こんにちは
すっきりしないお天気が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか
さて、第六十回記念スペシャル記念として、ご紹介して参りました「石臼「あれやこれや」と題して」ですが、
今回が最終回となります!
ご高覧いただき、ありがとうございました。
今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします
本日の UG建築トピックス はこちらです
石臼「あれやこれや」と題して
第二部(Part8)
転害門裏手(境内側)向かって左端基壇のこの部分の羽目石には、矢印方向に均一なピッチで鑿跡が残っている。
材質:花崗岩
写真下〇印は鑿(ノミ)を刻む前の石材面を示す。
右上から左下に向かう↓は彫られた溝位置を指す。
加工前の石の面はこの時点で既に平面加工が成された平滑である。
転害門について考える
【編集後記】
・奈良 東大寺 転害門(西門)と石臼について
1985年にNHK教育テレビで放送された市民大学講座『粉の文化史全12回』を受講したことがある。
講師は同志社大学で教えておられた 三輪 茂雄氏であった。
講座が終了したあと、この講座のテキストを基に同じテーマで一冊の本に纏めれ出版された。
私は本箱に、市民大学講座のテキストと新潮選書から出版された同じタイトル『粉の文化史』の二冊を大切に保管している。
三輪氏は、その著書の中で自らの経験として興味深い逸話を掲載されている。
第二部を終了するにあたり、是非その逸話を紹介したいと考えたので、【編集後記】で紹介する。
まずは、以下にその部分を書き出して紹介する。
【・・・・・今の転害門はもともとは「碾磑門」であり、そこの近くに人の目をひく美しい石ウスがあったことだけは確かだ。
この話を学生諸君に話したところ、熱心な学生達が付近を調べて「臼目らしい跡のある石が基壇部分にありました」と、写真を持ってきた。さっそく見学に行った。確かに単なるいたずらにしては出来すぎている。八分画十六溝 直径約1メートル余りのウスの目のパターンが復元できるのである。それぞれ隣接する分画も一部分が確かに存在する。「これは偶然のいたずらだよ」と私は言い切ることができなかった。定規をあてると、筑前 観音寺の 碾磑(てんがい)」と同じく完全な平面加工の形跡もある。さりとて、碾磑と断定するには転用されていて確証がない。天平の謎は容易にはとけない・・・・・・・・・・・・・・・】
皆様は、どのようにお考えでしょうか?
私は、非常に興味深い話だと感じております。
参考文献:「粉の文化史」 三浦茂雄著 新潮選書
第四章「石臼伝来を暗示する日本書紀の記述」より
写真・文責 児玉 博文
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次回をお楽しみに
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