【10月28日・月曜日】
東京朝高時代の恩師を囲んでの楽しいひと時だった。
当時(1965~68年=18期)、学年16クラスの担任は、一世の先生か、日本の大学を卒業した留学同出身の先生が大半を占めていた。朝大卒の男性の先生は何人かいたが、高校2年か3年の時だったか、4年制を卒業した女性が初めて赴任してきたことが話題になったことを覚えている。東京朝高に朝大卒が大挙赴任したのは、1970年以降だと、記憶している。
この日は、赴任2年目、初めて担任した18期の教え子が中心になっての食事会だった。私を含めて何人かは代数の授業を何回か受けたぐらいだが、それでも「40余年の空白」は、瞬時に埋まった。
大学を卒業するとき、当時の総連中央の李組織部長から「愛国の道を歩むのか、売国の道に行くのか」と迫られ、共和国の奨学金のお世話になったこともあって、「恩返し」をするとの一念で、教職に就くことを快諾したことや、赴任した当時はウリマルを話せず、それでもどうにか2学期からは片言のウリマルを混ぜて授業をしたこと、最初に担任したクラスなので、卒業した後もいつも気にかけていたこと…。○○は元気なのかとか、○○が頑張っているということは聞いているとか…懐かしそうに「教え子」の名前をあげていた。
進路指導にまつわるこんなことも話してくれた。
H君が、日本の大学に進学したいというので千葉県の曽我まで汽車に乗って家庭訪問に行った。遠距離通学だということもあって、3~4 時間しか寝ないで勉学に励んでいたようだ。当時、東京朝高卒業生の受験を認めていたのは、理系では東海大学、東京理科大学、順天堂大学と長崎造船大学、文系では和光大だけだった。彼は一浪して日本の高卒の資格を得て、進学の夢を果たした。
そんな話をしていたら、その場にいた一人がH君に電話をして、先生に回した。「呼んでほしかった」、「次の機会には必ず」、そんなやり取りだった。

先生は、ノーベル賞候補の某教授の研究室に行く道もあったが、「ウリハッキョに行ってよかった」、「ウリハッキョがなかったらこうして会うことも…」 そんなことを何度も繰り返していた。
還暦をとうに過ぎてなお、恩師とこうした場を持てることは、なによりも幸せなことだと思った。「ウリハッキョ チキジャ」である。ik