高杉晋吾さんのこと。 | よろぼい日記

よろぼい日記

杖ついてやっとこさ歩いてバタンキューの毎日。食べれない。喋れない。わからない。死にそう。どん詰まりのあがき…………か。それとも死に欲かな?

 

(加治丘陵の一つの光景)

 

 

風もなく雨の心配のない午前中は加治丘陵へ、そして、午後はパソコンで・・・・・過去の雑ぱくとした日記を読み解き、ひとつひとつ理解して書き写すこと。

それが現在私がやっているリハビリ生活の根幹だ。

それが出来なくなったときは、しかたないが、すべては終わる。

 

 

その日も朝早く出て、ヤオコーの方向には曲がらずにまっすぐ、線路を渡り北コースに続く信号に向った。

そして、信号を渡ってから、思い切って杖をたたみ、よたよたふらふら歩いて北1に入り、それでも北4までの心臓破りの丘を、うんうん踏ん張りながら、一歩一歩、ゆっくり、しかし、しっかりと登っていく。

 

その日は季節外れの、ひどく暑い日だった。北4を過ぎたあたりで、上着を脱ぎ、バックパックにしまい、出発しようとすると夫婦連れが追い越していったが、気にとめずにしっかり、ゆっくり歩いていった。

 

いつもそうだが、木々のこと、見かける虫や鳥や、カモシカのこと、それから、あれこれ身のまわりのことを、考える。そして、ようやく、北22の誰もいない「山仕事の広場」に着くと、ゆっくりベンチに腰を下ろして、いつものように休憩した。

 

すると、歩きなからいろいろ考えた中に、ジャーナリスト高杉晋吾のことが、まず一番に頭に浮かんだことを思いだした。それは、ちょうど今、2008年の日記を書き写していて、そこに彼から受けた影響がにじみ出ていたからだ。

 

彼とは仲違いしていて、今までそれが当然だと思っていたが、65歳頃の私は、彼の書くものに共感していて、その高杉晋吾さんから、急に声をかけられて、舞いあがったのなんのって!

 

当然、彼と一緒にあちこちのダム取材に同行するようになった。そして、その都度、少しずつ失望させられ、和歌山の決壊したダムの取材に連れられて、飲み代から宿代からあちこちする移動費まで出さなければならなくなり、出すのが当たり前と思っている彼の思い上がりに、私もとうとう切れた。

 

それ以来、気まずくなって疎遠になったが、彼はわたしたちが地元でやるデモに顔を突っ込んできて、出したばかりのルポルタージュをあれこれ宣伝するので、みなが嫌ったので、それで私もすっかり敬遠するようになった。

 

しかし、今にして思えば、彼のルポルタージュの主張は正しいからこそ、共感したわけだ。取材費や何やかやを払ってくれて当たり前だと思う彼の上から目線の欠点を、やはり、許すべきだったのではないかと。何故って、彼の欠点を暴くのが、彼のまっとうな主張を潰したいやつらの常套手段なのだから、と、ふと、そう思ったからだ。

 

 

 

 

参考までに

 

以下は、「空理空論で八ッ場ダム連戦連敗の総括をすることはできない」~八ッ場ダム反対集会に参加して~ by高杉晋吾 2011年7月2日より。

高杉晋吾 に対する画像結果高杉晋吾さん。

 

 

――――――記――――――

 

(加治丘陵の南13の桜山展望台)

 

国や御用学者の予測数字というものはそういうものだったではありませんか?巨大施設を海や河川に作ることで地球の動きに対抗しようという基本的な考え方に問題があるのであって、「造るための数字が正しいかの否か」という論議は根本的に間違っています。

 

●京都大学土木工学の、今本博健名誉教授は「非定量治水」という治水方法を提唱しておられます。地球が起こす現象については、逆らえない現実として素直に受け入れること。そして安全な場所にわき目もふらずに逃げること。その中で被害を最小限に少なくすること。逆に地球が起こす現象は、肥沃な土砂を田畑にあたえ、後に豊かな田畑を育んでくれます。このように不利な側面を素直に認め、不利を減少し、有利な側面を拡大する政策が必要です。それを一言でいえば「『定量治水の否定』と、『非定量治水』への転換」です。

 

●私も、こうした非定量治水の知恵を先人達が霞堤や野越堤等で教訓として残してくれていること、地球に逆らって巨大構築物で押さえつけよう等というごう慢さを投げ捨てて、地球と共存し、その力を発展させてゆく現代的知恵を発展させるべき時ではないかと思います。

 

●普通社会では全く使われず、なじみのない言葉が、生で講演者によって語られるのです。中身のある難解か、中身がなく、ただ難しく思えるだけの空疎な難解性なのか?中身とは当面する事実と事実が生まれる社会性、歴史性、現実性等によるものです。災害を考える場合は当然、現実の被害あるいは被害を増大させる要因の把握であって、言葉の解釈や、作り上げられた推測による解釈の相違の争いではありません。

 

●問題は『高水って何?』という集会を主催したまさのあつこさんがこの集会の趣旨を「高水論が国や官界の主導で難解な言葉を使って国民には分からない闇の中でダム推進が行われているからその打破のためにこの集会を持った」と言っていることです。その趣旨は結構です。全く賛成ですが、高水論争をやっている限り、こんな迷路から抜けですことはできません。自縄自縛とはこのことであり、そのことをこの集会が証明しました。

 

●分からない言葉を使う人は偉い人か?

 

●エリートだと自分で思っている専門家等が普通の言葉で語れば分かることをエリートの自己身分保障語としてチンプンカンプンに話すものだから、日本人の誰にもわからない。

 

●分からないことを話すと「偉い人だから難しいことを言っているのだ」と尊敬してしまう人が多いのでエリートたちはますます難解語の効用を感じて難しくする。

 

●代表例として法律用語があります。裁判官、検事、警察、弁護士にしか分からない用語が使われるので普通の人たちは法曹の世界には参加できない。そのことで法曹の世界は、エリートの特権生活圏を作りだしているようです。住民のものであるはずの反対運動の集会が、このような難解な言葉が飛び交うような場になったのでは誰でも反対運動への参加は嫌になってしまいます。

 

●この集会は8回も続けられるそうです。集会を企画したまさのあつこさんは、高水論が理解されるようにと企画したそうですが、高水論を理解させようという視点が高いところから国民を見る視点です。教えてもらう方が迷惑するでしょう。しかも、この最初の集まりを見れば、ますます難解な理論が展開されて市民、農民、漁民などが目を白黒させて嫌がるでしょう。

 

●あまり果てしのない迷路に人びとを誘い込む誤りを進行させるべきではないでしょう。

 

 

                                            ――――――以上――――――