あの頃、それにしても駆けずりまわった。
脱兎のごとくいきり立って、ブログに書き、金もねーのに銀座へ、新宿へ、大阪へ、新潟から鎌倉、名古屋へ、さらに高江、祝島、釜ヶ崎へと飛びまわり、最後にもう一度沖縄へと準備万端整えて、チャリンコの整備をしていたら、フクイチあたりから、ドカドカドーンと来て、ネットを飛び交うデマの嵐をあびながら息を呑んだ。
安全を煽り、ごまかし放題のすり替えに世論誘導、いくら殿様商売だといっても、毎日毎日来る日も来る日も、嘘っぱちの大本営発表でどうするというのか?
気は確かか?
いや、恨んでみたからとて始まらぬ。
ずらかれるやつはずらかれ。
その日暮らしにきゅーきゅーとするどん底には逃げる自由なんて、端からない。
ずらかれるやつは、逃げて逃げて逃げまわっても、やっぱりそいつに、真相に頭をぶっつけ、のたうちまわる。
何ってこった?
あり得ない奇跡が起こった。
誰もが上下左右、みな同じように被曝する。
これこそ、まったくの平等だ。
外に飛び出すのが怖かった。
痩せこけた素っ裸で、胸には何の希望もなく、空きっ腹を抱えて、頼れるものも何もなかった。
10数日の間、じっと縮こまっていたが、渋谷や新橋や高円寺の反原発デモに出掛けてから、疾風怒涛の嵐がおっ始まった。
(全員逮捕されたとき、運良く逃れた三里塚のおっさん)
(国会前で、知り合いたち)
(ホームレスデモby宮下公園)
そこでは、真実なんて人の数ほどあって当たり前だといわんばかりに、それぞれ、みんなで、手前味噌な意見を言いふらしていた。
お涙頂戴、色仕掛け、機銃掃射、一発ぶちのめしから人気取り、折り目正しい学者風、犯人捜し、警鐘鳴らし、証拠集めと目もあやだったが、津波のように押し寄せるもっともすぎるほどもっともな意見が、一体どうだというのか?
やつらの意見はなべてまっとうだ。あってはならない人権蹂躙に対する同情も、自殺者への想像力も。その見識も、その批判精神も。
――すべてを腹いっぱいかっ食らったといって、見捨てられ、見限られた飲まず食わずが口にありつき、何とかやりくりできるとでも?
風呂をあび、白衣のねーちゃんに親切に扱われ、洗い立てのシーツが匂い立つ清潔なベッドで点滴を受けられるとでも?
あたたかいおもてなしにありつけるとでも?
あり得ないことがあり得るとでも?
冗談は休み休みにいえ!
ある訳がない!!
どんなデモでも、例えホームレス・デモであっても、飲まず食わずは近づいてはいけない。こっそりのぞき込めば、たちまちどやされる。糞まみれの意地悪をかっ食らわされる。
飲まず食わずは飲まず食わずの河川敷をうろつく方が身のためだ。
それに引き換え、ご立派なお育ちの、あなた方は?
警察に守られ、地に落ちた不満タラタラをつぶやきながら、死刑執行、踏みつけ、人権蹂躙、ホロコーストのありったけをかまして、災害を、不幸を、株価暴落を切り抜け、もうどうにもならないフクシマをやっつけ、目を覆わんばかりの自然破壊をごまかし、気取ったおしゃべりに夢中になって、俗悪から俗悪へと、面白おかしくはしゃぎまわるのが、あなた方の専売特許だ。
あなた方を有り難がるのは、善良で、真面目で、少し悪で、いくらか頭がよくて、何かと機転の利くお利口さんどもだ。そいつらが先祖代々に渡って、世界を股にかけた野獣として、そうでないものを食いつくし、踏み潰し、殺戮し、血をすすり、巨大財閥を築きあげ、企業王国の、あらゆる細々とした部門にぶら下がり、ご機嫌斜めから、御用学者先生の警告から、まっとうな見識から何から何まで排斥し、一切合切を台無しにしてきたのだ。
よきものたちは息の根を止められ、へぼ文士、二股膏薬、ならず者、人種差別一点張りの媚と暗愚と御用聞きと熱烈なぶら下がりどもに朝から晩まで担ぎ上げられ、すっかり麻痺し、あなた方はこの世の地獄で、わが世の春をこよなく謳歌してきたのだ。
それとも何か?
こころを入れ替えたとでもおっしゃるのか?
ええ?
あまりな惨状に動転するあまり、それまで棒で叩いて、しっしっと追い払っていたホームレスと一緒になって、和気藹々と野暮らしを楽しむとでも?
数え切れない人たちが苦しみ、やつらのせいで無残にくたばっていくからといって、罪を懺悔し、十字架を背負い、気の遠くなる歳月をかけて制定してきたすべての法律をドブに叩きつけ、空気も水も大地も海も、実りも、飢餓も、悲惨も幸福も、すべてを平等に分かち合い、手と手を取り合って、世界を最初からやり直そうとするわけか?
ゼロから?
すってんてんの丸裸になって?
ばかをいえ!!
やつらは、何百年も何千年も前からそうだったように、やっぱり何もかもごまかし、なんとか騙しおおして、口を拭うだけだ。汚れきった地球の果てにキンキラキンの巨大ドームをおっ立て、それでもやばいのなら、宇宙船に乗り込んで金星のあたりに集団疎開と来る。
人でなしどもは決まり切ったことだが、自分さえよければそれでいいのだ。やつらは、自分たちさえ助かれば、その他大勢が滅ぼうが、死のうが、血みどろになろうが、ボロ雑巾みたいにうち捨てられようが、どうだっていいのだ。
。
むろん、こっちだって、身のまわりを見渡しながら、あまりな仕打ちを、さんざん腹(ぱら)かっ食らわされて、ブスブス頭にきていた。
食うや食わずでふらついてきた何十年ものうちに、ズタズタボロボロの敗残の末路に気が触れかかって、あちこちのデモに紛れ込んで6年もあれこれ叫び狂っている真っ最中に、とどめのそいつが聞こえてきた。
(下町のジャンヌ・ダルク、雨宮処凛さん)
(地元入間デモで)
(日比谷公園で、いかすねーちゃん)
「今こそ、声を上げよう!今がそういうときだ。今こそ、世の中を変えよう!」
そう!そう!そう!
まさしく今だ!
今をおいて他にない!
福島でも、自由と生存でも、三里塚でも、瓶詰めデモでも、ホームレスのメーデーでも、原発フェスティバル、不当解雇撤回デモ、野宿者締め出しふざけんな宮下公園デモ・・・・・と、いたるところで、いくら叫んでも、いくら叫んでも、「続けることに意味がある。白目をむいて黙っているより、声を上げた方がましだ」という、自己満足に、あまりな非力、あまりな孤立無援に、何度頰をこわばらせ、何度目頭を熱くしたことか。
しかし、――私は感ずいていたが――下の下の下の彼らこそ、パクられてもパクられても、お払い箱を食らっても、底意地の悪い卑劣な嫌がらせを食らっても、でっち上げ逮捕を食らっても、どんな拷問にあっても、決して音をあげないやつらだ。
虐げられ、踏みつけにされながらも、光り輝いて死んでいくやつらだ。
不如意な窮乏のヤスリにかけられたゴツゴツした手、土色にひからびた皮膚、粗末な持ち物、ボロボロの靴、色あせたズボン、怒りに刻まれた皺、明るい鳶色の目をしたまっとうなやつら――それが彼らだ。
――手を伸ばせば触れる間近にいる彼らの息づかいを聞き、手と手を握り合うと追っ払われ、毛嫌いされ、蔑まれ、地をはいながら彼らと知り合えるときが来るまで生き延びてきたことに、何だか、舞いあがりそうだった。
そりゃ、やつらは恵まれてはいる。
エッソや鉄道、郵便局、小学校、病院とそれなりの食いぶちにありつけた口だ。耕すことの出来る先祖代々の土地もお持ちだ。
ちっこいけど支援し、支援され、肩を組んで守り合うしぶとい砦にいる。
手がかりも組織もない、一匹狼を気取る、どこの馬の骨ともしれぬひとりぼっちのいいかっこしいとは、どえらい違いだ。
身ぐるみ剥がれ、乞食同然の出で立ちで、拾い食いとすってんてんに押しつぶされてにっちもさっちもいないくせに、恥も外聞も構うことかと、敗残をさらすことに生き甲斐すら覚えるまでになって、一匹狼のなれの果てがたどり着いた、それは紛れもないドン詰まりの、最後の拠点だ。石棺を溶かし、水棺を破り、クソッタレ裁判をあざ笑う下々のよりどころだ。
これは前もって断って置いた方がよかったけれど、どれほどおっかない苦境に立ちいたろうとも、誰かに助けてもらおうなんて気はこれっぽっちもなかった。
それが、引きこもっていて、心細くなれば、やつらのデモを想い、やつらの怒り狂った汗のにおいを思い出せば、たちまち気持ちが晴れ晴れする。
われわれの末路は、けっして敗北ではないのだ!!