「昭憲皇太后と坂本龍馬」~前編~ | ユージーのブログ

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みなさんこんにちは晴れ

 

日に日に秋の色が増してきましたが、いかがお過ごしでしょうか虹

 

 

 

 

本日の記事は、ユージー技建(株)建築部長 児玉博文の執筆連載『UGコラム~落穂拾い~』です音譜

 

 

今回は、「昭憲皇太后と坂本龍馬」~前編~をお届けいたしますニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

「昭憲皇太后と坂本龍馬」

 

 

 

1.はじめに「昭憲皇太后」について

 

 左大臣一条家から新帝明治天皇の女御に治定され、明治元年に入内し女御の宣下を賜り即日皇后に立てられます。大正3年に崩御、現在京都府伏見区にある「明治天皇陵の東にある伏見桃山東陵(ヒガシノミササギ)に埋葬されています。

 

 

 

 

 

桃山東陵(昭憲皇太后の御陵)

 

 

 

 そして「坂本龍馬」はご存知の江戸時代末期の志士で土佐藩の郷士です。亀山社中(後の海援隊)の設立、薩長同盟の斡旋、大政奉還への尽力等々、いまだに多くのファンを持つ理想の男子として描かれる事が多い英雄です。因みに、慶応3年(1867)「近江屋事件」で暗殺されましたが、明治24年に「正四位」を贈られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.明治天皇紀

 

 この本は宮内庁編全十三巻 吉川弘文館より昭和四十三年から同五十二年の約十年間に刊行されました。その内容は嘉永五年から明治四十五年に渡る明治天皇一代記です。その中の第十 明治三十四~三十七年の章に記されているエピソードを次章で紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

3.昭憲皇后が見た夢   

  

 このエピソードは、明治三十七年二月六日の夜、昭憲皇后が夢を見た事から始まります。それは一体どんな夢だったのでしょうか?

 以下にその一部を口述で抜粋します。

「即ち一人の壮士が突然皇后の夢に入り込み、謹み告げて曰く、臣は坂本龍馬なり、我が海軍を守護せん、請い願わくは御心を案じたまへ」と語ります。皇后龍馬の事蹟はかって聞き及んではいるけれどその風貌は知らない。しかし、早速、此の事を天皇に報告します・・・」 

 この時、皇后は葉山で静養中でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

4.夢の後

 

 この話、その後どうなったのでしょうか?ここまで読み進められた読者の皆さん方、興味がおありなのではないですか?

 逓信大臣 大浦兼武はこの話を聞き、公事で関西に赴いた際に「寺田屋」の遺跡を訪ねます。この時期、寺田屋の主人は、坂本龍馬の時代に活躍した寺田屋女主人「とせ」の息子寺田屋伊助が後を継いでいましたが、船宿の業を廃し、既に大阪に移住していました。ですが、此の事を聞き、家に残っていた「龍馬ととせ」の書簡数通を大浦兼武の自宅に届けます。兼武は皇后にこれらの書簡を御覧に入れたのです。既に七月に成っていたと記されています。

 

 昭憲皇后は、金百圓を逓信大臣大浦兼武に賜いて坂本龍馬を弔祭(チョウサイ)させたのです。兼武はこの皇后より賜ったものを伊助に授けます。伊助はいたく感動し、伏見の自宅脇にある処の九人の烈士を顕彰して建てた碑の脇に別に石碑を建てて、この事を後世に末永く伝えようとしたのです。

 

記念碑

 

 

 

 

 

5.それまでなかった坂本龍馬の顕彰碑

 

 不思議ですね。当初、坂本龍馬の顕彰碑はここ寺田屋には建てられていなかったのです。それには幾つかの理由が有ったと思われます。

 例えばここ寺田屋は薩摩藩御用達の船宿だった事、坂本龍馬の出自が土佐の「脱藩郷士」だった事等々が挙げられます。理由は兎も角、こうして明治時代も後半になって新たに坂本龍馬の存在がこうしてクローズアップされたのです。

 こんな事は殆んど知られていないことではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

つづく

写真・文責   児玉 博文

 

 

 

 

 

 

 

次回は、後編をお届けいたします音譜

 

 

 

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