【9月15日・土曜日】東京第4の授業参観と懇談会へ
「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会が企画した、足立の朝鮮学校「授業参観と懇談会」へ。
東京チェーサー(東京朝鮮第4初中級学校)の校門を入ると、まず目についたのは大きな案内板だ。
10時に北千住駅のバス停前に集合、その「第一陣」として学校に到着、一番乗りだった。

玄関の下駄箱の上にも「ようこそ ウリハッキョへ!」の歓迎の垂れ幕が。
一緒に着いた元教師の日本人が「靴箱がきれい」としきりに感心していた。
玄関に置かれた机の上には、受付表と学校の沿革と教育目標、カリキュラム、それに当日のスケジュール表などをまとめた資料が準備されていたが、この企画に尽力した地元の田中さんと申さんの姿がない。
受付をすることにした。誰もができることをすすんで行う、「連絡会」にかかわるようになって学んでことだ。

受付の後ろの壁にも、朝鮮語で「よくいらっしゃいました!」との大きな横断幕が貼られていた。
北千住駅からのバスでの先発隊に、地元の人々、バスによる二陣、60人近い予約申し込みリストに続々とマル印が。当日参加者も何人かいた。
受付の後ろの運動場からは、「早く投げろ」とか、「集まれ」の声、中学生の体育の授業だ。
一段落した頃、校内放送-「第3時限は公開授業…前と後ろの扉を開けて…」
途中から手伝ってくれた「女子生徒」に、受付を任せて参加者が集まる体育館へ向かった。

「校内は禁煙です。どうしても吸いたい方は…」とか、「写真撮影は可能ですが、生徒のプライバシーに配慮し、後ろか顔が分からない距離で…」とか、いくつかの「確認事項」が伝えられ、各教室に向かった。
玄関に戻ると、受付を頼んだ「女子生徒」が児童に「ソンセンニム(先生)」と、呼ばれていた。
「中3の生徒だとばかり思って…」と、なんども謝った。申さんは「若く見られる先生が多いようですよ、この学校は。後ほど話される男性の先生も…」。それを見ていた日本人の中年女性も「若く見られたのですから…」と、フォローしてくれたが、「若く」ではなく、「幼く」と受け取られたのではないかと…。
申さんが言うように、懇談会で「教員をなぜめざしたのか」について述べた、男性の先生も6年目だというのに、初々しさが漂っていた。

2階は低学年、3階が高学年、4階は中学生の教室だ。
築28年、この間大きな改修工事をしていないのに、整理整頓、掃除も行き届き、校舎は思いの外、綺麗だった。
今年からは各教室にクーラーを入れたとのことだ。
呉校長は「50人を越す、日本人が授業を見に来るのは初めてなので、児童・生徒たちは緊張しているはず」と、話していたが、どの教室をのぞいても児童はいたって自然、活発、先生とのやり取りを楽しんでいるかのようなのびのびとした授業風景だった。

各教室に書かれた、日本語をウリマルに置き換えた単語表から、児童の日常生活が想像でき、思わずカメラを向けた。「かきごおり」は季節柄の言葉で、「青たんになった」、「いちおうかくにんしよう」の言葉の裏には、どんないきさつがあるのやら…。2年生の教室だ。

ぺダル、ハンドル、ブレーキ、へとへと、ふわふわ、のろのろ…「野遊び」とのサブタイトルが付いていた。
「ふわふわ」雲の下、自転車に乗って「のろのろ」と走ったり、「へとへと」になったとか…そして「巨大」な「きば」をもった何かの「模型」を見たのか? 何を「発掘」したのだろう? このポスターは廊下の壁に貼られていた。

算数の授業をウリマルで行っていることは予想外だったようだ。
「国語(朝鮮語)」と「社会」、「歴史」は朝鮮語でも、「算数」は無理だと思っていたようだ。
容積の計算(小2)と四角形の垂直と平行(小4)の説明を理解することができる小学生の「国語力」に感心していたのは、韓ドラの影響で何度か「ハングル」に挑戦して挫折したという女性だけではなかった。

中でも関心を集めたのは、6年生の日本語と中2の歴史の授業だった。
6年生は関東大震災を背景にした小説「朝鮮から来た弟」について、中2の歴史は「壬辰倭乱」についてだった。
89年前の大震災で多くの朝鮮人が虐殺されたことが述べられ、豊臣秀吉の侵略を打ち破った李舜信将軍の武勇伝が語られたのだ。
6年生の教室から「チョッと厳しすぎる…」と言って出てきた男性に、元教師は、「これは歴史教育で、これを反日教育と騒ぐ風潮こそ危惧すべき」だと、述べていた。
呉校長は、科目か、授業内容を変えるべきか苦慮したが、ありのままのウリハッキョの姿をみせるべきだと考え、通常どおりの授業に踏み切ったと、語っていた。
中2が23人で最も多い、小1の教室の外の壁には、12枚の絵が貼られていたが、小3は7枚。
17~18人の4、5年生の教室から出てきた2人の女性の会話-
A・「ここの子どもたちだったら、教員になっても…先生も児童と一緒に授業を楽しんでいるようだ」
B・「分からない子どもが、何を理解できないのか、自分で気づけるよう授業が行われている」
A・「全員参加型? このくらいの人数が理想なのかも…」

階段の壁に貼り出されていた朝鮮半島の歴史の年表にも、多くの人々が見入っていた。
日本による植民地統治と朝鮮人の抵抗運動について、様々な話が交わされていた。
「朝鮮学校でも、南で起こった光州学生闘争や『万歳闘争』で獄死した柳寬順について教えているんですね。キム・イルソンのパルチザン闘争だけだと思っていました」という、話は意外だった。
昨年、西東京第1の公開授業に来たある元教師が、地理の教科書に記された独島を見て、「北朝鮮も独島の領有権を主張しているのですか? 竹島を巡っては日本と韓国、そして北朝鮮の三つ巴の戦いですね」との話に、唖然としたことが思い出された。

授業が終わると、児童・生徒たちは教室からはじけ出るように飛び出してきた。
廊下や、階段では「アンニョンハシムニカ」と「こんにちは」、半々と言った感じだ。
朝礼の時、児童・生徒の中からは、ウリマルと日本語のどちらであいさつするのか、質問が出たようだ。
先生は「自分で考えなさい」と、答えたと言っていた。
参加者たちは、体育館に集まって昼食だ。
手伝いに来たオモニ会のメンバーと立ち話だ。中には、ブログを読んでくれているオモニもいて嬉しかった。
私・「東京チェーサーに通っているのは、足立区からだけですか?」
オモニ会のメンバー・「草加からも来ています。筑波も学区です」
私・「ここから車で30分も行くと、チェーイル(荒川区にある東京朝鮮第一初中級学校)がありますよね」
他のメンバー・「解放前後、足立と荒川や台東など下町に、それほど多くの同胞が住んでいたということです。児童数が減ったとはいえ、今でも運動会や夜会のときには広い運動場が埋まります」
8月に青商会が主宰した夜会には、1000人を超える同胞が集ったと聞いていた。
「無償化」問題でカメラを回し続けているカメラマンもオモニ会のメンバーに取材を試みていた。
隣の席で、昼食を食べていた2人の男性は、小学生が朝鮮語で授業を受けられることをとても不思議だと話していた。前のテーブルの女性たちもまた、自らの英語学習の体験に踏まえ、幼年期から英語教育を施しても、これほどマスターできるものではない。外国語としてではなく、母国語として学ぶことの違いではないかと、ウリハッキョでのウリマル教育に興味を示していた。
昼食を済ませて、炊事場をのぞく。60人分のピビンパとスープを準備してくれたと聞いたからだ。
東京チェーサーでは、弁当を持ってこない児童・生徒のため、昼食を作っているとのことだ。
私・「他の学校のように注文弁当はないのですか?」
女性・「男の先生の分も合わせて、ここでつくります」
大小のどんぶりにこの日のメニューのピビンパが盛られていた。大きいのは先生用なのだろう。
長谷川事務局長も、感謝の言葉を述べに来ていた。
教育界室に行くと、会長がいくつものタッパーの蓋を開けていた。
私・「先生は給食ではないのですか?」
会長・「私はいつもこれ…『悪妻弁当』です」
と、いいながらも目を細めて美味しそうに箸をすすめていた。

懇談会では、2年前創立65周年を記念して作ったDVDが上映された。
1945年9月13日に、本木町に「朝鮮語講習所」として発足し、「朝鮮人連盟足立学院」、「東京朝鮮第4小学校」…都立の時代を経て、1964年には中級部が併設され、「東京朝鮮第4初中級学校」へ。1984年には、本木から現在の興野に移転し、新校舎と体育館が竣工した。
配布された「沿革史」によると、現在の児童・生徒数は129名である。

「連絡会」の長谷川事務局長は、一人でも多くの日本人が朝鮮学校を知ることの重要性を語り、田中宏・一橋大名誉教授は「非常に厳しい状況」にあるが、「夜明けのこない朝はない」と、参加者にこれまで以上の奮起と協力を促した。
呉校長は同胞社会に密着した、地域のコミュニティーの中心になっている「川向うの学校」の良さを述べ、地域の住民との交流を深め、もっと開かれた学校を目指すとの抱負を語った。
参加者からの感想も、ウリハッキョへの応援一色だった。
・皆きちんと授業に集中していた。楽しそうだった。教科書を綺麗に使っていたので驚いた。分からない子が分かるよう授業が進められていた。
・いくつかの朝鮮学校を訪問したことがあるが、学校らしい、懐かしい気がした。
・すべて朝鮮語で授業できるなんてすごいと思った。将来は日本毎と朝鮮語、それに英語の三か国語を駆使する大人になると思うと、頼もしい、うらやましくもある。
・被差別マイノリティーの地域づくりにおいて、朝鮮学校の位置、役割は大きい。
・真剣な眼差しで、先生の目を見ている。今の日本の学校ではないかもしれない。子どもと先生の気持ちが一つになる教育、素晴らしい人材、国際的にも、日本との橋渡しになる人材が育っている。
・元気をもらった。学ぶべきところが多い。互いに互いを知るところからはじまる。知らない状況が長く続きすぎた。

懇談会が終わり、運動場に出て上を見ると、青空の下の体育館に、次のような言葉が掲げられていた。
「サランハジャ! ウリマル、ウリハッキョ、ウリトンネ」(愛そう! 私たちの言葉、私たちの学校、私たちの村)
「ウリトンネ」は、いかにも地域同胞社会に根付いた東京チェーサーならではのスローガンだと思った。
このスローガンは卒業生が卒業記念に残した言葉だとか、その卒業生も今では高校3年生になったという。
この言葉は同校のフェースブックのタイトルにもなっている。
今年創立67周年を迎えた同校は、そのフェイスブックで次のように促している。
「67年という輝かしい歴史と伝統をこれからも守って行こうと思います。
卒業生のみなさん、100周年!というとあまり先の話なので、とりあえず3年後の70周年には、みんなで集まって盛大にお祝いをしましょう」(創立記念日の9月13日発)
卒業生のみなさん、100周年!というとあまり先の話なので、とりあえず3年後の70周年には、みんなで集まって盛大にお祝いをしましょう」(創立記念日の9月13日発)
卒業生と地元同胞と地域の住民に見守られての70周年記念行事が、今から楽しみだ。ik
