「嘘によらず生きよ」byソルジェニーツィン。 | よろぼい日記

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杖ついてやっとこさ歩いてバタンキューの毎日。食べれない。喋れない。わからない。死にそう。どん詰まりのあがき…………か。それとも死に欲かな?

 

 

 

●かつて意見を述べあうことすら出来なかったわれわれは、今や、ネットで、心ゆくまで悪口をいいあっている。

●もういよいよどん詰まりまで来て、破滅がわれわれすべての胸元に突きつけられ、やがて、われわれすべてを焼きつくそうとしているのに、――われわれは、相変わらず臆病なほほえみを浮かべて、もぐもぐつぶやいている。

「手の出しようがないではないか。われわれは力を持っていないのだから」


●取り返しがつかないまでに非人間化し、子孫にとってのあらゆる可能性も売り渡すまでになっているというのに、ただただ見てくれだけの“幸福”をかき乱されたくない一心なのだ。


●ひとりっきりでは一歩も踏み出すまい。さもないと、ある日突然、お払い箱を食らい、マイカーが持てなくなり、不審尋問にあたって、牢のなかだぞ、といわんばかりだ。


●公民教育、新聞、テレビで、さんざん叩き込まれたことが習い性となり、快適に暮らせばそれで万々歳ということになっている。
 

環境や社会的条件がある以上、そこから脱出することは出来ない、存在が意識を決定するのであり、どこにわれわれの出る幕があろう?われわれには何も出来ないのだ、というわけだ。


●だがわれわれには出来るのだ。いっさいが!
ただ自分を慰めるために、自分で自分に嘘をついているだけなのだ。

いっさいについて罪があるのは、どこのどの連中でもなく、われわれ自身である。

われわれだけである!!


●検事総長を説得して考えを変えさせること――それは不可能である。外国では、人びとはストライキを、抗議のデモを知っている。しかし、われわれはあまりに打ちのめされており、それが恐ろしくてならない。どうして、いきなり就労を拒否したりできよう。どうしていきなり路上に飛びだしたりできよう?


●テロで、流血で、暴動で“幸せな社会”をつくろうと考えた熱狂がいかにあやまっていたか、どれほど悲惨だったか。すでにわれわれは知ってしまっている。
――方法の醜悪さは、結果の醜悪さに反映することを。
われわれは――手を汚してはならないのだ!


●暴力はかならずしも毎日、われわれすべての肩にその重い前肢を掛けるものではない。それがわれわれに要求するのは、ただ嘘への服従、日ごとの嘘への参加だけであり――“メディア・キャンペーン”とはこのことに尽きる。

●だがここにこそ、われわれが軽視している、最も簡単な、もっとも容易な、われわれの解放のための鍵がひそんでいるのである。それは――個人としての嘘への不参加、たとへ嘘がすべて支配していようとも、もっともちいさな一点だけはゆずるまい、つまり、たとへ支配するとしても、わたしを通してではないという一点である!


●ところがこれこそ、われわれの無行動の仮想の円環にうがたれた穴であり、われわれにとってはもっともたやすく、嘘にとってはもっとも致命的なものなのだ。なぜといって、人びとから嘘が飛び去ってしまうなら――嘘はただもう存在をやめるしかないからである。
伝染病と同じく、嘘は人びとに寄生することによってのみ存在することが出来る。


●せめても心に思っていないことを語ることだけは拒否しようではないか!

何ごとにつけても意識的に嘘を支持しないことである。
どこに嘘のけはいがあるかを確認して――この壊滅的な社会から身を引くことだ!

 

死んだ“イデオロギー”の小骨や鱗を糊で貼り合わせるような真似をせず、腐ったぼろぎれをつづり合わせることをしないならば――嘘がいかに速やかに、また脆くも崩れ去るものであるか、その醜い姿を世界にさらすことになるかを知って、われわれ自身が驚かされるであろう。


●これこそがわれわれのとるべき道である。われわれの習い性になった抜きがたい臆病さのもとでは、もっとも容易な、だれにでも可能な道であり、それはガンジーの不服従運動よりもはるかに容易である。

 

●今後、自分の考えに照らして真実をゆがめていると思われることばは、一語たりとも書かず、署名せず、いかなる方法によっても印刷に付さない。

 

●本心から共感できない提案に対しては賛成の手をあげず、その任にふさわしくないと考える人物、ないし疑わしい人物に対しては、一票を投じない。

 

●パネラーの口から嘘を、イデオロギー的たわごとを、恥知らずな宣伝を耳にしたら、ただちに席を蹴って立ち去ること。

 

●情報がゆがめられ、一時的な事実が隠蔽されているような新聞や雑誌は、定期購読はしない。


●あとはみんなが手をつなげばよいのだ!
われわれが力をあわせ、できるかぎりおおぜいでこの道を踏み出すとき、この道はわれわれ全員にとってより容易な、より短い道となるだろう。
われわれが幾千人にもなれば――そのだれに対してももう手出しはできなくなるだろう。
われわれが数万人になれば――わが国はもはや見違えるほどになるだろう!

 


       

    ――1974年/逮捕・拘禁・市民権剥奪・国外追放の、直前の訴え。一部意訳――