ用紙がうずたかく積まれた机の上に赤鉛筆が転がっていた。雑誌の目次には、日本の大御所と言われる評論家や同胞社会で名の知れた先生の名前が並んでいた。黄甲性社長か、朴春日編集長の「いつかトンムの原稿も…」という言葉に、「はい」と答えたものの、新報社で何枚かの百字原稿用紙をようやく埋めていた私にとって、「評論」に原稿が載るなんて、それはとても恐れ多いこと、「いつかは」と思ってみたものの、それは夢のまた夢であった。
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その「統一評論」に原稿が載ったのは、それから十二年経ってからである。
「ソウルでの三泊四日―そこで出会った人々」。ソウルでの水害に対する共和国の支援を機に再開した南北赤十字会談の取材記だ。一九八六年の三月号に載った、元韓国外務大臣の崔徳新と評論家の中川信夫の原稿と並んで掲載された、六ページのその記事は今でも大切にファイルしている。

その後、何年かして新報社を退社した後は、「評論」に原稿が載るという夢は遠のくばかりだった。二年間ぐらいブランクがあって、研究所に席を置くようになって、再びその夢に近づけた。
*次回につづく