東京第6・旧校舎とのお別れ会を兼ねた夜会へ
【7月27日・日曜日】
月曜日(7月21日)の引っ越しから一週間ぶりの訪問だ。気がかりだったことがいくつかあり、この日を心待ちにしていた。
その一つは、教員室の整理整頓である。引っ越しの日、最後に旧校舎から教員室に次から次へと大量の荷物が運び込まれ、教員室は足の踏み場もなかった。机にはいくつもの段ボールの箱、書類の束が積まれていた。引っ越しの手伝いに来た誰もが教員室の荷物の多さに驚いていた。中には「通信簿(成績表)、間に合うのかしら…」と、心配するオモニもいたくらいだ。
校門から運動場をつっきって教員室に直行した。児童たちが夜会での公演の練習をしているのだろう、校舎はざわついていたが、窓越しにのぞくと、教員室に人影がない。通路や机の上の段ボールは見えなかったが、まだ雑然としていた。
「片付きましたか?」。「先生の席は?」。教員室に入って行く、2年担任の宋先生に声をかけた。宋先生が指差した机は、片付いたのか、片付いていないのか「微妙」だ。荷物を運びこみながら「旧校舎に比べて、収納場所は限られている」と、先生たちは口をそろえていたが…。他の先生の机もまた「微妙」だ。いつも行く東京第3は特別なのだろうか。教員室の机の上に置かれているのは、ノートパソコンと、その日点検するであろう児童のノート位だ。それからすると、とてもすっきりとは言い難い状況だ。
学校によってだいぶ違う。喫煙一つとってもそうだ。一昔と違ってさすが教員室での喫煙は禁じられているが、校長室での喫煙可の学校は大方校長がヘビースモーカーだ。
訪問する度に、教員室はのぞいてみようと思った。

旧校舎のお別れセレモニーの一環として、歴代の卒業アルバムの公開など、同校の「昔をふりかえれる懐かしの空間」が作られる。このことも気がかりなことの一つだった。

ボクシングの世界チャンピョン、ホン・チャンスの母校である。試合と、同校を訪れたときの写真が貼ってあった。1949年3月、第1回卒業記念のアルバムもあった。そこには「東京都第6朝聯小学校」という校名が刻まれていた。当時の校旗の写真もあった。「団結」と記された写真では、先生と男女児童が腕を組み、うたっている。いつ頃の写真だろう? 笑顔で校舎の建設現場に立つ男性が3人、2人は鉄カブトを被り、一人は鉢巻きをしている。

「沿革史」も貼り出されていた。
・民族教育の芽-1945年9月15日 沼部同胞家屋(児童4~5)
・児童が増え-1945年10月15日 東調布第一小学校の1教室
1946年春 調布大塚小学校の2教室
池上朝鮮人学院 1946・10・10
馬橋朝鮮人学院 1946・10・12
大森朝鮮人学院 1946・4
蒲田朝鮮人学院 1946・4
*当時、在日本朝鮮人聯盟と建国青年同盟は、運営、学則、教育内容で対立。民族的立場で合意し学院の名称を「聖林学院」とする。
東京中高の草創期の「10年史」には、建国青年同盟のことが記述されているが、「聖林学院」ははじめて聞く名称だ。とても興味深かった。
「10年史」の記述-「…そのとき建青城東支部という看板のもと、何人かが学校を運営すると言って、本所明徳学校…被災した鉄筋建物を占領…」

1947・4・26 東京朝聯第6小学校 蒲田朝鮮人学院だけは1948年4月に統合
当時、朝聯支部리구광(リ・ググワン)委員長が662坪を無償で提供(大田区久が原町457番地) 児童260、教員7、学級数6
1949・9・11 東調布高等女子学校を買収(現在の千鳥)
1949・12・10 東京都立朝鮮人第6小学校
1950・3 東京朝鮮人第6初級学校
1960・4 中級部を併設
1961・4 校舎を新築
1971・9 増築
1974・4 幼稚班併設
1996・5 改築竣工
鉄筋3階建ての旧校舎が竣工したのは1961年、その後2回にわたり増改築したとはいえ、53年持ちこたえたことになる。

何組かの卒業生のグループが、卒業アルバムの写真を指差し、思い出にふけっていた。
「あれから××年? 早すぎない」、「あんたは変わっていない…」、「小学校のころから美人だったということね…」、「そんなところが変わっていないということ…」、「……」。
楽しそうだ。当時の担任をあだ名で呼んでいた。「××年」という声に、入学から数えてみたものの、その風体をみるとどうも卒業からのようだ。

そして最後に、最も気がかりだったことは、在校生が旧校舎のあちこちに記した「思い出書き」だ。フェイスブックでアップされていたが、実物を見ると感慨深く、迫って来るものがあった。
教室と廊下、男女のトイレ、2階と3階を何度も行ったり来たりして、児童たちの「思い」を追った。
「ありがとう」と「愛する」という言葉を使ったフレーズが満ちあふれていた。○○年間ありがとう。ありがとう第6、トイレにまでありがとうしていた。愛がにじんだ旧校舎…。忘れない!愛♡、ウリハッキョが一番、思い出深い旧校舎、旧校舎は私たちの宝物、私たちの拠り所…。

「いままでありがとう! これからは新校舎でたくさんの模範を花咲かせます」、「国語の試験で10点、もらうぞ」など、決意を込めた言葉が並んでいた。「祖国統一」という言葉もだ。
「60年間ご苦労だった! これからは私たちが頑張るから」と、上から目線の言葉には苦笑した。何よりも笑えたのは、手洗い場に書かれた「ホーミングたくさん撒いてごめんなさい」だった。
「思い出書き」はすべてウリマルで記されていたが、「ホーミング」だけはカタカナ書きだった。
1階には、「旧校舎に感謝する」運動(7月7日~17日)を促すポスターが貼られていた。

仮設舞台の上では、児童と園児が公演のリハーサルを繰り返していた。低学年の児童と園児が舞台に上ると、スマホをもったオモニたちの一群が押し寄せていた。中には、園児と手足を一緒に動かすオモニたちも…。新校舎で新たな「思い出」を育んで行くであろう主人公たちの笑顔は清々しい。


お別れイベントの最後を飾ったのは、旧校舎との最後のワンショットだ。「旧校舎ありがとう」との大きな幕がたらされた。そこにも児童、園児たちの思いがカラフルに記されていた。歴代の校長や、地元の長老たちも校舎の窓から顔をのぞかせ、笑顔で写真に収まっていた。
建設委員会の洪竜守、朴廣明両委員長は、誇らしげに窓から顔を出していた。

旧校舎に思いをはせてか、多くの人々がカメラを向けていた。

校舎側の空は晴れているのに、舞台の上は黒い曇で覆われていた。時折、雷が鳴っていた。
「もつでしょう…」、「もってくれれば…」、「ざっと降って、あがってくれれば…」。そんな言葉が交わされる中、夜会はスタートした。
しばらくして、別件で退席。その後、「一時、雨と雷の轟音が凄まじかったが、最後に天は、学校や同胞に味方してくれたようだ」(康英鶴のfb)。

この日、江東区にある東京第2初と、荒川区の東京第1幼初中でも、夜会が催された。
「炎天下の中、本番前のリハーサルとサウンドチェックの貴重な時間帯に集中豪雨が直撃。一部機材が破損し、一時はどうなる事やらバタバタ状態でむかえた本番でしたが、何とか先程無事に今日のステージを終える事が出来ました」(金赫淳fb)
「ここ数年…何故か? 天気が崩れてしまう 夜会…今年も…開始直前の雨…」「雨、上がってくれた。スタートこそ遅れましたが、数年ぶりの満員御礼」(荒川青商会のfb)だったようだ。