東京朝高5期生 卒業して60年 母校での「出会い」 | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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朝鮮学校百景

=東京朝高5期生=
卒業して60年 母校での「出会い」(2015.11.19)
 一時半集合だというのに、一時過ぎには集まりはじめた。
 第一声のほとんどが「元気か?」、そして「○○は来るのか?」だ。
 朝鮮総連が結成した年の一九五五年の卒業生、昨年四月の同窓会には一一人が集った。今年が卒業して六〇年だというので、「最後の同窓会を母校で…」との気持ちから二年連続の同窓会の開催となったようだ。

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 「山を崩して運動場に…」、「林光徹先生が校長だった、もう一人日本人の…」、「トミオカ…?」、「ヤスオカ トミキチだよ。日本人の先生も多かった…」、「順天高校卒として日本の大学に進学したのも…」。
 一九四九年一〇月の朝鮮人学校廃止通告に伴い、東京中高は一九四九年一二月に都立に「移管」された。三〇人前後の日本人教師が赴任し、朝鮮人教師は担任から外され、民族科目だけを担当する講師としてしか残れなかった。一九五二年に高校に入学した彼らは、東京都立時代の生徒、話しは都立時代のことだ。
 「警官に頭を殴られた…」、「女子が勇敢に…」。中学校からの在学生は、中学を卒業する前年の一九五一年三月、三千人の警官隊が学校に押し寄せた出来事を詳しく語っていた。
 校門右手の校舎の一階の会議室から、新校舎に移動。
 「校舎はここじゃなかったか…」、「あそこには寮が…」
午前中は山を崩し、土をならしたという運動場も人工芝だ。組織の一線で働いていた時、中央大会などでたびたび訪れて見上げていた五階建ての大きな鉄筋校舎は、趣のある二階建ての校舎に変わっている。
在学当時の面影はまったくない。校庭を歩きながら、話しは尽きない。普段は顧問だとか、先生だとか、呼ばれている同胞一世、二世が互いの名前を呼び捨てにしていた。傍にいて多少違和感を覚えたが、母校の地に立ち、久しぶりに学生時代に戻っているだろうと思った。
 校舎の応接室でしばしの歓談。
 「来年の三月に八〇に…」、「みんな八〇じゃなかったんだ…」、「一番年上は八一歳?」、「いや、私は八二」
 年齢にばらつきがあったようだ。東京に朝鮮の高校ができたというので、学年を一年さげて入学したという話は珍しくない時代だ。

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まずは慎校長が歓迎のあいさつ。
…来年、創立七〇年を迎えるが、その歩みの中には、五期生の輝かしい足跡が…今年、ラグビー部が全国大会に出場することになったが、忘れられないのは、五期生が在学当時…一九五四年四月にサッカー部が正式に発足し…全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝を…。
慎校長が「一〇年史」に記された、許宗万、禹永玉、元竜淵、李成雨氏らの名前をあげると、みなが大きくうなづいた。中には、亡くなった同級生もいるようで、この場を共にできなかったことを残念がっていた。
高校二年生の男女生徒が、「先輩」たちを迎えに来た。在校生と一時間の交流タイム。李さんは孫がいる教室で話をしたと言い、金さんは話しづらいと言いながら、二~三人ずつ分かれて五つの教室に入って行った。あらかじめ準備をしてきた五人が在校当時の母校について話し、そのあと質疑応答をすることになっている。当初は、校内見学だけの予定だったが、在校生たちが草創期の卒業生から直接話を聞ける機会だというので、学校側がリクエストしたようだ。
同窓会の朴柱栄会長は、朝高を卒業して都内のウリハッキョに赴任し、一九五七年に朝鮮から教育支援金が送られてきた三年後の六〇年四月に給費生制度の第一号として、朝鮮大学校に進学している。在学中に結婚したという話を聞いたことがある。金栄春幹事は、東京大空襲の体験者だ。朝高卒業後、船橋にあった一年制の朝鮮師範専門学校に進学し、一九五六年に朝鮮大学校が創設されると、そこに転入した。朝大の一期生でもある。二人の妹を米軍の焼夷弾で失ったという話を聞いている。韓東輝幹事は、私が朝高在学時、「木工」の先生だった。近々、美術展を催すと話していた。李公海幹事と任秋子幹事とは初対面だった。任幹事の妹とは朝大の同級生だ。同級生の善玉トンムは還暦を過ぎるまで神奈川県の南武のウリハッキョの教壇に立ち、退職したと聞いていたが、今年から川崎のハッキョで一年生の担任として復帰したという、嬉しい話しを聞いた。

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任秋子民族舞踊団を主宰する彼女の教室には、五~六人の団員たちも駆け付け生徒たちと一緒に「舞踊人生」に耳を傾けていた。
交流会は、在校生にも大きな刺激になったようだが、後輩たちの明るい表情に、傘寿を迎えた「先輩」たちはパワーを注入されたようだ。花束を片手に、皆が晴れ晴れとした表情で教室から戻ってきていた。
そして、体育館の地下での二年生たちの公演。透きとおった女子生徒の歌声は、五期生の胸に強く鳴り響いた。華やかな踊りに、みなが青春時代に想いをはせたはずだ。一九四九年に舞踊部をつくった任秋子さんの目はうるんでいた。

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二年生全員が校歌を歌い始めると、五期生が一人二人立ちあがり声を合わせ、席を共にしていた若い先生たちも加わり、最後は参加者全員の合唱となった。

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朴会長のお礼の一言に、生徒たちは頭を垂れて聞き入っていた。
…涙がでました。六〇年ぶりに可愛い後輩たちの元気な姿をみて…八〇の峠を越してこんな場を共にできるなんて、感激です。私も妻も、子どもたちも婿たちも、孫たちもこの学校に通いました。今日、たくさんの感動で涙が…若返りました…母校とは「オモニハッキョ」です。立ち切れない強い絆で繋がっています。守って行きましょう。これからも民族教育の果実がたくさん実るよう力一杯努力してください。コマッスムニダ。

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最後に全員で記念写真に収まった。卒業して六〇年を過ぎても母校を慕い、懐かしむ卒業生と、創立七〇周年を迎える来年、母校の記念行事の柱になる在校生との心を一つにする場になったようだ。
「歩けないので…」、「通院中で…」、「白内障の手術を…」、「事情があって…」など、欠席を伝えてきた同級生にも、このときめきを伝えようと、その後の食事会で話されたようだ。****
*加筆して、2016年1月下旬に刊行する『朝鮮学校のある風景』35号に掲載します。