李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」を読んで(19) | 気まぐれな梟

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 今日は、パク・ウンビンの「無人島のディーバ」から  Kassy (ケイシー) の「I’ll Pray For You」を聞いている。

 

 李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」(以下「李論文」という)は、人名に付ける尊称辞について、以下のようにいう。

 

(35)人名に付ける尊称辞

 

(d)ムチ(貴)


 ムチ(貴)は「書紀」(神代紀)の神名にみられる尊称辞である。すなわち,「大己貴」「道主貴」,また「八島牟遅」などにみられる「貴」「牟遅」は,その表記の「貴」から推察されるように,身分の尊貴な者に付ける尊称辞である。

 

 ところで,この尊称は「麻呂」と同源の語と思われ、mutsi(貴)はmaroの異形態の*maru‘宗・頭'に人称接尾辞の-tiが付けられ,ruが脱落して*maru-ti>muru-ti>mu-tsに,その語形が変化したものとみられる。訛音のrは何処においても容易に脱落する。

 

 ここで,*muru-ti形の再構成が可能なのは,「新撰姓氏録」(三間名公条)の弥摩奈国主(「三間名」「弥摩奈」は「任那」と同じmima-naの表記である),すなわち,任那国主の名前に牟留至王の「牟留至」muru-ti)がみられるからである。この*muruは'頭・宗'を意味するmari・mʌrʌと同源とみられる。

 

 新羅で‘王'を「麻立干」といったが,この「麻立」は'頭'を意味するmariの表記である。また,高句麗で政権と兵権を総攬する最高職をいう「莫離支」はmari-tiの表記で,この「莫離」も‘頭'を意味するmariであり,-tiは人称の接尾辞である。

 

 *muru-ti(>mu-ti,貴)において,接尾辞の-tiは新羅の金閣智(*ara-ti)と,新羅使蘇那曷叱智の「智」にもみられる。人名に付けられるこの「智」は,新羅真興王の拓境碑に多くの例がみられる。

 

 そして,この-tiは日本においても‘疾風'を意味するhaja-tiなど,威力のある神霊の称号にもみられる。

 

 対馬の神社名,都都智神社のtsutsu-tsi(都都智)において, tsutsuはsasi‘城'と同源語であり, -tiは人称の接尾辞でtsutsu-tiは,そこに祀ってある‘城主’を指すのである。tsutsu-ki(筒城)は地名であり, tsutsu-ti(都都智)は‘城主'の意味で, -tsi(<-ti)は人称接尾辞である。

 

 したがって,ムチ(貴)は最高者を意味するmuru-tiからruが脱落したもので,ただこの語が南下するにつれてその意味が縮小されたようである。


(e)マロ(麻呂・萬侶・丸)


 古代人の人名にmaroが付けられた。このmaroの敬称は,奈良時代には一般の男子の名前に多く使われ,平安時代には男女の自称語として広く使われた。後代になっては児童の名前にも使われたが,それには「丸」の字が多く借用された。牛若丸・多聞丸など。

 

 日本男子の美称とする「マロ」は新羅語の‘宗’を意味するmʌrʌと比較されるのであるが,新羅の人名には「夫」の字が多く用いられた。


  異斯夫〈或云苔宗〉姓金氏(「史記」44,列伝異斯夫)
 

 上記の異斯夫=苔宗の関係において,「苔」(訓,is,「杜解」初十五15)と「異斯」が対応することから,「夫」が「宗」(訓,mʌrʌ)の語形を表記したのであることがわかる。「三国史記」の「居漆夫・弩里夫・夫珍夫・比助夫・西方夫」などにみられる「夫」はmʌrʌ(宗)と同じ語形の表記である。日本の人名に付られたマロ(麻呂・萬侶)は,この「夫」(mʌrʌ)と同じものである。


(f)ウマ(馬)と韓国語のmal(馬)


 日本で‘馬’をumaというが,これは韓国語のmal‘馬’に比較される。

 

 3世紀の末頃に書かれた「魏志東夷伝」によれば,当時,倭には馬がなかったとしている。

 

 それでは,倭に馬が入ったのは何時だったのか。「書紀」によれば,応神15年に百済王が阿直岐を遣わして良馬二頭を贈ってきたと記されているが,それは5世紀末あるいは6世紀初のことである。したがって,日本にuma‘馬'という語が入ったのも,その頃であろうと思われる。

 

 当時のuma‘馬'という語の語形がどうであったかは確かではないが,今日のumaはその残形であることは間違いない。

 

 このumaのuは,mの発音を容易にするために添加された母音であり,maが本来の‘馬’の語の残形である。このmaは韓国語のmal(またはmʌl<*mʌrʌ) のl(またはrʌ)が脱落した痕跡である。

 

 添加された母音uはume(梅)においてもみられる。日本語では語頭に音が添加されることが多いので,uma‘馬'をmumaともいう。このuma(馬)ume(梅)の発音で,強勢は後の音節にあり,uは軽く発音する。

 

 韓国語においては,mの前に母音が添加される例はみられないが,rの前に母音が添加される例はある。

 

 すなわち,旧韓国末期にロシア(露国:rasia)をarasaといいrasia軍隊をarasa軍隊といった。また,'幸運'を意味するluckyをulackyといった。当時,東京留学生の間にulackyというグループがあって,「ウラキ」という名称の雑誌も発刊された。

 

 umaのmaは韓国語のmalから,lが脱落したもので,このlの脱落は韓国語のmaŋ-adzi‘子馬'にもみられる。すなわちmag-adzi‘子馬'はmal‘馬'+adzi‘子'からmalのlが脱落し, maと'子'を意味する接尾辞のadziの間に,母音の衝突を避けるためのŋが挿入されたものである。

 

(36)批判と補足(その二)

 

(d)「尊者」の意の朝鮮語mojに尊長を表わす接尾辞のti,ci,chiが付加された「貴」moj-ciが音転してmu-chiとなった

 

 李論文は、mutsi(貴)は「書紀」(神代紀)の神名にみられる尊称辞であり、maroの異形態の*maru‘宗・頭'に人称接尾辞の-tiが付けられ,ruが脱落して*maru-ti>muru-ti>mu-tsiに,その語形が変化したものとみられる、といい、「新撰姓氏録」(三間名公条)の弥摩奈国主(「三間名」「弥摩奈」は「任那」)の名前に牟留至王の「牟留至」muru-ti)がみられることをその根拠としている。

 

 mutsi(貴)の-tsiが人称接尾辞の-tiに起源するものであることについては異論はない。

 

 しかし、「新撰姓氏録」(三間名公条)の弥摩奈国主牟留至王の「牟留至」muru-tiが証明するのは、muru-tiという語形が存在したことだけであり、maroの異形態の*maru‘宗・頭'やその異形態*mariに人称接尾辞の-tiが付けられる例があったこと自体は、高句麗で政権と兵権を総攬する最高職をいう「莫離支」mari-ti/mal-chiの存在からも分かることではあるが、それらのことと、muru-ti>mu-tsiという音変化が生じたことの証明とは別問題である。

 

 また、「新撰姓氏録」の成立はAD815年(弘仁六年)であり、高句麗の「莫離支」mal-chiは、高句麗の王権が衰退した高句麗後期に出現する官職であって、その設置開始時期は、東亜歴史財団編「高句麗の政治と社会(明石書店)の、「平原王(在位557~590)代から淵蓋蘇文の政変までの80年余りの間、政局が比較的安定していた背景には、各貴族集団を率いる有力家門の代表者が多数の莫離支職を占め、大対慮の周期的な選出過程において勢力関係の調整と政治的合意を引き出す貴族連立的政治運営があったものと考えられる」いう指摘から、韓国ドラマ「王女ピョンガン 月が浮かぶ川」が描いた時代でもある平原王(在位557~590)代のころであったと考えられる。

 

 mari-ti/mal-chiが六世紀後半、muru-tiが九世紀に初めてその存在が確認されるが、八世紀に「古事記」に表記される前の、六世紀半ばに纏められた原「古事記」に相当する史書にmu-tsiが表記されていて、それ以前からmu-tsiが使用されていたとすれば、mari-ti/mal-chiやmuru-tiが音転してmu-tsiになったという仮定は、mu-tsiの成立時期と齟齬を生じることになる。

 

 畑井弘の「古代倭王朝論(三一書房)」(以下「畑井論文」という)は、mu-tsi「貴」の語源について、以下のようにいう。

 

 見……神・鬼・霊・氏祖・尊者を表わす尊称

 王に近侍する尊者、倭国の場合ならば「臣・連」に相当する尊長を、韓訓ではmoj,mi「陪mi」という。音ではhæ「解」he、南解王に近侍した「大輔脱解」の「脱解tʌl-hæ」の「解」heがそうである。

 「三国志」魏書倭人伝に見る投馬国の長官「弥弥mi-mi」、次官の「弥弥那利mi-mi-nari」について、金思烽教授は、

 

 弥弥―「ミミ」の音訳。「身・本・中心・主」の義をもつ語で、官位名としては「主官・上官」の意。


 弥弥那利-「那利」は「ナリ」で「下」の義。「次官」の義である。

 

という。

 

 この「弥弥」を「耳」で倭訓表記したのが「太耳」をはじめ記・紀に頻出する神名・人名の「-耳」である。「耳」は韓訓でkyといい、「貴・鬼」の漢語系語音kyと全く同音であることから、「貴人」や「鬼神・霊・祖神」の類を呼んで「-耳」という記・紀流表記がなされたのであろうが、「ミミ」はあくまでも「尊者」の意の朝鮮語moj~miと語源を同じくし、重ね詞としてのmi-mi(弥弥)であろう。


 「貴人」を「ムチ」とする古訓にしても、このmojに尊長を表わす接尾辞のti,ci,chi(智・知・支・側・祇・借・遅・致・枳・尺・赤・色)が重なったmoj-ciであろう、と思われる。
 

 いずれにせよ、「耳」と「見」は同等の意をもつ語であり、mi-miとmiの倭訓表記でしかなく、「大綿津見神・大山津見神」の例を挙げるまでもなく、「見」は神・鬼神・霊・氏祖・尊者などを意味するmiである。

 

 このように、畑井論文は、「尊者」の意の朝鮮語mojに尊長を表わす接尾辞のti,ci,chiが付加された「貴」moj-ciが音転してmu-chiとなったという。

 

 mojが音転したmi「耳」や「見」が「魏志倭人伝」や「日本書紀」「古事記」に表記されていることから、「貴」mu-chiの語源は、李論文の説よりも畑井論文の説の方が妥当であると考える。

 

(e)古代日本語の「麻呂」は、人類祖語のmu-lu「主人」に起源する言葉に古代朝鮮語のmʌ-lʌ「山岳」に起源するmʌ-lʌ「宗」が上書きされていったものであった

 

 李論文は、日本男子の美称とする「マロ」は新羅語の‘宗’を意味するmʌrʌと比較されるというが、それだけであり、ではそのmʌrʌの語源やmʌrʌがmaroに音転する経過窓については、何も説明してはいない。

 

 金論文は人名に付けられたmʌ-lʌ‘旨'‘宗'‘夫'‘麻立'‘麻呂'の語義について、以下のようにいう。

 

 上古時代、人名に添尾されて美称、尊称を表わす語にmʌ-lʌがある。まず語義から見ることにする。

 

 ①「山嶺」の義
 

 このばあい、「旨」の字を使っている。
 

 竹旨 及伐山郡(「三国史記」巻三十二・志一・祭祀)

 所居北亀旨 是峰巒之称 若十朋伏之状故云也(「三国遺事」巻二・駕洛国記)

 

 このmʌ-lʌはmoj(山・岳)の別形であって、ma-lu,mo-loと音転する。日本書紀に「辟支山・古沙山」(神功皇后四十九年)、谷那鉄山(同・五十二年)、居曽山(欽明天皇二十三年)などの「山」を「ムレ」と訓じているのも同語である。


 ② 人名に添尾するばあいは、mal,ma-liは「山嶺」の義ではなく、「宗」(上・首)の義の美称である。

 

 朴堤上 或云毛末(‘毛末‘thə-mʌ-lʌ)  (「三国史記」巻四十五・列伝五)

   毛麻利𠮟智(thə-mʌ-lis-ti)      (「日本書紀」神功皇后紀)

 

 三国史記にはmʌ-lʌを「宗」の字で表記している例が多い。

 

 翌宗(祇摩王時人)近宗(逸聖王時人)允宗(奈解王時人)苔宗(異斯夫、智証王時人) 原宗(法興王諱)

彡麦宗(深麦夫、真興王諱)荒宗(居柴夫、真興王時人)


 〔法興王諱「原宗」はchʌl-mʌ-lʌ、これを日本書紀(巻十七・継体天皇二十三年)では「新羅王佐利遅」chʌl-chiとなっている。「原」の訓はchʌl。

 

 mʌ-lʌは、苔宗(異斯夫)、荒宗(居柴夫)で見られるとおり、「宗」のほかに「夫」の字でも記写している。

                   。
 昌寧の真興王拓境碑につぎの人名が見え、いずれも「夫」の字が使われている。


 里夫 居七夫 竹夫 心麦夫 春夫 須夫


 磨雲嶺の真興王巡狩碑に書かれている人名である。


 居杞夫 内夫 比知夫 及珍夫 奈夫


 この人名の美称、mʌ-lʌ・mal(宗・上・頭)は高句麗の人名にも使われているし、日本にも人名には「麻呂」、船名、器物名には「丸」の字で使っている。


 新羅の王号「麻立干」はmal-han、高句圖の官名「莫離支」はmal-chiで、ともに(頭・上・宗)の借字である。

 

 mal・ma-liは「頭・首」の訓、mʌ-lʌは「宗」(棟・背梁)の訓、ma-lo・ma-lu「庁」(抹楼)の訓であるが,

みな「頭・上」の原義をもつ同源語である。

 

 金論文はこのようにいう。

 

 古代朝鮮語では‘山‘を指すtʌl‘達‘が国・地方を表すtu-ri‘周‘に、同じく山を指すmʌl‘峰‘が国・地方を表すpʌl‘原・野‘に、それぞれ意味変化していくが、それとともに、それらの国や地方を支配する王や族長、首長を指す言葉も、それらの言葉から派生していった。

 

 例えば、高句麗の高官の‘達率‘の‘達‘は山‘を指すtʌl‘達‘であるので、山を指すmʌl‘峰‘からmʌl‘頭・上・宗‘という意味変化を媒介にして、新羅の王号「麻立干」のmal、高句圖の官名「莫離支」のmalなどが派生したと考えられ、そのmalが日本に伝播して、人名の「麻呂」ma-loが誕生したのだと考えられる。

 

 なお、高句麗の王都の国内城を丸都城ともいうが、この「丸」は、mʌl‘頭・上・宗‘という意味なので、「丸都」とは「首都」という意味であったと考えられる。

 

 しかし、こうした伝播があったことを前提にして、そうした伝播に上書きされたのだが、人類祖語に起源する古代日本語にも、似たような言葉があったのだと考えられる。

 

 以前ブログ記事「「人類祖語」の再構成の試みについて(58)」(以「下ブログ(58)」という)では、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)所収の「〈表9〉シュメール語と中国語・朝鮮語・古代日本語との語形比較」(以下「表9」という)の下記の部分のを引用して以下のように述べた。
 

シュメール語     中国語     朝鮮語    古代日本語

 

ga-lu 「人・主人」la-ŋ「郎・男」  ə-rɯ-n「大人」 a-ro-ji「主」

 

mu-lu「人・主人」   la「虜」                         ma-ro「麻呂」

                          lu「侶・連れ」          sa-ra-m       su-me-ra 「皇」

 

 シュメール語のga-lu「人・主人」が本来は「私の(仕えた)」人」という意味であったとすると、シュメール語のmu-lu「人・主人」が古代日本語の ma-ro「麻呂」と対応し、ma-が「真の」を意味する接頭辞であったとすると、mu-luの本来の語形はma-luでありその意味は「真の(仕えた)人」であったと考えられる。

 

 そうすると、ma-ro「麻呂」の本来の意味も「真の人」となり、天武天皇が制定した「八色の姓」の第一位の「真人」と対応することになる。  

 

 近藤論文は、「ma-roのma-は「真」,su-me-raのsu-me-はsu-bu「統ぶ」が原義であ」るというが、su-bu「統ぶ」の-buが動詞化接辞であるとすれば、その語幹のsuは、漢字で書くと「集(しゅう=す)」になり、「統治」「統括」「統合」という意味となる。

 

 また、su-me-raの-raがシュメール語のlu「人」に対応し、本来の語形は-ruであって、su-me-raが後続の語彙に前置されることで-ruが-raに変わったとすると、su-me-raの意味は「統治する真の(本当の)人」ということになる。

 

 「ブログ58」ではこのように述べたが、近藤論文がいう具格接辞*ma-に起源するmaが何を意味したものであったのかは、単語それぞれで異なるので、良く分からない。

 

 こうした事情については、「ブログ(58)」でも以下のように述べた。

 

 かつてシュメール語の語彙にも豊富な接尾辞や接頭辞が存在したのではないかという推定は、近藤論文が例示しているシュメール語の語彙に、例えば、duに、「住む」「持つ」「裂く・解く」「突く」「する・作る」「頭」という多くの意味があることからも傍証される。

 

 これらは、本来はそれぞれ別の接頭辞や接尾辞などを付加されて表現されていたが、松本論文が指摘するように、中国語に端的に示されているように、言語接触により接辞を消失し、その語彙の意味は、文脈から把握されるようになった結果であったと考えられる。

 

 しかし、シュメール語のga-lu 「人・主人」やmu-lu「人・主人」の-luが、中国語のla「虜」、lu「侶・連れ」、朝鮮語のsa-ra-m「人」の-ra、古代日本語の助数詞「~人(ri)」のri、a-ro-ji「主」のroなどと対応することは事実であり、これらに共通の「人」を表す言葉、例えばシュメール語でそれを代表させればluが存在したことが推定できると考えられる。

 

 そうであれば、古代日本語の「麻呂」は、直接的には古代朝鮮語のmʌ-lʌ「山岳」に起源するmʌ-lʌ「宗」が人名に転化したmʌ-lʌが古代日本医伝播したものではあったが、古代日本にはその伝播以前に、人類祖語のmu-lu「主人」に起源する言葉が、mʌ-lʌとよく似た言葉が存在していて、そこにmʌ-lʌが上書きされていったのだと考えられる。 

 

(f)日本語の「馬」u-maは、古代朝鮮語のmal(またはmʌl<*mʌrʌ) のl(またはrʌ)が脱落したものではなく、上古中国語の「馬」maの頭音に母音が転化されて成立した言葉であった

 

1)日本が馬を受け入れたのは五世紀

 

 青柳泰介・諌早直人・菊地大樹・中野 咲・深潭敦仁・丸山真史編「馬の考古学(雄山閣)」(以下「馬の考古学」という)は、日本への馬の受け入れ経過について、以下のようにいう。

 

 日本列島で馬の必要性が強く認識されたのは、5世紀の朝鮮半島情勢との関わりのなかで理解するのが一般的である。


 高句麗の南下政策に端を発した朝鮮半島南部の政情不安のなかで、鉄の原材料などを確保する必要から、倭は百済の援軍要請に応じていた。しかし、高句麗の騎馬軍団との戦力差は明らかであり、戦いでは常に圧倒されていたのだろう。その同じ頃に、日本列島での馬の飼育が開始されていて、その背景には、騎馬の導入の必要性を感じた倭の要請とともに、援軍に対する見返りとして、百済・加耶からの支援があったと考えられる。

 

 百済・加耶からの馬と馬飼集団、これらの馬を受け入れた畿内地域で最初の拠点は、河内平野の河内湖東岸地域であった。泉北丘陵の石津川流域での須恵器生産、柏原市大県遺跡と交野市森遺跡の鍛冶生産などとともに、5世紀の河内を代表する生産集落である。河内平野に大王墓を移すとともに、その開発をめざしたヤマト王権が、河内平野の土地利用計團のもとで、各種産業の拠点集落を配置したと考えられる。

 

 奈良盆地の古墳時代の馬歯・馬骨の出土例は、5世紀中葉から後半に、盆地南部を中心に多くみられるようになる。その背景は、「ヤマト王権だけではなく、葛城氏のような有力豪族がウマを利用することで、その繁殖や飼育・調教などの体系的な管理が可能になっていた」と想定できる。さらに、6世紀から7世紀に馬歯・馬骨の出土が増加するのは、「内的需要の増加と役畜としての利用の多様化」がその背景にある。

 

 「馬の考古学」のこうした指摘から、日本の馬の受け入れは四世紀後半の百済との外交関係の構築を踏まえた四世紀末から五世紀にかけての対高句麗戦争への倭国の参戦と朝鮮反とへの派兵、そこでの高句麗の騎馬部隊に対する敗北を契機とするもので、五世紀に本格化するものであったと考えられる。

 

2)朝鮮半島東南部が馬を受け入れたのは紀元前一世紀の原三国時代

 

 馬の考古学は以下のようにいう。


 朝鮮半島北部における家畜馬の出現時期は、今のところ青銅器時代にまで遡らせる積極的な根拠に乏しく、隣の中国よりも著しく遅れたことは確かである。「漢書」朝鮮伝の「元封二年(紀元前109年月莫使渉何應諭右渠終不肯奉詔(中略)遣太子入謝獻馬五千匹及餽軍糧」という記述から、遅くとも衛氏朝鮮(紀元前195?~108年)が滅亡する紀元前2世紀末、すなわち初期鉄器時代の終わり頃には、朝鮮半島北部でも相当数のウマが飼育されていたらしい。
  

 (朝鮮半島では)いまだ初期鉄器時代にまで遡る馬具は出土していない。それが紀元前1世紀、原三国時代に入ると南東部各地の弁・辰韓の墳墓からは、轡をはじめとする馬具が出土するようになる。(それらは)基本的には朝鮮
半島北部の馬文化の延長線上で理解することが可能である。


 これに対し南西部の馬韓は、原三国時代にまで遡る確かな馬具がまだ知られていない。2・3世紀になると馬形帯鈎(ウマをあしらった帯留具)が盛行し、遅くともその頃には馬韓にも一定数の家畜馬がいたとみられる。「三国志」親書東夷伝をみると、弁辰条には「乗駕牛馬」とあり、馬韓条には「不知乗牛馬牛馬盡於送死」とある。馬韓の人々がウマに乗ることなく、ウマを家畜にできたかどうかはさておき、そのような一風変わった馬文化ゆえに考古資料としてはなかなか捉えにくいのかもしれない。

 

 馬の考古学が指摘するように、戦国燕や秦、前漢の時代の古代中国の文化の朝鮮半島南部への流入は、まずその東南部から始まったと考えられるが、それは、南漢江と洛東江を繋ぐ河川交通が朝鮮半島北部と南部を結ぶ主要な交易路であったということと、洛東江河口付近の弁韓、辰韓に鉄鉱山があったことによるものであったと考えられる。

 

3)日本語の「馬」u-maは古代朝鮮語のmalではなく、上古中国語の「馬」maから誕生した

 

 馬が古代中国から朝鮮半島に伝播したことは確実であり、朝鮮半島東南部が馬を受け入れたのが紀元前1世紀、同南西部が馬を受け入れたのが紀元後2・3世紀で、日本が馬を受け入れたのが朝鮮半島の南西部の北半分の百済を通じてであったと推定できるので、朝鮮半島の南西部では日本が馬を受け入れた時点では、「馬」という言葉は、古代朝鮮語に変わる前の「馬」、つまり上古中国語で発音されていたと考えられる。

 

 そうであれば、日本語の「馬」u-maは、古代朝鮮語のmal(またはmʌl<*mʌrʌ) のl(またはrʌ)が脱落したものではなく、上古中国語の「馬」maの頭音に母音が転化されて成立した言葉であったと考えられる。