李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」を読んで(20) | 気まぐれな梟

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 今日は、パク・ウンビンの「ブラームスは好きですか?」からチェン(EXO)のYour moonlight(君の月明かり)」を聞いている。

 

 李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」(以下「李論文」という)は、対馬の名義について、以下のようにいう。

 

(37)対馬の名義


 「対馬」は何の表記であるのか。日本では対馬島の「対馬」だけをtsu-simaと読んでいるが,「対馬」がはじめて命名され,表記された時はどんな語形を表記したのか。また,その意味は何か。「対馬」の表記は誰がしたのであり,その表記は借音なのか,借訓なのか。また,現在,日本ではなぜこれをtsu-simaと読むのかが問題になる。

 

(a)文献によって異なる対馬の表記


 「三国志」(魏志東夷伝,倭人伝)に「始度一海千余里至対馬国」の記事がある。ここで「対馬」が文献上はじめて表われる。「三国史記」には「対馬島」,「桓檀古記」には「対馬島」「対島」,「新増東国輿地勝覧」には「対馬州」と記されている。「書紀」には「対馬国」「対馬島」「対馬洲」,「旧事本紀」には「対馬州」となっている。唐の魏徴などが撰した「隋書」(倭人伝)と,唐の李延寿が撰した「北史」(倭国伝)には「都斯痲」となっており, 「古事記」には「津島」と記されている。「和名類聚抄」には「対馬島く都之万〉」に,「大和本紀」には「集島」,「両朝平壌録」(図書編)には「対海国」と記されているl)。そして,日本の近古以来,対馬の「馬」を省略して「対州」に常用され,朝鮮からの文書には「馬州」とも記されており,現在では対馬島の「島」を省略して「対馬」をtsu-simaと読んでいる。

 

 このように,この島に対する表記は文献によってまちまちである。これをa)「対馬」などの表記と,b)津島などの表記に分類すると次の通りである。


 a)対馬国,対馬島,対馬洲,対馬州,対馬,対州,馬州,対島
 b)都斯痲,都之万,津島,集島
 c)対海国


 上のa)では「対馬」に各々「国・島・洲・州」が付けられ,「対馬州」「対馬島」の中のどの字かが省略されている。

 

 b)は借字は違うがすべてtsu-simaの表記である。すなわち,「都・津・集」はtsuの表記であり,「斯痲・之万」は'島'の訓であるsima(韓国語のsəm)の表記である。「斯痲」がsəm(島)'の表記であることは,百済の武寧王の陵墓から出土した墓誌にある「斯痲主」が「書紀」(武烈紀)には「嶋王」と記されているのをみてもわかる。「晴書」「北史」の「都斯痲」の「斯痲」と,武寧王陵の「斯巍主(嶋王)の「斯痲」が一致しているのである。このように,都斯痲の「斯痲」が‘島'の表記であることから,「都斯痲」は「津島」(tsu-sim)の表記であることがわかる。「津島」が記録されている「古事記」は8世紀の文献である。津島の「津」(tsu)は,対馬の「対」の声母t-が破擦音化した後代の音を表記したものであり, sima(斯痲)は'島'である。

 

 c)の「対海国」は「対馬島」の誤りであるとみることもできるが,これは記録者の位置でみる時,対馬の位置が‘海に面している'地理的環境を反映したものであろう。


 それでは,上のa), b)の対馬島,津島(tsu-sima)などの名称は何を意味するものであろうか。これについて下記のような説がある。

 

 ①「古事記」の「津島」(tsu-sima)の表記の字義通りに解して,‘津がある島'と解釈した。「津」は船舶が停泊するところで,‘渡し場,港'の意味である。

 

 しかし,このような命名は認め難い。対馬は古代に国があった大きい島で,この島の名称が渡し場(津)があったことに由来するものとは思われない。日本列島からみれば,本州と九州の日本人が韓国や中国に行く途中の渡し場(津)は壱岐島にもある。古代における対馬の渡し場(津)の利用は,日本側からよりも韓国側から考えるべきである。 wata-ru(渡)の語の語源からみるように,韓国から多くの人が渡って行つたからである。

 

 すなわち,古代日本語のwata‘海'は韓国語のpata‘海'から語形が変化したもので, wata-ru(渡)はこのwata‘海'に動詞化の接尾辞の-ruが付けられたものである。また,日本語のwani‘大舟'は15世紀の韓国語のpaj(バイ)(<*pai<*pani‘船')と比較される。

 

 ②対馬の名称の由来について,韓国の崔南善・金廷鶴は韓国語のtu-səm‘二島'に由来するものとしている。

 

 しかし,12世紀初の「鶏林類事」にtul‘二'を「途孛」,日本の「二中暦」にはツフリtsufuri‘二'と表記しているので,‘二'は*tobal(途孛)あるいはtubul(途孛)と再構成される。「七大万法」には'二'を子音tuulと記しているが,子音tuulの音ulは「孛」のb-がw-を経て脱落した形跡である。

 

 これからみると,‘二島'はtobal-səm/‘tubul-səmでなければならない。ゆえに,この‘二島'由来説にも従うことができない。

 

 ③日本の沙門義堂が撰した「日用工夫略集」には'対馬は馬韓に対する義'とし,小山樸(俗名朝三)が撰した「州府浣石亭」の記にも「対馬の字を用いることは馬韓に対するからである」とした。


(b)「対馬」の表記者


 対馬の名称は3世紀の陳寿(233-297)が撰した「三国志」に,すでに「対馬国」と表記され,「三国史記」には「対馬島」と表記されている。では,この「対馬」はその当時にどんな語形を表記したものなのか。また「対馬」をはじめて表記した人は誰なのかが問題になる。つまり,これは倭人による表記なのか,韓国人による表記なのか,あるいは中国人による表記なのか,またこれが如何にして中国の記録に登載されたのか,ということが問題になるのである。これは次の三者のいづれかであろう。


 イ)「対馬」は対馬の人たちが呼ぶ島名を,中国人が直接聞き取って、これを「対馬」と表記し,「三国志亅に載せたものである。

 

 口)「対馬」は北九州の倭人,または大和地方の倭人によって表記されたもので,それが倭を往来していた中国の使者によって「「三国志」に載せられたのである。
 

 ハ)「対馬」は対馬または韓半島に住んでた韓国人によって表記されたもので,これが中国の「三国志」や韓国の「三国史記」に載せられたのである。
 

 この「対馬」の表記を上のイ)とみるのは難しい。対馬の人たちが呼んだtsu-simaを,3世紀にこの島を往来した中国人が「対馬」と表記したとはみられない。 tsu-simaの語形と「対馬」の音が合わない。

 

1)中国史書の古代朝鮮の国名表記は借訓表記だった

 

 古代中国の史書に載った韓国の古代国名・地名も,中国人が聞き取って表記したものではなく,韓国人によって表記されたもので,これが中国を往来していた使者を通じて中国の史書に載せられたのである。

 

 つまり,「高句麗」(「後漢書」)は'suri-guru‘首城'の表記であり,「貊国」(「後漢書」)は「貊耳」すなわちkoma-ki‘君城'‘君邑'に由来したものであり,「辰韓」(「三圃志」)の「辰」は「彌知(=miti)」‘邑'の借訓による表記であり,「馬韓」(「三国志」)の"馬」と「弁辰」(「三国志」)の「弁」はkaraの借訓表記と考えられる。

 

 上の国名で「高・貊・辰・馬・弁」は借訓による表記で,中国人はこのような表記(借字)はなし得なかったはずである。したがって,この表記は漢字を知る韓国人によったものとみなければならない。

 

2)「魏志倭人伝」のころ、日本人は漢字を知らず、日本に馬はいなかった

 

 このように,「対馬」の表記も上の三者の中でハ)とみるべきである。これを口)とみることはできない。なぜならば,3世紀には倭に文字がなかったからである。百済の王仁が論語十卷と千字文一巻をたずさえて,倭に行ったのは5世紀の末期あるいは6世紀の初期であった。

 

 また,3世紀には倭に馬もいなかった。「三国志」(魏志東夷伝,倭人伝)には,倭に牛馬がいなかったと記されている。
 

  其地無牛馬虎豹羊鵠兵用矛楯木弓
 

 倭に馬が入って行ったのは5世紀の末期,あるいは6世紀初期のことである。「書紀」応神15世紀に,百済が阿直岐をして良馬二匹を送ったと記されている。
 

  十五年秋八月云云百済王遺阿直岐貢良馬二匹
 

 文字を知らず,また馬という動物を知らない倭人が「対馬」を表記することはできなかったであろう。したがって,「対馬」は倭に先立って,文字(漢字)と馬をもってこの島に渡って住んでいた韓国人により表記されたものとみざるを得ない。

 

3)対馬の地名には古代韓国地名と同じものが多く,その表記においても韓国地名の表記と同じものが多い

 

 そして,その理由として,「対馬」が古代韓国語で表記されており,対馬の地名に古代韓国地名と同じものが多く,その表記においても韓国地名の表記と同じものが多いからである。

 

 すなわち,「三国史記」「新増東国輿地勝覧」などの地名と,現在の対馬の地名が表記上一致するのが多い。このような地名はそこに住んでいた古代韓国人によって文字上に定着きれ,今日に伝えられて来たものと考えられる(―印の前のものは対馬の地名であり,後のものは古代韓国の地名である)。


  鶴山・鶴舞山一鶴山・鶴城山,鶴翼山一翼山,飛岳一飛鶴山,念佛坂一念佛山,星山一星岩―星山・星厳,

  月輪山一月嶽・輪山,龍崎―龍山・龍岳,双六坂一双岳・双山,笠島一笠山,白岳・白嶽一白岳・白嶽,

  醴泉町-醴泉郡,車瀬―車灘,甑崎一甑山,亀岳‐亀山・亀嶺,釜浦―釜浦,鼎冠山一鼎山一冠山

 

4)三韓時代と三国時代に,韓半島から多くの人が渡海して対馬に住み、7世紀末頃まで新羅・百済・高句麗の邑落国がこの島にあった

 

 対馬は釜山と約50kmの可視的距離にある。「両朝平壌録」(日本部)に「対馬島は朝鮮と相対す。対馬島より釜山まで五百里,順風の節,一日に着する」とあり,「皇明従信録」には「釜山と対馬島と相望む。帆を掛け,半日に着くべし」とある。それで,対馬は三韓時代と三国時代に,韓半島から多くの人が渡海して住んだものと考えられる。

 

 4~6世紀頃,任那国も対馬にあり,7世紀末頃まで新羅・百済・高句麗の邑落国がこの島にあったのである。すなわち,「書紀」の任那記事に表われる新羅・百済・高麗はここの邑落国であったのである。現在,対馬にはこの邑落国の地名の痕跡がみられる。

 

5)「対馬」は漢字を熟知していた古代韓国人によって表記され,中国を往来した使者たちによって「三国志」に記載された


  「対馬」は漢字を熟知していた古代韓国人によって表記されたもので, これが中国を往来した使者たちによって「三国志」に記載されたのであろう。2~4世紀頃に築造された金海の良洞里古墳から漢代の鏡や銅鼎及び高い文化を示す装身具などが出土された。これをみて,3世紀頃の伽揶人や対馬に住んでいた韓国人は,漢字で固有名詞を表記する程の能力があったものと考えられる。

 

(38)批判と補足(その一)

 

(a)‘対馬‘の表記者は濊人を主体とした楽浪商人

 

 李論文は、古代中国の史書に載った韓国の古代国名・地名は,借訓による表記で,中国人はこのような表記(借字)はなし得なかったはずであるので,この表記は漢字を知る韓国人によったものとみなければならない、という。

 

 そして、 「対馬」は漢字を熟知していた古代韓国人によって表記されたもので, これが中国を往来した使者たちによって「三国志」に記載されたのだ、という。

 

1)上古中国語の発音が漢字の訓になった

 

 しかし、𠮷田金彦編「日本語の語源を学ぶ人のために(世界思想社)」所収のと小林昭美の「日本語と古代中国語」、小林昭美の「新説・日本語の起源」、同「「やまとことば」の来た道」(以降、これらを一括して「小林論文」という)によれば、呉音が日本に伝播する以前に上古中国語の発音が日本に伝播し、現在の漢字の「訓」となったというので、誰かが日本列島に住む倭人にその上古中国語の発音を伝播させたのだと考えられる。

 

2)弥生時代後期後半には楽浪人(楽浪商人=濊人)が対馬・壱岐・北部九州玄海灘沿岸で積極的に交易

 

 白井克也の「勒島貿易と原の辻貿易」(以下「白井論文」という)は、朝鮮半島南部と日本列島の交易の変遷について、おおむね以下のようにいう。

 

 (弥生時代中期前半)の日本列島では,渡来韓人が佐賀平野などに定着し,本格化に青銅器生産を営んだ。こうした青銅器工房の経営には,銅素材の安定的な供給が欠かせない。一方,この時期には戦国系鋳造鉄斧などの舶載鉄器が北部九州のみならず,日本海沿岸や畿内地域にもたらされている。

 

 したがって,弥生中期前半に,朝鮮半島から西日本に及ぶ継続的な物資の往来があり,その交易の主たる舞台は日本列島の外の、勒島遺跡を舞台とする物資の交換であり、これを勒島貿易と呼ぶ。

 

 勒島貿易は,朝鮮半島の政治変動による韓人の日本列島移住という事態のなかで鉄器・青銅器に対する倭人の需要が刺激されたのに対し,朝鮮半島の政情安定によって朝鮮半島からの物資の流入が鈍ったために,倭人の側から積極的に朝鮮半島南岸での交易を展開したことにより成立した。

 

 (弥生時代中期後半)の時期に勒島貿易が求心力を失ったが、その背景としては,西北朝鮮における衛氏朝鮮の滅亡と楽浪郡など漢4郡の建郡による交易機構の解体・再編が考えられる。

 

 日本列島に再びもたらされた粘土帯土器のうち,原の辻遺跡のみで擬朝鮮系無紋土器が生み出されているが、これは,韓人が原の辻遺跡に居住し,交易に従事していたことを示す。また,原の辻遺跡で出土する弥生土器が糸島地域などの北部九州の土器であるとすれば,勒島に代わって壱岐が交易の重要拠点となり,韓人・倭人が島外からこの地を訪れて物資の交換に従事したと考えられ、これを原の辻貿易と呼ぶ。

 

 弥生中期後半に対馬・壱岐で粘土帯土器が増加する現象について後藤は,壱岐・対馬が「積極的な仲継者としての位置を獲得したため」とみなし,そこから,「交渉の主導権が小地域社会からそれらを統合するより上位の集団・支配者層へと移り,交渉の規模と性格が拡大・変化した」と解釈した。

 

 弥生中期後半には,北部九州の三雲遺跡群や比恵・那珂遺跡群などの集落で集住化が起こっており,そうした拠点集落では石器の使用が衰退して鉄器の使用が日常化している。また,弥生中期前半まで筑後平野の渡来人集落などに散在していた青銅器生産工房はいくつかの遺跡に集約され,続く弥生後期には,福岡県春日市・須玖岡本遺跡などで名高い春日丘陵が中心的な青銅器生産地となる。

 

 このような拠点集落は,食糧や鉄器・銅素材などを安定的に供給する機構が存在しなければ維持が難しいと思われるので、そのため,楽浪建郡の余波で結束を強めた北部九州の倭人集団が,集落維持のために原の辻貿易のいわば"大株主"となっていた状況が想定できる。

 

 弥生中期末に三韓土器・楽浪土器が搬入され始め、三雲遺跡群には楽浪人が居住し,政治的な交渉が行われた。

 

 畿内や瀬戸内の弥生中期末には高地性集落がみられ,この時期を境に旧来の拠点集落が廃絶し,新たな拠点集落が営まれるが、これは北部九州からの物資の新たな流通に対処するための集団の再編を示すもので、瀬戸内が北部九州から東に向かう主たる交易経路となるのも,このときである。

 

 そうした間にも,原の辻遺跡における交易が継続し,それと深い関係にあった北部九州の三雲遺跡群や比恵・那珂遺跡群のような拠点集落が存続していることを考えると,原の辻貿易ではおもに北部九州の倭人が活躍しており,瀬戸内・畿内への物資の流通もある程度制御していたと考えられる。

 

 (弥生時代後期後半は)原の辻貿易が継続し,繁栄していた時期であるが、この時期,三韓土器は北部九州から瀬戸内・畿内に分布するが,一方,楽浪土器の器種をみると,物資の運搬に有利な,大きすぎない壺・鉢・杯が主体となる。このような器種構成の変化は,三雲遺跡群での楽浪人の滞在という特殊な政治状況から,交易を中心とする交渉へと遷り変わった可能性がある。

 

 (楽浪土器の)分布を見ると,福岡県糸島郡二丈町・曲り田遺跡や深江井牟田遺跡で楽浪土器が出土するようになり、弥生後期後半~終末には対馬の墳墓に楽浪土器の副葬が増加するが、前後の時代を見渡すと,対馬での朝鮮産土器の出土傾向は日本列島のいずれの地域とも一致せず,むしろ各時期において対岸の最も近い地域の土器が多くみられるので、対馬の人びとにとって,それらは生活や副葬に必要とされたのであり,北部九州の倭人が北部九州の弥生土器を用いるのと同様,身近に入手し,用いたのであろう。

 

 そのような傾向から考えると,楽浪土器を産地から遠く離れた対馬で用いることは特異であり,対馬の人びとにとって身近に楽浪土器が流通していたか,あるいは楽浪人が対馬の近辺で積極的な交易活動に従事していたと考えられる。

 

 一方,これまで楽浪土器のみられなかった福岡平野・筑後平野に登場した楽浪土器は,いずれも1点ずつであり,交易などで倭人が楽浪土器を少量入手した状況が窺われる。

 

 以上より,弥生後期後半には楽浪人が朝鮮半島南部・対馬・壱岐・北部九州玄海灘沿岸で積極的に交易に関与し,各地の倭人もそれに応じて,楽浪土器の分布が拡散したと考えられる。楽浪人は西日本の交易機構に大きな改変を迫ることはなく,むしろ,従来の交易機構のなかに取り込まれ,それを利用することで交易を成り立たせていたと考えられる。

 

3)「対馬」を表記したのは「古代韓国人」ではなく「楽浪商人」である

 

 こうした小林論文と白井論文から、呉音以前の上古中国音の日本への伝播は、弥生時代後期後半に日本列島に渡来して各地で交易に従事した楽浪人(楽浪商人=濊人)による交易活動によってであったと考えられる。

 

 楽浪郡は漢帝国の直轄地であったので、そこにいた楽浪商人は「漢字を熟知していた」はずである。

 

 また、以前ブログ記事「「魏志倭人伝」の「狗奴国」と「其余傍国」の所在地について」で述べたように、「三国志」の「魏志倭人伝」や同「韓伝」の国名リストが楽浪商人が書いた彼らの交易ルートの一覧表であったことからも、楽浪商人が交易をするうえで、交易対象の人たちが住む地に地名を付けることが必要になったはずである。

 

 そうすると、「魏志倭人伝」などに書かれた朝鮮や倭国の国名は、楽浪商人が、彼らの交易活動の必要のために、在地の人たちの言葉も参考にしながら、彼らの漢字の知識を駆使して付けたものであり、その楽浪商人によって付けられた国名を採用して「魏志倭人伝」が書かれたのだと考えられる。

 

 以上から、「「対馬」は漢字を熟知していた古代韓国人によって表記された」という李論文の主張には従えず、「対馬」を表記したのは「古代韓国人」ではなく「楽浪商人」であるので、「対馬」が古代朝鮮語を漢字で表記したものであるという李論文の主張も根拠がなく、従えない。

 

 なお、倭人の「倭」は古代朝鮮語では「倭理」とも表記されたが、「倭」は中世韓国語の上声のjeiであり、中世韓国語で上声の語は古代朝鮮語では二音節語であったと考えられるので、「倭理」の「理」はjeriのriを示すものであったと考えられるので、「倭」は古くはjeriと発音されていたと考えられる。

 

 濊人の「濊」の字音は中国語の去声のjeiであるが、中国語の去声は韓国語では上声になるので、「濊」は中世韓国語の上声のjeiである「倭」と同じアクセントになる。

 

 「濊」jeiが中国上古音で-dという語尾を持っていたとすると、「濊」jeidと「倭」jeriの語形は、似てくる。

 

 これらから、「倭人」を存在を古代中国人が認識したのが楽浪商人を通じてであり、その楽浪商人の多くが濊人であったとすれば、おそらく「倭人」の「倭」とは、濊人が自分たちの「濊」に類似した名を日本列島に人たちに付けたもので、「倭人」とは楽浪商人たちによる他称として使い始められた言葉であったと推定できる。

 

(b)壱岐や対馬に朝鮮人が住んでいたのは一時的な交易のため

 

 李論文は、「三韓時代と三国時代に,韓半島から多くの人が渡海して対馬に住み、7世紀末頃まで新羅・百済・高句麗の邑落国がこの島にあった」というが、「韓半島から多くの人が渡海して対馬に住」んだ理由として挙げているのは、「対馬は釜山と約50kmの可視的距離にある」ということだけである。

 

 白井論文によれば、弥生時代中期後半から同後期後半までの朝鮮半島南部と北部九州との交易は、壱岐の原の辻遺跡を交易の場として行われた。

 

 壱岐や対馬に古代朝鮮人が住んでいたのは確かだが、「魏志倭人伝」では対馬国は、「所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴」と書かれ、「良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどしている」とされているので、そうした「良い田がない」ような対馬や壱岐への古代朝鮮人の居住は、交易のための一時的な居住という性格のものであったと考えられる。

 

 そして、交易が倭人と朝鮮人の双方の交渉と協力で行われるものであるならば、多数の古代朝鮮人が対馬や壱岐に移住して交易に従事することは、現地の倭人の交易利権を奪うこととなって、結局交易を阻害することになるとともに、そした交易の全体をコントロールしていたのが楽浪商人であったとすれば、そうしたコントロールから外れるような古代朝鮮人の交易活動が許容されることはなかったと考えられる。

 

 そうであれば、対馬や壱岐に古代朝鮮人たちが彼らの国を作る利点は存在しなかったと考えられる。

 

 このように考えると、李論文のいわゆる「分国論」は非現実的であり、戦前の日本による韓国併合に対する感情的な反発を、「江戸の仇を長崎で」のように、学問の世界に持ち込んだ暴論である。

 

 なお、対馬や壱岐に朝鮮の影響が強く存在しているのは、三韓時代や三国時代のみのことによるものではなく、江戸時代の朝鮮通信使などのように、もっと後世まで継続する朝鮮と日本の交易・交流の蓄積の反映であって、対馬や壱岐、日本列島への朝鮮の強い影響の存在によって、「分国論」を正当化することは出来ないと考えられる。

 

(c)日本が馬を受け入れたのは五世紀

 

 「李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」を読んで(18)」で述べたように、日本が馬を受け入れたのは五世紀であったと考えられるので、「魏志倭人伝」の書かれた時代には倭人は馬という動物を知らなかったと考えられる。

 

 しかし、漢帝国の直轄地にいて漢帝国と交流のあった楽浪商人であれば、「馬」を見たことがあったはずであり、彼らには「対馬」という漢字表記は、可能であったと考えられる。