3・31集会&パレードで出会った人々・下 | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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3・31集会&パレードで出会った人々・下
 
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 集会が終わると、慌ただしくパレードの第一陣が会場を出発した。
 呼びかけ団体のメンバーに混じって、外堀通りを通って銀座から東京駅付近の鍛冶橋まで一気に歩いた。パレードの先頭には松野さんが立っていた。黄色い紐を頭に巻いて、気合が入っている。取り巻く警官隊が色々「注文」を付けていたようだったが、彼のいでたちに圧倒されてか時間とともに物腰が柔らかくなっていっている様にみえた。「連絡会」の頼もしい存在だ。
デモに反対する街宣車の輩はマイクのボリュームを目いっぱい上げて叫んでいたが、数は予想外に少なかった。街宣車が鳴りたてると、無償化排除と差別反対のシュプレヒコールの声が大きくなる。すると道行く人が立ち止まり、横断幕やプラカードを見る、そんなことの繰り返しだった。
鍛冶橋で先発隊から抜けだし、戻りながら写真を撮った。幼児を乳母車に乗せたり、手を引いたりして歩く20代、30代の若夫婦の姿が目立った。朝から雨模様でなかったら、もっとたくさんの子連れの家族が参加したはずだ。
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群馬のオモニ会の「折り鶴」グループを探した。4月末に開かれる国連社会権既約審議委員会に、高校無償化を願う人びとの夢と心を託した折り鶴を送ろうと全国に呼びかけ、「無償化」を求める運動の敷居を一気にさげた立役者だ。赤い折り鶴を載せたプラカードを持っているはずだ。フェイスブックに学校の先生が作ってくれたと写真が載っていた。
 様々な民族打楽器を打ちならしながら歩く隊列は、参加者の士気も高く、華やかさもあって、歩行者の注目をひいた。デモ行進ではなく、パレードらしさがただよっていた。
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 さっきまで集会場で折り棒に付けた鶴をふっていた一群が通り過ぎた。話しかけると、群馬ではなく千葉だった。「折り鶴」が「無償化実現」のシンボルになって、拡散しているようだ。昨年、日立市の慰霊祭で会った高齢の同胞は、バス2台で来たと話していた。シュプレヒコールを叫び続けて声が枯れていた。
 路上で、デジカメやビデオ、スマホを向ける歩行者が何人もいた。パレード隊を撮っているのか、道の反対側の警官隊に取り囲まれた街宣車を撮っているのか、分からない。時折、拍手をしたり、手を振ったりする歩行者もいたが、それもどちらに共感を示しているのか分かりづらかった。タクシーの運転手が助手席の窓を開けて、パレード隊に拍手し、声をかけていた。
 群馬のプラカードを発見した。「政治問題を学校に持ち込まないで」、「子供たちに誇れる未来を共に築きましょう」と書かれたブラカードの上に赤い、大きな折り鶴が載っていた。赤だけではなく、ピンク、緑の大きな折り鶴もパレードに華をそえていた。朝鮮半島を描いた大きなパネルもあった。会場で「モンダンヨンピル」の代表たちが韓国で折られた3.770羽の折り鶴と一緒に手渡したパネルだ。
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「国連に鶴を」の運動の発案者の一人である、金さんの姿はなかった。金さんとは一昨年被災地の仙台の朝鮮学校で行われた詩の朗読会でご一緒したことがある。とりあえずその一団に合流し歩いた。
 隣で歩く若者に話しかけた。
私・「群馬ですよね」
彼女・「そうですが…どこから来ました?」
「ウリハッキョの先生がつくったプラカードですよね」と言うと、安心したようだ。今年、朝大を卒業して群馬のウリハッキョに赴任した先生だった。私が東京から来たと自己紹介すると、彼女も出身は東北だが、今、実家は東京第三の近くで、アボジは第三で教務主任をしていると自己紹介した。教務主任の娘さんだった。
群馬の一団を見送り、しばらく歩くと東京第3の先生が大きな声を張り上げていた。前年度5年担任の許先生はやはり大きい。プラカードがひと回り小さく見えた。金教務主任と並んで歩いた。
私・「娘さん、群馬ですか? 先ほどお会いしました」
教務主任・「昨日、荷物を運びました。アパートで自炊…」
心配な反面、ウリハッキョの教壇に立つことが嬉しそうだった。
歩道の一段高くなっている所にのぼって、「月刊イオ」の琴編集長がカメラを構えていた。そこを通り過ぎるパレード隊に両手を高くあげて、大きな声で「頑張れよ」と激励する男性がいた。さっそく、琴編集長が話しかけていた。男性は表情豊かにインタビューに応えていた。
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その男性は、引き続きパレード隊にエールを送り、足をとめた外国人に、横断幕を指さして話しかけていた。横断幕やプラカードは日本語だけではなく、ハングルと英語でも書くべきだと思った。広島での街頭宣伝の写真には、たしか日本語と共に英文で書かれた横断幕があった。
 琴編集長は、その様子をカメラに収めると、ふたたびその男性に話を聞いていた。
 しばらく行くと、何日か前、文科省の前で「座る人」を取材していた記者が信号で止まったパレード隊の中に入り、胸に付けたゼッケンにカメラを向けていた。なかなかユニークな手書きのゼッケンだった。手書きやイラスト入りのゼッケンは目につく。大阪朝鮮学園支援府民基金のマスコット、ホンギルトンをあしらったゼッケンも人目をひいていた。
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 東京駅まで来ると、一昨年、東北のウリハッキョに行った時に会った、任さんが子どもの手を引き、駅の方に向っていた。「新幹線が…最後まで歩けなくてミアナムニダ…」との言葉を残し、足早に走り去って行った。
 重いカメラバックを持った「朝鮮新報」の記者は、最後まで行ったり来たりしていた。
最初のデモ隊が会場を出発したのが3時過ぎ、最後の隊列が常磐橋公園に着いたのは5時を過ぎていた。300人前後の隊列が16もあった。
 
 東京駅の近くの居酒屋での打ち上げには、当初20~30人の予想をはるかに上回る、60人以上が参加した。
 天候に恵まれたとは言えない中での予想外の人の集まりに、終始みんなのテンションは高かった。各自がこの日の感想を述べたり、決意を表明したり…。酒のまわりも早かったようだ。舞台でも注目された趙博さんはアンコールに応え、気持ちよさそうにうたいつづけた。
 
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長谷川事務局長は何度も「最大の成果は、在日の人たちと日本人との絆と信頼関係が深まったことだ」と話していた。
翌日のフェイスブックは、3・31の写真と感想であふれかえっていた。「よかった」、中には「行けなくてミアナムニダ」、「行くべきだった」などと、たくさんのコメントが寄せられていた。
民族教育の権利を守り抜こうという大きなうねりが巻き起こっているようだ。ik