猛暑続きで、この何日間、閉じこもり状態である。そんな時、北海道から東京に単身赴任しているAから、お誘いの電話が。いつものことながら、何となく、何人か集まるから、時間があったら顔を出せと言うのだ。
事務所からその飲み屋までは、目と鼻の先だ。駆けつけると、すでに最初の一杯を飲み干した後である。地元のB、都内に住むC、群馬のDに、埼玉のEの顔も見える。Cをのぞいては東京朝高の同級生だが、これといって共通項もない、異色の組み合わせだ。
懸案があるわけでもない。そんなこと、焼酎の一杯も入ると関係ない。40年前の朝高時代の話である。
同級生が700名、全校生が2.700名、毎日駅から校門まで列が途切れることはなく、信号はすべて「青」だったとか(青のはずがない、信号無視である)、喧嘩騒ぎで赤羽線(今の埼京線)が全線ストップしたとか、新宿でK大生100名との大立ち回りがあったとか、駒沢競技場でのマスゲームのとき、地元のK大やN校の襲撃から朝高生や出演者を守ったのは、朝高出身のヤクザだったとか…
物理や幾何、代数の教科書は、ソ連アカデミーのを朝鮮語に訳したものを使っていたので、日本の国立大学を卒業した先生方も教えるのに四苦八苦していたとか、東大の入試問題を難なく解いていた者もいたとか…
卒業後、バブルの頃は高級外車を乗り付けて同窓会に参加して、二次会の費用として100万を出したとか、翼のように上下にドアーが開く外車を乗ってきたのだが、乗り降りのスペースを確認するために窓から棒を突き出していたとか、サッポロラーメンを食べに行こうと誘われたら羽田から飛行機に乗せられたとか…
こんな話、あんな話、当時の東京朝高卒業生にしてみれば、どおってことのない、日常茶飯事だが、初めて聞く愛知朝高出身のCは「井筒監督呼んでこい」と何度も叫んでいた。
焼酎ボトル二本は、1時間足らずで空になっていた。途中、中座したので、その後のことは知るよしもない。もう年が年だから、新聞沙汰にならないだろう。
こんなことを家に帰って話したら、京都朝高出身の嫁さんは「ただのアホの集団や」と、呆れていた。