【複製】郡山への県庁移転再び | 花かつみ

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リマインドの意味で【県庁移転の歩み】を定期的にUPします。

 

福島県庁移転の歩み

明治9年

若松県、磐前県、旧福島県が合併して現在の福島県が誕生。

福島県庁は戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられた当時、本地方最大都市の若松を忌避して北端の辺境、福島に設置されました。広い福島県にとって、福島は北の辺境で不便だという声が高まる。(既に現在と同じ状況が明治期から・・・)

 

明治15年

県庁を福島県の中央である郡山へ移すという移転運動が始まる。

 

明治18年

福島県議会が県庁を福島から郡山への移転を賛成多数で可決。

これが当時の福島県民の民意である。

 

明治19年

内務省へ上伸。

しかし、移転に賛成した当時の三島県令(知事)が栃木県へ転出の不運も重なり、中央政府は移転を一方的に却下してしまった。福島県民の民意は無視されたのです。

 

この辺の裏事情が以下となるが・・・・どのように思いますか?

 

福島県庁が何故北の辺境である福島に設置されたのか? 理解に苦しみます。薩長土肥の藩閥政府が、会津から遠く不便な場所に県庁を置き、会津の影響が及ばないようにしたといわれています。当然ながら会津の人々は反対しましたが、旧会津藩領の三郡を新潟県に強制的に編入し、政府は会津の反対の声に報復する暴挙に出ます。福島県は、全国で一番早く県議会が設置開催されており、明治18年の県議会において県の中央の安積郡(現在の郡山市)への県庁移転が決議され、中央政府に上申しました。中央施府はこれを認めず却下、裏情報として信夫郡・伊達郡・相馬郡の関係者が中央政界への政治工作(金、女・・・)を行い移転の妨害を行っています。県民多数の民意を踏みにじる背信行為、許されません。大正15年頃に再度県庁移転問題が提起されましたが、大正天皇の崩御などにより沙汰止みとなる。昭和10年頃に再び県庁移転問題が持ち上がったが、時世は戦時体制へ移行中であり再び沙汰止み。

 

この様に度々移転の話が持ち上がるのは、北の辺境への県庁設置での県民が被る経済的な損失と県民総意の郡山移転を無視され事への潜在的な怒りが有るのだと思う。県議会が決議決定すれば県庁は移転できる。県庁移転の先例はお隣の栃木県があり、明治17年に栃木から宇都宮へ県庁を移転しています。既得権益者は反対だろうが、これからの百年の大計を考えて欲しい。辺境への無駄を続けるのか? 発展を希求するのか?

 

以上「福島県庁を郡山市へ移転推進する会」の趣意書を参考に加筆しています。

 

当時の郡山政財界人は麓山地区への県庁舎建設の具体的な計画まであったらしい。県庁移転が実現していれば郡山は、60万人以上の人口を有する都市となっていたことでしょう。貴重なリソースを全て郡山に一極集中できるのですから。北関東・東北地方の姿も今とは違ったものになったと思われます。少なくとも東北地方で仙台一強の現在の姿は無かった。中国地方の広島市と岡山市的な関係性になっていたことでしょう。

 

福島県の発展を阻害した信夫郡・伊達郡・相馬郡の関係者に天誅を加えたい心境です。