今日、夜8時ごろ、駅前のスーパーで晩飯の買い物をしてレジ待ちに並んだら、いつもより長い5人くらいの行列ができていた。


 お盆休みの5日の間、3日も都心まで電車で出かけたので、からだのふしぶしが疲労で痛い。手に持っていた買い物カートを床におろして待っていたら、小学生低学年くらいの子どもがすぐそばに寄ってきてなにやら言っているので、ちょっと振り向くとカートを乗せた台車がすぐ後ろにきていて、そのうえに載っているカートの中身を子どもが覗き込んで、台車の取っ手をつかんでいるお父さんに何か不満を言っている。


 お母さんは黙っていて、お父さんがだめだと言って聞かせていた。まいどおなじみの家族そろっての休日の買い物風景である。


 レジ待ちの時間の長さに飽きていたので、子どもが覗き込んでいたカートを思わずぼくもちょっと観てしまった。


 ・・・


 すると、そのなかにいつもぼくが買っている冷凍食品の焼きそばがあった。ぼくはなんだか親しみを感じて、背が低くかなり太っていて、真っ黒に日焼けしている50代くらいに観える、台車の取っ手を握っているお父さんに声をかけてしまた。


 「この焼きそば、ぼくも買ってるんです。」


 すると、そのお父さんは、


 「だから?」


 と、だからなんだというふうにぼくのほうに逆に聞いた。


 「そんなことで聞くなよ!」


 と、更にそのお父さんはたたみかけるように答え、


 「びっくりするじゃないか!!」


 と、つまらない理由で見知らぬ他人に声をかけられて、驚ろいて迷惑だといわんばかりである。


 ・・・


 ぼくは思わず押し黙ってしまた。


 すると、そのお父さんはぼくのそばぎりぎりまで寄せていた買い物カートを、台車ごと50㎝くらい後ろに引いた。なんだかぼくがおかしいと言いたいところを、近寄りがたいとかたちで表現したいようだった。


 ぼくはまた気まずくなって、思わず90度右にからだを回転してレジの進行方向にからだを向けた。


 このおじさんはちょっとやばいんじゃ...


 しばらくジーッとしていたら、その家族は隣のレジ待ちの方に移っていった。なんだかぼくは、お父さんが声をかけられたのがとても不快で迷惑だったと、かたちで表わされたように感じた。


 ・・・


 あのあと、部屋に戻って缶チューハイを飲みながら食事をしている間、そのことの意味をボーッとしながら、ズーッと考えてしまた。


 ぼくは非常識だったのか?


 でもなんで、あのおじさんは「だから?」なんて逆切れみたいな逆聞きをしたのだろう?


 ぼくは親しみをこめて言ったのに意地悪な逆聞きをするほうが変なんじゃないか?


 あのおじさんこそ、家族に対してはペラペラ、まわりの迷惑を考えずによくしゃべっていたではないか?


 だいいち、子供がぼくのすぐそばに寄ってきたのに、夫婦そろってこら!」とか注意しなかったし...


 気まずくなったあのときも、お母さんは何も言わずに黙っていた。ふつう、ああいう気まずいときは母のほうが、「どうもすみません」とか言って取りつくろうんじゃないか、ふつう...


 あのおじさんに向かって母親も子どもも、おじさんの気に入らないことを言うと、ぼくのときみたいに逆切れされるんじゃないか?

 だから母親も子供も、あの気まずいときに黙っていたんじゃないか...


 つまり、あのおじさんは、ひとに自分の気に入らないことを聞かれると、誰に対しても意地わるに聞き返すいやなおやじなんじゃないのか...


 ・・・


 考えるにうちに、確かにいきなり声をかけたぼくにも問題はあったのかもしれないが、「だから?」と過剰に反応して逆聞きし、あげくの果てにはひとのせいにするおじさんの方にこそ、もっと問題があったのではないか、と思えてきた。


 さらに、はたで観ていると微笑ましいように観える家族であっても、休日まで家族サービスにつき合わされたことが、じつはおじさんにとっては不愉快でストレスをためこんでいたのであり、ぼくが声をかけた拍子につい嫌味なことばが口をついて出てしまったのではないか、とさえ思えた。


 さらに、みせかけだけはよくみせていても、家族という他人と暮らしていくのも結構たいへんで、父親も余裕がなくなっており、つい見知らぬ他人に対して攻撃性の反応というか、過剰な防衛反応が出てしまい、しかもそれに対してもみずからを正当化してすまう癖(くせ)ができあがっているのではないか、と思えた。


 しかし、だからといって、声をかけられただけでむやみに攻撃的に接せられるのも、声をかけるほうにしてみれば怖い。そんなことばかりが続くと、家族や会社の仲間や知り合い以外の他人とは、仕事でない普段の生活でも一切、無駄口を訊けなくなってしまう。


 それでは他人どうしがお互いを理解しあう機会をどうやって持ったらいいだろうかと、家族と家族どうしが触れ合う社会というものを、どうやって築いていったらいいのだろうかと、なんだかとても難しく感じられ、東日本大震災の被災者の住民の絆が切れるのに同情ばかりしている場合じゃないな、と考えさせられた。 


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P.S.


このところ、これを書いても、あれを書いても無意味だとか、結局のところ役人にぼくの暮らしに必要なものはむしりとられてしまうんだとか、しょうもないことばかり考えて記事を書くのが止まてしまた。


でも、結局のところ、世の中がどうであろうと、ぼくはしょうもないのであり、しょうもないものを書くのがぼくなのだと気付いて、ようやくぼくらしい記事のネタを見つけた。


なんだかちょっと肩の荷が降りて少し楽になったような気がしる。

 晩御飯の買い物から部屋に帰ってきて、ホッと一息ついて座ってくつろいでいたとき、夕方、郵便ポストに入っていた日本年金機構からの封筒を開けて中の手紙を読んでいたら、ギョッとした。
 障害状況確認届(診断書)が誕生日の末日までに届いていないので、年金の支払いを一時止めるというのだ。あと12日経ったら年金が二ヵ月分振り込まれるはずなのに...


 まじすか...(@ ̄Д ̄@;)


 診断書て...送ってもらってたっけ(?_?)


 机の片隅に積んである手紙をゴソゴソ探したら、年金機構からの未開封の封筒の中に、診断書提出の手紙があった。


 あった...(@ ̄Д ̄@;)


 年金定期便と思い込み、封を開けずに後回しにしてしまったようだ。我ながらがっかり(TωT)


 診断書を主治医に書いてもらって、日本年金機構に郵送した後でないと年金が振り込まれない。普通だと主治医に頼んで診断書ができあがるのは二週間かかるので、なんだかんだで診断書が年金機構に着くまで三週間はかかる。


 さらに、振り込まれるまで何日かかるのか...ひと月?、ふた月?


 考えているうちに気が遠くなった。


 ・・・


 さいわいなことに、手もとにお金があったので、すぐに窮する心配はない。しかし、もしお金がなかったらと思うとギョッとする。


 ぼくの街では、このような場合、連帯保証人がいれば、社会福祉協議会が5万円までの生活資金を貸してくれる。5万円では家賃しか払えないが... 

  
 生活保護の申請をすれば、約三週間経った後で、申請日から認定日までの日割りの保護費を支給してくれる。ただ、家賃が5万円だと、生活保護の認定日までの生活費がまったくないので、手元のお金がないと認定日までまったく生活できない。これは生活保護に入っていても同じである。


 こう考えると、社会福祉協議会の貸付金、障害年金や生活保護制度があるにもかかわらず、お金がてもとにない場合はどうにもこころもとない。


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 今朝のしんぶん赤旗のコラム「潮流」にW杯日本女子サッカーチーム優勝の瞬間に、ひとり優勝の歓喜の輪に加わらず、チームメートの米国の選手に歩みより相手選手の検討を称えた宮間選手のことが書いてあった。

 彼女は米国チームのゴールキーパー「ソロ」選手に歩み寄り、『「PKは運。米国の選手に失礼だから」と、相手のもとに歩みより、一人ひとりの健闘をたたえた。』(潮流)という。

 『「試合後、彼女は喜びをあらわにしなかった。私たちが負けて、どれだけ傷ついていたか、わかっていたから」そして、「その出来事は、本当に日本が尊敬すべき国だということをあらわしているでしょう」』(潮流)、とソロ選手は自国のテレビで明かしたという。

 そしてソロ選手は、続けて、『「アヤ、あなたは日本で初めてW杯を勝ち取ったのよ。私たちはいいから、早くお祝いしなさい」』と送り返したという。


 『力を尽くしてたたかった者同士の心の結びつき、思いやり、尊敬の念…。スポーツの持つ素晴らしさが、ここに凝縮されています。決勝は、女子サッカー史に残る名勝負でした。それは、スポーツの美しき心を見せてくれたという点でも』と、潮流の著者は感想を述べる。


 テレビで放送されるスポーツを観ても、暮らしのこと、政治のことがわかるわけでもないし、ましてや仕事の技術が上がるようなことがわかるわけでもない。

 しかしそれでも、ぼくらの多くがこれらのスポーツを愛して観たり応援したりしてやまないのは、一切の妥協なしのぎりぎりの闘いを繰り広げる真剣勝負の大切さを再認識するためではないだろうか。そして、それが実現するために、かけがえのない好敵手の存在の必要性を暗黙のなかで認めているからに他ならない。


 目標となるひとの存在があって、自分をみがくことができる。試合でその相手と会いまみえるよって、自分の鍛錬のたまものを確認することができる。宮間選手の行動には、そんなライバルのありがたさを尊重する姿勢がみてとれる、そして、その闘った相手を尊重することは相手選手にも届いた。

 これこそが、ぼくらがスポーツを愛させてやまない理由なのかな、とも思う。


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 福島第一原発事故に関する東電の記者会見を、テレビのニュースで観ていると、たびたびイライラする。東電側の不手際により事故が起こっても「なになにの事象が発生した」とか言って、まるで自然現象が起こったから、しょうがないと言わんばかりの口調なのだ。自分たちの不手際を反省しているように見受けられない。

 しかし、事故から四か月を過ぎてもあい変わらず責任を棚に上げたような「事象」ということばを繰り返しているのを聞いているうちに、ものごとはしょせん客観的な「事象」に過ぎないのだから、気に入らないと気分を悪くしても仕方がない、と思えてきた。



 夕方、うな丼の弁当を買おうと思って出かけるついでに、メールで観たDVDレンタルの半額セール目当てにレンタル屋に寄って、新作の「GUNTZ」を見つけた。

 これはラッキーと思って、会計の店員に渡すと、「会員割引だから携帯のクーポンの画面を見せてくれ」、と言ってきた。

 あいにく携帯を持ち合わせなかったので、「パソコンで見たから携帯なしでも半額にしてくれ」、と頼んだのだが断られた。


 以前だったら、理屈をこねて粘ったのだが、正社員の店員がいやな顔を露骨に見せながら「だめ」という「事象」を示すと、粘っても無駄だから諦めてこれ以上言わずにおいたほうが楽だ、と思えてその場を去って、しばらくして正規の料金で借りることにした。

 その理由も、他の店で一泊多い二泊で、かつ10円安い料金であっても、暑い思いをして借りにいく手間を考えれば、客観的に考えて、ここで借りた方が楽だと考えたからだ。いやな店員がいるのは当たり前の「事象」なのだから、気にせず損得だけを考えようということである。



 「事象」ということばは、そのことがらのそのままの状態または様子を指すことばであって、本来いやなことがらをごまかすために使うことばではない。

 しかし、自分の思いにかかわらず、いやなことばかり強要されていることが増えていくうちに、それも「事象」なのだ、と深く不条理だと考えず、そういうものだと自分にいいきかせて諦めることの方が楽なので、ついその方向に流されてしまうのだ。


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菅総理は13日、記者会見で、歴代首相で初めて原発に依存しない社会を実現する方向性を表明するという歴史的な発言をした。










帰ってきたウーツー(CDレビューア)-この


菅首相

「大きな原子力事故を、わたくし自身、体験をするなかで」


「この原子力事故の、リスクの大きさということを考えたときに」









帰ってきたウーツー(CDレビューア)-さい


「もはや律することができない、」


「そうした技術であるということを」


「痛感いたしました。」








帰ってきたウーツー(CDレビューア)-だから


「そういったなかで、わたくしとしては、」


「原発に依存しない社会を目指すべき」


「と、考えるにいたりました。」









帰ってきたウーツー(CDレビューア)-いっちゃうよ

「つまり、計画的、段階的に、」


「原発依存度を下げ、」









帰ってきたウーツー(CDレビューア)-げんぱつ

「将来は、原発がなくても、」



「きちんと、やっていける社会を実現してゆく。」










帰ってきたウーツー(CDレビューア)-やめる

「これが、これから我が国が目指すべき方向だ」


「と・・・」


NHKニュース7(7/13)より


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P.S.

 書くのが一日遅れてすみません(;^_^A