サラン会総会の日の東京第九 | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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サランの会・五回目の総会へ
【5月9日・土曜日】
 東京第九を支援する「阿佐ヶ谷朝鮮学校サランの会」の五回目の総会に行った。
 校門越しに運動場を見ると、男子児童たちはサッカーのボールを、女子児童たちはバスケットのボールを追いかけていた。

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 校舎の玄関から会場の多目的ホールに向かう廊下には、「阿佐ヶ谷朝鮮学校のゆかりの人びと」と題する、写真パネルが並べられていた。「サランの会」がこの三年取り組んだ成果だ。
長谷川代表が、結成五周年を迎え、「今年度は、ぜひとも飛躍の年に」と開会のあいさつを行った。二〇一四年度の活動報告につづき、杉並区と中野区、新宿区など児童が暮らす各区に学校運営に協力を求める働きかけ、会独自の学期ごと三回の給食と会員による特別授業、会報の刊行と、運動会、夜会、バザー、スキー教室、餅つき大会など、学校行事への積極的参加など、盛りだくさんの二〇一五年度の活動方針が発表された。

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 その頃、運動場では―。

 低学年の児童は、集団下校まで時間があるのか、運動場を走り回っていた。運動場の隅で、二人の女子児童が何やらおしゃべりをしながら砂を掘り返している姿が、目にとまった。





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 高学年児童は、掃除の時間だ。校門付近の担当なのか、三人の男子児童が黙々と掃いていた。座りこんだ児童の手には、ほうきというより、ハケのようなものが握られていた。校門の扉がスムーズに開け閉めできるよう、たまった砂をかき出しているようだ。

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 しばらくすると、下級生が校門前に集まりはじめた。下校時間だ。男子児童は、最後までボールを蹴り続けていた。

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 総会終了後、一〇分間の休憩。いつものように校舎をひと回りして、玄関に戻って来ると、正面の掲示板に「AGG四大陸選手権 銅メダル!!の速報が貼り出されていた。東京都内の幾つかの学校の児童で結成された二チームが朝鮮の正式代表として参加、同校からは三人が選ばれたようだ。大会を前に「頑張れ!!」との励ましのポスターも一緒に貼られていた。

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第二部は李創建さんによる講演。テーマは「日本の中の日朝交流史」だ。
一時間一五分余りの講演、「たくさんの写真をスクリーンに映し出し、紙芝居のように客席と楽しくやり取りしながら、あまり知られていない、日朝二〇〇〇年の世界に誘います」。案内文に書かれていたように、肩の凝らない、とてもわかりやすい講演だった。

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 講演中、厨房では申さんと何人かの「サランの会」のメンバーが懇親会の料理の準備に取り掛かっていた。チヂミを焼く美味しいにおいが漂っていた。

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 講演が終わり、会場の机を並び替え、教員室に行こうとすると、鄭校長に呼びとめられた。
 鄭校長・「探していました。オモニたちが…」
 私・「今学期初めてですよね」
 オモニ会の役員二人が、二階に上がる階段の踊り場の掲示板に「新刊案内」を貼り付けていた。こうした場に出くわしたのは初めてだ。
 私・「いつも楽しみにしています…本の選択は?」
 オモニ・「学年別に任せています…」
二人とも六年生のオモニとのことだ。六年生の新刊書は「五体不満足」。懇談会がはじまり、なぜ、その本を選んだのか、聞きそびれてしまった。

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 新年度初の新刊書は、一年生は「こねこのぴっち」と「ねずみとおうさま」、二年生は「知ってびっくり危険生物のお話」と「かいけつゾロリ」シリーズの「はなよめとゾロリじょう」、三年生は「深海のサバイバル」と「ぼくはこうして生きのこった―東日本大震災」、四年生は「不思議の国のアリス」と「オズのまほうつかい」、五年生は、「砂漠のナイチンゲール」、「ほねほねザウルス」。オモニたちの「気持ち」が込められた「本」である。

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 懇談会には、何日か前の選挙で当選した四人の区議が「サランの会」の会員として参加していた。「朝鮮」は票にならない、むしろ票が逃げてしまうと言われる中、みなが高位当選を果たせたと胸を張っていた。
懇談の中で、「私の名刺には『阿佐ヶ谷朝鮮学校サランの会』の会員であることも記しています」という議員の話は、興味深かった。そんな名刺を見て、「なぜ、朝鮮学校と?」。支持者の中でもいぶかしく思う人が多いとのことだ。そんな時は、「杉並に朝鮮学校があることはいいことだと思っている」と、納得できるよう説明すると言っていた。
隣に座っていた人は、「これがアメリカンスクールを応援するとかだったら、『オシャレ』とか、『偉い』とかと、反応するのでしょうかね…」と、ため息交じりで話していた。
李さんが講演でも話していたが、二千年の日朝交流史のなかで、「ぎくしゃく」したのはたかだか五〇年、東京第九の歩みをさかのぼっても、事あるごとに日本政府が朝鮮学校を閉鎖に追い込もうとしたものの、地元の住民は違かった。初期の

朝鮮語講習会の場所や、現在の敷地を提供してくれたのは、「昔、朝鮮人に世話になった」とい日本人だった。そして今も「サランの会」が地元に根付いた活動を行っている。

 長谷川代表が何度も繰り返していたが、「継続は力なり」だ。粘り強い交流がいつにも増して求められている時かもしれない。


*5月下旬に刊行される『朝鮮学校のある風景』31号に再整理して掲載します。