【10月13日・日曜日】茨城のウリハッキョの創立60周年記念イベントへ
会場の体育館に入ると、長テーブルを挟み、正面に向かって椅子が整然と並べられていた。後方には大きなやぐらが組まれ、その下では顔なじみの金剛山歌劇団の舞台スタッフが音響機材をいじっていた。朴監督の姿も見えた。舞台正面左には「1953 2013」の文字が、右手にはプロジェクターを映し出す白い大きな紙が貼り出されていた。舞台の上では、記念式典の大きな看板が左右、前後に揺れながらゆっくり掲げられていた。

広い体育館の左右の壁には、児童・生徒らによる祝賀ポスターやメッセージなどがびっしりと貼られていた。
民族衣装を着た男女が「60」と言う文字をもって踊る姿を描いたポスターはひときわ目をひいた。60周年を迎え、校内で行った「ヨラミ」と「セッピョル」のキャラクターコンテストで選ばれた「最優秀作品」だ。
その隣の祝賀ポスターに書かれたメッセージに心打たれた。
「1世と2世の祖父、祖母たちは異国の地に一粒の種を植えてくれました。雪が降ろうが、風が吹こうが力を合わせて育て、雷にも体をはって守ってくださいました。歳月が流れ種は大きな木になりました。その木は60年の歩みと笑いがこもった私たちの心の拠り所です。3世、4世の私たちは、これからもこの木に笑みがこぼれるように、私たちの拠り所を守っていきます」
「アボジ、オモニ(父母)が愛するウリハッキョ、今度は私たちが輝かせます!」とのスローガンの下に書かれた「…歳月が流れ 人がかわっても それでも懐かしい、懐かしい所が学校です」との歌詞を、何度も読み返した。


開場30分前だと言うのに、席が埋まりはじめた。正面右側の県内同胞、学父母ゾーンよりも、左手の卒業生ゾーンがにぎやかだ。再会を喜び合う輪がいくつもできていた。「ソンセンニム、お元気そうで…」、「私分かります?」、「〇〇、変わらない…」そんな言葉があちこちから聞こえてきた。
受付がはじまったようだ。体育館前にはいくつものテントが並び、テーブルの上にはプログラムが積まれていた。「来賓でも、卒業生でもないのですが」というと、「一般同胞」のコーナーに案内された。「卒業生」の受付では、期別に参加を知らせて来た卒業生の名前がぎっしり書きこまれていた。
私・「一期生は…」
女性・「わかりません。招待はしましたが、ご高齢ということもあって…」
次々に校門前にタクシーが止まり、広い運動場の臨時駐車場が車で埋まっていた。
1週間前にみた、記念行事応援のフェイスブックでは、参加予定者が800人に迫っているとのことだった。

受付をすませて、運動場の横を歌声がする校舎にむかった。打楽器の練習もしているようだ。
校舎の玄関にも、「私たちが輝かせよう!学校創立60周年を」と書かれた大きなポスターが貼られていた。畳三畳分はあるだろう。児童・生徒の寄せ書きが、スローガンを取り囲んでいた。その下に40枚を超える写真が、どの写真も笑顔、笑顔がはちきれていた。
その隣には、中高生による川柳が貼り出されていた。
「変わりなき/心が繋ぐ/60年」、「思い出と/希望で築く/60年」、「失くしてはならない/笑顔が/ここにある」、「繋げよう/祖国と私と/ウリハッキョ」、「60周年/輝け輝け/これからも」
思わずニヤリとしてしまうものが、いくつか並んでいた。
「学校へ/高校生は/孝行生」、「ウリハッキョ/私の4倍/生きたのね」、「60年/誰が輝くの?/ウリでしょう!」
「還暦かぁ/食堂の/メニュー増えるかなぁ」。中3の朴トンムの作品には、吹き出してしまった。

2階の壁にも、「『私たち』が輝かせよう!『私』の創立60周年!」、「学校創立60周年を私たちの姿で輝かせよう!」と書かれたスローガンや、ポスターがあちこちに貼り出されていた。
写真を撮っていると、ある男子児童が、「いいでしょ? みんなの心意気です」と話しかけてきた。「『ウリ(私たち)』の学校と言わず、『私』の学校というのは…」との問いに、「それは…」と説明仕掛けて、公演のリハーサルに呼び戻されていってしまった。

「私の学校」と「私たちの姿で」と言うことに、「60周年事業」のこだわりがあることだけはわかった。

教室では、合唱や合奏のリハーサルが繰り返されていた。

教室の壁の後ろには、「努力すれば楽が」、「くる」とは書かれてなく、「…?」だ。その下には「変顔禁止」の四文字が?が貼られていた。昨年秋、「無償化」連絡会のウリハッキョ訪問ツアーで、同校を訪れた時も、この四文字には笑えた。その隣にもいくつかのスローガン?文字が貼り出されていたが、公演用衣装の草色のチマチョゴリに隠れて見えなかった。
1週間前に開かれた事務局の集まりで、60周年記念イベントへの参加が討議されたときも、訪問ツアーのときのことが話題に。森本さんは、「いまでも校歌をうたいながら、見送ってくれた生徒と教職員の姿を思い出すと、胸がジーンとする」と、語っていた。

60周年に際してオープンする「茨城民族教育歴史資料室」の扉は、まだ閉ざされていた。
校門で出会った崔校長が「10時20分にテープカットをします」と、話していた。

後ろのドアは開けっ放しになっていた。何人かがモニターを調整していた。「モンダンヨンピル」の公演などで顔なじみになった、ユンさんが忙しく動き回っていた。ここ2、3日、徹夜での作業がつづいたようだ。
パネル一面にぎっしり写真が貼られている、というのが第一印象だ。左右にモノクロ写真とカラー写真とが絶妙なコントラストをなして、圧倒される迫力だ。

ガラスケースの中には、成績表や学校誌。記念のバックルなど、資料が並び、その上には、学校閉鎖に反対する水戸少年団の声明書が貼り出されていた。
「吉田内閣のひどいやり方に反対しましょう」と書かれていたが、65年を経た今日まで、「ひどいやり方」は受け継がれていると思わずにはいられなかった。

何人かの生徒もテープカット前の「資料室」に入り込んできた。
まずは、自分の写真を探す、そして兄姉、父母の時代の写真に目を向けていた。
「これこれ、これって」。女子生徒が運動会の写真を指差していた。米軍を模した人形を叩く競技だ。驚いていた。その表情に、時代の流れを感じた。

10時20分過ぎ、「民族教育歴史資料室」のテープカットだ。
説明を聞きながら、一回りした。教室一つを改修して作った「資料室」はさほど大きくはないが、三方に囲んだ年表にはぎっしりと、その時々の「出来事」が詰まっていた。
「まだ、整理しきれない資料がたくさんあります。…これからの宿題です」との声も聞こえてきた。
「資料室」は、そのオープンを知らせる「넋・想い」とのポスターに記されている通り、「歴史を書き記し、後世に伝えたい。この一念のもとに行われてきた」、「茨城県民族教育の歴史の世界へいざなってくれる空間」に仕上がっていた。ウリハッキョ内の「資料室」の開設は、中大阪と北海道につづき三つ目。東京にも、といった強い思いに駆られた。

「高校無償化」連絡会の「専属カメラマン」のようになっている西中さんが、3人の家族にレンズを向けていた。元校長とその娘、孫だ。娘と孫は元校長の説明を聞きながら、彼が在職中だった40周年記念行事の写真に見入っていた。全国に折り鶴運動を呼びかけ、国連に「無償化」をアピールしに行った群馬で暮らす娘、在学中の孫、「絵」になる絶好のアングルだ。

年表を追っていくと、茨城県で「国語講習所」が開設されたのが、8・15解放の翌年の1946年11月、1947年には県下に14もの「朝聯初等学院」が設立された。1948年4月には土浦 の「茨城県中央小学校」を本校に6つの分校に「整理」され、5月には私立学校設立の認可を取得していた。1949年10月の「学校閉鎖令」に伴い11月に閉鎖されるが、1953年4月に土浦小松町に「茨城朝鮮中学校」を開校、1955年4月には、高校を併設していた。
創立60周年とは、1953年4月の中学校の開校、いいかえれば茨城県での中等教育実施60年と言うことである。
つづく