Memorandum
私が体感した「沖縄2010年6.23慰霊の日」・中

■沖縄戦遺族の中に東京大空襲の体験者
地元のマスコミの取材の通訳をするうちに、東京から来た「在日」だということが知れ、自然と遺族とも話がはずむ。
全羅道から来た尹官佶氏も、その中の一人だ。
20代の時に、日本に流れてきたアボジ(父)は1945年、44歳の時に東京で徴用され、沖縄に連れて来られたという。
ここに刻まれた人のほとんどは20代の若者だ。だからアボジが最年長のはずだ。
1901年生まれのアボジは、昭和天皇と同じ年だ。あいつは人殺しだ。アボジは40代半ばで命を奪われ、天皇は90歳近くまで生きながら、謝ることなく逝ってしまった。
尹氏は、アボジ「尹昌用」の刻名を指でたどりながら、吐き出すよう何度も「オグルハダ(悔しい)」「オグルハダ」という言葉を繰り返していた。
「足立区を知っているか? 東京のピョンドゥリ(下町)だそうだが…」と、話しかけてくる。
5歳の時に、そこで空襲に遭ったというのだ。
オモニ(母)の「逃げろ―」という声で、防空壕に逃げ込んだことが忘れることができないと、東京での空襲体験を語りだした。
罹災地を確認しようと、メモ帳に言われるがままに「足立区堀切橋」と書くと、漢字が違うという。
メモ帳を渡すと「葛飾区」と書く。「これは『かつしかく』と読む」というと、「これだ」という。漢字は分からないが、「葛飾区」という文字だけは忘れないで覚えているという。足立区ではなく葛飾区、それに「堀切橋」ではなく「堀切町」が正しいことが、その場で確認された。
尹氏は、アボジの名前が刻まれた碑の前で、チェサをあげることができ、それに自分が解放の翌年まで暮らしていたところが、足立区ではなく、葛飾区であることが確認できただけでも今回、日本に来たかいがあったと語っていた。
チェサが終わるとチェムルを分けて食べるのが習わしのようだ。故郷から持ってきたナツメ、栗、餅が、取材した記者たちにも一つ二つ、ふるまわれる。通訳をしたことへの感謝からか、異国の地で言葉が通じる同胞に会った喜びからか、いつの間にか、掌一杯のチェムルが載っていた。ウリマル(朝鮮語)ができることはいいことだ。それは民族の心が一つになることだからだと思った。

韓国人遺族の慰霊祭が一段落したところで、南北の碑に並べて小さな花束をささげ、妻と共に朝鮮式に頭を地べたにつけてクンジョルをして、双方の碑に水をかけ、その場を後にした
。
■追悼式会場から平和祈念資料館へ
人の波に流されるようにして、大きな白いテントがいくつも張られた追悼式の会場に向う。
11時50分のスタート直前に、3台の白バイが先導する黒塗りの大型車に乗った菅首相が着く。体の大きなボディーガードが何人かいるが、思いのほかガードは緩い。デジカメで写真を撮れる距離まで接近できた。
正午に黙とう、遺族代表のあいさつ、献花へとつづく。
多くを望まない。せめて韓国人の遺族席を、遺族代表で献花をできるようにしてほしいとの韓国から来た遺族の言葉が蘇える。
時間がない。急ぎ公園敷地内の沖縄県平和祈念資料館に向かう。ここには、二日前にも訪れている。
島尻郡玉城村字富里の「糸数アブラチラガマ」へのフィールドワークのときに、立ち寄ったのだが、見学する時間はとれなかった。(ガマとは琉球石灰岩でできた自然洞窟のことである)
「慰霊の日」のこの日は、入館料は無料だ。親子づれ、孫を連れた「おばん」と呼ばれる老婆の姿が多い。地元の学生に混じって、修学旅行生も少なくないようだ。
■資料館-夫婦の姓同一が「創氏改名」?
メインは2階の5つの展示室に分かれた「歴史を体験するゾーン」である。写真の説明書きには「犠牲になって」というあいまいな表現ではなく、「殺された」という言葉が所々にはっきりと明示されている。

資料館で配布しているパンフの「第3展示室-住民の見た沖縄戦・地獄の戦場」には、次のような説明が書かれている。
「沖縄戦で住民の受けた惨劇を地下「ガマ」と地上(死の彷徨)で象徴的に展示。
(一部省略)壕の中では、日本兵による住民虐殺や、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲撃砲、火炎放射器による殺戮があってまさに阿鼻叫喚の世界であった」
第4展示室(住民の見た沖縄戦・証言)は、体験録と映像による戦争体験証言の部屋である。
朝鮮人についての証言もある。「銃殺」、「監禁」、「餓死」「死体」などの言葉と共に付された「朝鮮人」の記載に「凄まじい沖縄戦」での多くの同胞の犠牲を実感することができた。
ただ、「植民地・占領地での皇民化政策」の展示の中の「創氏改名」の次のような説明が気にかかった。「沖縄戦に至るまでの沖縄の歴史や戦争がなぜ起こったのかを展示」(パンフの説明文)した第1展実室-沖縄戦への道のコーナーである。
「日本は1940(昭和15)年に朝鮮において『創氏改名』を強制した。結婚した夫婦は同一の『氏』を名のること(創氏)、ついでに姓名を日本風に改名することを奨励した。台湾では『改性名』と呼んだ。」
まず、日本総督府による「創氏改名」の公布は、1939年、昭和14年である。
説明文によると、夫婦が「同一の『氏』を名のること」が「創氏」で、「ついでに姓名を日本風に」することが「改名」となるが、それは明らかに誤りである。
前の文章では「強制した」と書きながら、ここでは「奨励」と、勧めたことになっている。
参考として、『日本大百科全書』(小学館)での「創氏改名(そうしかいめい)」についての記載を原文のままを紹介する。
日本が植民地朝鮮支配の末期、朝鮮民族古来の姓名制を廃止し、日本式の氏名制にかえさせた皇民化政策。1939年(昭和14)11月朝鮮総督府は朝鮮民事令「改正」で創氏改名の条文を公布し、翌年2月に施行した。その内容は、朝鮮の家族制度の根幹であった男系の血族を表す姓制度を全面的に否定して、日本式の家を中心とする氏制の創設を義務づけ、日本式氏名を名のる道を開く(任意的)というものであった。創氏改名は「皇民化」「内鮮一体」の指標として、創氏しない者に対しては、子弟への圧力、就職差別、非国民扱いなど、いろいろな社会的制裁、圧迫が加えられた。多くの朝鮮人は、日本の天皇制的家族制度を強要する民族抹殺政策としてこれに反対し、抗議自殺をしたり、また「犬糞倉衛(いぬくそくらえ)」など揶揄(やゆ)的な名前をつけたりして抵抗を試みたが、40年8月10日の期限までに約322万戸(約80%)が届け出た。45年8月15日の解放によって朝鮮古来の姓名制に復帰した。(執筆者:朴慶植)
「創氏改名」については、「強制説」と「自発的受容説」など、さまざまな見解があることは周知の事実だ。
しかし、被害の立場で「殺された」などと厳格な記述をする一方で、加害の立場での記述が緩慢なってはならないと思う。是非とも「資料館」の再考を促したい。(以下次回)