【8月13日・水曜日】
鄭求一先生の告別式に参列しました。
同じ分会に住む幼なじみの同級生のチャンイン(義父)なのですが、私にとっては板橋区にある東京朝鮮第3初級学校に入学したときの校長先生です。校長としての故人は、幼い私には「厳つい先生」でしたが、それから50年を経て、母校の創立60周年を前に、草創期の歩みを記録にとどめるためにお会いしたときの恩師は、「温和な教育者」でした。
先生は、1947年に東京第3の前身である「豊島朝鮮初等学院」で教壇に立ったのを皮切りに東京第三で11年間教員を務められました。校長職にも就き、また教員の養成や教科書の編纂、児童・生徒向けの雑誌の編集、それに民族教育の権益と財源確保のために奔走されるなど、民族教育を草創期から支えてこられました。
式場には、「정구일아버님은 우리의 마음속에…」、故人の足跡を紹介する場が設けられていました。
長男が帰国する直前に写したであろう家族6人の写真を中心に20数点の写真が貼り出されていました。朝鮮大学校の第一研究棟を背景にした記念写真には、「朝鮮大学付属教員養成所第4期6か月班卒業記念 1960・12・10」との説明が付されていました。金大中政権時に実現した「総連同胞故郷訪問」の写真や孫との写真では笑顔が輝いていました。

写真の前には、平壌で出版された『鄭求一作品集』(1998年・255頁)も置かれていました。そこには民族教育に関するエッセイとともに、たくさんの子ども向けの詩が収録されていました。『作品集』に収められた何篇かの詩を読んでいると、生前の温和な姿が思い浮かびました。

10年前にお会いしたとき、先生は自らの体験を語りながら、大人の視点ではなく、子どもの目線で民族教育、ウリハッキョについて残す大切さを度々、強調されていました。
……
子どもたち…窓ガラスが割れた教室で、「寒い」とも言わず、腹
をすかせながらも我慢して、勉学に励んだ。自分の国の言葉や、文学、歴史や地理を学ぶことが、楽しくてしかたがなかったようだった。(『私たちの東京第3初級学校物語』証言編・創立-20期 234頁)
……
アパートを改修した校舎での日々をお話になりながら、先生は運動会のとき、素足で走っていた子どもたちの明るく元気な様子を語ってくれました。
その様子を「子どもたちよ! 東京朝鮮第3初級学校の運動会の日」との詩につづられました。『作品集』にも収められています。
……
어린이들이여!
부모님들은 너희들에게
운동화도 사신기지 못함을
가슴아프게 생각한단다
섭섭하더라도 참자
밝은 래일을 위하여
맨발이면 어떻다더니
굳세게 자라라
선생도 맨발이다
(1948・10『作品集』249-253頁)
(子どもたちよ!/父と母はお前たちに/運動靴すら履かすことができないことに/胸が痛むという/寂しくても我慢しよう/明るい明日のために/裸足がなんだ/健気に育て/先生も裸足だ)
……
中央教育会の具会長の弔辞と、京都から来た同胞詩人が霊前に捧げる「百日紅」の詩を聞きながら、今、私が編み続けている『朝鮮学校のある風景』に、民族教育の先駆者、ウリハッキョの礎を築いた、一世の「魂」を吹き込むことができればと思いました。
鄭求一先生のご冥福をお祈りします。
2014・8・13
東京朝鮮第3初級学校15期卒業生
『朝鮮学校のある風景』編集・発行人 金日宇