Memorandum
私が体感した「沖縄2010年6.23慰霊の日」・上
日韓合同授業研究会が主催する「沖縄戦と朝鮮人」をテーマにした聞き取り調査とフィールドワークに参加するために沖縄入りしたのは、梅雨明けした6月17日(2010年)だった。

(写真説明)島尻郡玉城村字富里の「糸数アブラチラガマ」
(案内してくれた沖教組の役員は当時、「便所」の隣前が
朝鮮人慰安婦の居住場所とされたとの証言があると語っていた)
研究会が沖縄市と那覇市、八重瀬町の三か所で、沖教組教育研究所と共催した「韓国併合100年-戦争を加害・被害の視点で考える平和の集い」に参加した。読谷村での「沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い」(主催・NPO法人沖縄恨の会)では、慶尚北道尚州から来た遺族の話も聞くことができた。

65年前の1945年、沖縄戦の組織的戦闘が終結したこの日を、沖縄では「慰霊の日」とし、県独自の休日としている。
滞在を二日延ばし、「沖縄全戦没者追悼式」が執り行われた平和祈念公園を訪れたのは、かねてから、「慰霊の日」を是非とも現地沖縄で体感したいと思っていたからだ。
■地元紙は「特別編成」-三分の一は「慰霊」特集
ホテルでの荷造りを終え、朝食も早々に「琉球新報」と「沖縄タイムス」に目を通す。
「琉球新報」の一面トップは、「戦後65年・次代に継ぐ」の企画記事、「ゲリラ戦、住民監視担う」「沖縄戦、『中野』出身42人」「名護市教委生存者調査 活動実態明らかに」との大きなタイトルが付されていた。「中野」とは陸軍中野学校のことである。
紙面の隅には「23日は戦後65年の『慰霊の日』に当たるため、紙面を特別編成し、主要面に県民の声を掲載しました」との「おことわり」があった。
「未来につなぐ・6.23平和への願い」とのタイトルで、16ページにわたって、紙面上段に50人の「県民の声」が紹介されている。総合面や社会面だけではなく、芸能、スポーツ面にもその「声」が掲載されている。沖縄ならではの紙面構成と言えよう。
全36ページ中、2・3・15・28・29・34・35面に関連記事が、18・19面は「住民に死 強いた沖縄戦」「基地集中『捨て石』今も」と題しての特集が組まれていた。
「沖縄タイムス」の一面も、「継ぐ・戦後65年」の企画記事だ。32ページ中、2・3・26・29・30・31面には関連記事が、16・17面は「戦争遺跡が記憶を『語る』-沖縄の戦争遺跡979カ所」との見開きの特集である。
「沖縄タイムス」の1面から3面にわたる下段の広告も「次代に継ぐ-6月23日慰霊の日」「沖縄を見つめる 平和を考える」とのタイトルで沖縄戦関連の36冊の書籍を紹介している。「琉球新報」も7面の全ペーが「6・23出版広告特集」「次代へ継ぐ 平和の心」とのタイトルで24冊の書籍を紹介している。

(写真説明)ジュンク堂書店那覇支店の「6.23慰霊の日」特設コーナー
前日、立ち寄ったホテルの近辺の書店では、「6.23慰霊の日」のブックフェア―が行われていた。県下31の書店で、同趣旨のブックフェア―を催していると、報じられていた。
■県庁前から県主催の追悼式へ無料のシャトルバス
9時過ぎ、会場へのシャトルバスが出発する県庁裏に着く。止まっていた7号車はすでに満員、この時点ですでに6台のバスが会場に向かったということになる。乗りこんだ8号車は、それから10分余りして出発、補助席まで満席だ。杖をついた老人が目についたが、子供連れも多い。会場の糸満市摩文仁の平和祈念公園まで約22キロ、40~50分の距離だ。
車窓から景色を見ながら、この一週間を振り返り「沖縄(といっても那覇といくつかの地域だが)にあって東京にないもの」を考える。なんといっても広大な米軍基地である。
オリオンビールにサンピン茶、コンビニのCOCO、至る所におきぎん(沖縄銀行)とりゅうぎん(琉球銀行)の看板だ。大方のコンビニ、コーヒー、居酒屋、薬のチェーンは進出している。焼肉店より目立つのはステーキハウスだ。
逆に「沖縄にないもの」(正確には目にしなかったもの)といえば、回転すしとラーメン、メガネのチェーン店にユニクロ。濃紺の看板の銀行は一店舗だけ、漢字四文字、ローマ字三文字の赤い看板の銀行は見なかった。
会場に近付くにつれノロノロ運転だ。会場付近の駐車場は満車とのプラカードを掲げた関係者に誘導されるようにしてバスは会場に着いた。
■同胞犠牲者の氏名が刻まれた「平和の礎」に
まず、訪ねたのは「平和の礎」である。
沖縄県のホームページによると、「「沖縄の歴史と風土の中で培われた『平和のこころ』を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑『平和の礎』を太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設」された。
刻名者数は24万余、そのうち「朝鮮民主主義人民共和国」の欄には82人、大韓民国の欄には365人の名が刻まれている。
同胞の名が刻まれた碑の前では、すでに白いチマチョゴリ姿の数人の老婆がチェサ(祭祀)の準備に取り掛かっていた。韓国から来た遺族たちである。この数年、毎年行われていると聞いている。
上段に「太平洋戦争沖縄」、下段に「哀・韓国人犠牲者遺族会・悼」と書かれた大きな横断幕が掲げられていた。大韓民国の文字の下に刻名された碑の前で、チェサが厳かにはじまった。
故郷から持ってきた土をまく老人がいた。
「アイゴー チャグンアボジー(叔父)」
手で地をたたきながら泣く老婆の声だ。地元のマスコミが取り囲む。
遺族の案内をしている沖縄県の職員に、刻名が南北に分けられた経緯などを聞いたが、「担当でないので…」、「具体的なことは…」と、そっけない。
国際通りには路上禁煙を促す表示や、那覇空港から首里城に向うモノレールの案内板にもハングルで記されていることなどにふれ、「韓国からの観光客は多いのか」と尋ねたが、「最近は、円高で少なくなっているようだが…」と、同じようなあいまいな答えしか返ってこなかった。
韓国から来た遺族たちは、朝鮮民主主義人民共和国の刻名の碑にも、チェムル(祭物=お供え物)を備えている。その中には朝鮮戦争当時、南下し定住した人も少なくないとのことだ。
ソウルから来た研究者は、刻名された中には、高倉健主演の映画「ホタル」のモデルになったという特攻隊員「光山文博」が本名で刻まれていると、「卓庚鉉」の刻名を指差しながら、語っていた。ソウルに「沖縄研究所」を構えて、粘り強く犠牲者の遺族の追跡調査を行ってきた彼は、何よりも日本政府が犠牲者の名簿を明らかにすべきであることを繰り返していた。
日本テレビのクルーも取材に、いつも画面で見る男性のキャスターだが、顔に比べて意外に細身なようだ。

沖縄出身者の碑の周辺がにわかに騒がしくなる。菅首相だ。小泉首相が韓国人の碑を訪れたことがあるというので、菅首相もと、遺族たちは期待したようだが、素通りだ。
もし菅首相が立ち寄ったら何を訴えるかとの問いには、「アボジを返してくれ」、「せめて、没したいきさつを明らかにして、遺骨を探し出してくれ」、「そして膝を地につけて謝ってほしい」との答えが返ってきた。(以下次回)