今日は、パク・ウンビンの「無人島のディーバ」からパク・ウンビンの「Mint」を聞いている。
李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」(以下「李論文」という)は、飛鳥(明日香)の地名について、以下のようにいう。
(5)飛鳥=*nara-tori
「飛鳥」で表記された語形を考察する前に, asu-kaの表記に用いられた諸記録での借字(用字)と,その表記の方法をみることにしよう。
a)借音表記……………………・阿須箇・阿須可・阿須迦・安宿
b)倍訓と借音の混合表記………明日香
c)借義(義訓読)の表記…………飛鳥
上記のa)については説明の余地はない。
b)のasu-kaは、’明日’を意味するasuと「香」の音kaによる表記である。ところで,c)の「飛鳥」は,上の両者とは表記法が全く違う。「飛鳥」をなぜasukaと訓むのかについては,日本の学者の間でも多くの論議があった。「飛ぶ鳥のasuka」の飛ぶ島がasu-kaにかかる枕詞であるという説もある。しかし,なぜ「飛ぶ鳥」を枕詞とするようになったのかはわからない。「飛鳥」とasu-kaは,その表記において直接的な関係はないとみるべきである。すなわち,「飛」の日本訓はtobuで,音はhiであり,「鳥」の訓はtoriで,音はtsho:であるので, asu-kaの語形とは何らの関係もない。ゆえに,「飛鳥」は他の語形の表記とみざるを得ない。
筆者は,「飛鳥」は元来*nara-tori(<*nara-toro)‘主城'の表記であったと考える。なぜならば,「飛鳥」の「鳥」は借訓によるtori‘城'の表記であり,「飛」は韓国訓のnal-(<*nara)‘主’の表記であったと考えられるからである。 tori‘鳥'は韓国語と日本語が共通である。すなわち,韓国語のtalk‘鷄'のkは,後代に発達したもので,その語根はtalである。慶尚南遒東部方言のtal‘鷄'はtalkに先立った語形である。このtalは現在では一音節の語形であるが,古代は二音節であったことと思われる(*tara>tal)。日本語ではtal‘鷄'をniwa toriというが,これはniwa‘庭'にあるtori‘鳥'の意味である。これにより,韓国語のtalは日本語のtoriと比較される。
次に,「飛」の表記が問題になる。これは,おそらく韓国語のnal-‘飛'の古代語形*nara-の借訓による表記と思われる。すなわち,このnara(飛)が‘主'を意味するnaraに借用されたと思われる。「飛」で表記したnaraは韓国語の‘主・王’を意味するnaraを表記したものと考えられる。
ただ,現在の日本語には*nara‘飛'という語辞がない。これは死語化したのである。tori‘鳥'の語が韓日間に共通であることと同様にnara‘飛’も,古代の或る時期においては共通していたはずである。ゆえに,「飛鳥」は*nara-toriに借用されたものと考えられる。それで,「飛鳥」は或る時期まで*nara-toriと訓まれていたがnara‘飛'が死語化されて,これをnara-toriと訓む訳がわからなくなり,「飛鳥」を,そこの別め名前であるasukaと訓むようになったと思われる。
(6)批判と補足
「李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」を読んで(2)」で紹介した畑井弘の「天皇と鍛冶王の伝承(現代思潮社)」の指摘と李論文の主張は、飛鳥の「鳥」が、古代朝鮮語の-toriであるという点では同じである。
しかし、李論文がこの-toriを「城」と解釈するのは、飛鳥を王宮があった地、王が住んでいた地というふうに考えるからであり、事実としては亡命百済人たちが開発して集住していた地に付けられた地名が飛鳥であったので、この-toriは地域という意味が正しいと考えられる。
李論文は、「飛」の日本訓はtobuであるといいながらも、「飛」は韓国語のnal-‘飛'の古代語形*nara-の借訓による表記で、飛鳥は*nara-toriと読まれ、「飛」で表記したnaraは韓国語の‘主・王’を意味するnaraを表記したもので、飛鳥は王が住む城、王城の意味であったという。
しかし、飛鳥は*nara-toriと読まれ、「飛」で表記したnaraは韓国語の‘主・王’を意味するnaraを表記したものであったという李論文の主張は「そう思われる」というだけで、論証はされてはいない。また、tori‘鳥'の語が韓日間に共通であることは、nara‘飛’も,古代の或る時期においては共通していたことの根拠にはならない。
このように、飛鳥を*nara-toriと読む、李論文のこの主張は強引であり、河内飛鳥と奈良盆地の飛鳥の関係からも、飛鳥は王が住む城、王城の意味であったという主張には従えない。
他の記述でもそうであるが、李論文は、何でも*nara‘大'‘長'などに結び付けて解釈する傾向が強い。
おそらく、この傾向は、李論文が、古代の日本には渡来した朝鮮人たちが国を作って住んでいたという、いわゆる「分国論」や、日本の天皇は、新羅、または百済から渡来系であるという「王朝交替論」を前提にしていることから生じているものであると考えられるが、この主張は、一面では「古事記」や「日本書紀」の記述をそのまま受容したもので、非科学的な主張であると考えられる。
飛鳥は*nara-toriと読むのではなく、*tobu-toriと読み、この*tobuは五、*toriは周=済であり、百済の建国時の国号の十済の半分を意味して、「小(ア)」「辰(ス)」「国(カ)」を、五周(五つの国・地)という言葉で修飾したものであったと考えられる。
(7)nara-tori(飛鳥)の意味
次にnara-toriが何を意味するかを考察しよう。これはnara-hara(平城・栖原)と同じ‘主城'‘王城'の表記と思われる。nara(飛)は'主'を意味し, tori(鳥)は'城'や‘市邑'を意味するtoro/*turaの異形態とみられるからである。nara‘飛'とnara‘主'は同音異義語であり, tori‘鳥'とtori‘城’(とりで/砦')も同音異義語で,「飛鳥」の字を借りで主城'を表記したものと考えられる。
(a)飛鶴=nara-turu
古代韓国の地名で,「飛」が‘主'の意味に借用されたものとしては,「新増東国輿地勝覧」(巻21,慶州・山川)に飛鶴山,「同」(卷8,竹山・仏宇)に飛足寺がみられる。すなわち,飛鶴山の「鶴」は,韓国訓はturu-mi(-miは接尾辞で後代に発達したもの)であり,日本語の訓はturuであるので,「飛鶴」は'主山'を意味するnara-turuの表記と思われる。
飛足寺(飛足山寺の略)の「足」の韓国訓がtari,日本訓がtaruであることから,「飛足」も‘主山'を意味するnara-turuの表記とみられる。または「飛」と「足」の別(訓, pal<*para)の借訓による‘nara-bara‘主峰'‘主嶺'の表記ともみられる。古代,韓国と日本で同じぐ山嶽'をtara/*turuといい,‘山峰’をpara/puru/puriといったのである。
(b)古代韓国語
古代韓国語で,‘城'‘市邑'を*toro/*turuといったことは,次の例にみられる。
イ)鉄城郡本高句麗鉄円郡景徳王改名今東州(「史記」地理2,鉄原)
口)珍原県本百済丘斯畛芳県(「同」地理3,岬城)
岬城郡本百済古尸伊県景徳王改名今長城(「同」地理3,岬城)
上記のイ)において,鉄円=鉄城の関係がみられるが,[城]に対応する「円」の訓はturuである。すなわち,‘城'をturuといったことがわかる。したがって,鉄城は'首城'を意味するsoi-turuの表記であると思われる。「鉄」は訓がsoi(<*sori)で,これは'首'を意味するsoriから変化したのである(*sori>soi)。
口)の丘斯珍は百済の岬城郡に辰していた地名であり,「岬城」は高麗時代に「長城」と改称された。丘斯珍芳県は行政区域上岬城郡の辰県で,丘斯珍芳は「岬城」「長城」と同一の地名に由来したものである。それで,丘斯珍=岬城=長城の関係を知ることができるが,この三つの地名から「丘斯」と「岬」(訓, kotsi/kots)は三国時代の‘首長'を意味する「渠帥」「長帥」(「魏志東夷伝」)と同源語の表記と思われ,「長」はその意味を表わす漢訳表記と思われる。
そして,「城」に対応する「珍」はtoroあるいはturaの表記である。したがって,口)の「丘斯珍」は'長城'を意味するkusa-turuの表記と考えられる。
「三国史記」地理志にみられる蔚珍・実珍城・珍洞,「三国遺事」にみられる碧珍・珍城の「珍」は, *turu/*tura ‘城’の表記とみられる。この*tura(珍)の語形は日本語のmeturasi‘珍'のturaとも比較される。また,辰韓六村名にみられる「梁」(訓, tolく*toro)もこれと同様な語辞の表記とみられる。
(c)対馬の地名
この語辞は対馬の地名にもみられる。すなわち,仁田村のuna-tsura(女達)のtsurafくtura)はこれと比較される。上島の佐須奈のka-tsuraは'大村'に由来した地名であり, oo-tsuna(大綱)・ko-tsuna(小綱)のtsunaはtaraからura>tsura>tsuna(綱)に変化したものである。
(d)北方の隣接語
この語は北方の隣近語にもみられる。すなわち、'大邑'あるいは'市邑'を意味するBryat蒙古語のtura, Turk,語のtura, Samoyedの中でTaigi語のturaはこれと比較される。
(e)*toro/*turu/*turaなどの異形態
上記から‘城'あるいは'市邑'を意味する語に*toro/*turu/*turaなどの異形態があることがわかったであろう。このように,一つの形態素に母音の交替による諸異形態があることはasu-ka(明日香)のasuで説明した。nara-tori(飛鳥)のtoriはこのtoro/turaと同じ語とみられる。
(6)批判と補足
李論文は、飛鶴山の「鶴」は,韓国訓はturu-mi(-miは接尾辞で後代に発達したもの)であり,日本語の訓はturuであるので,「飛鶴」は'主山'を意味するnara-turuの表記と思われる、とか、飛足寺(飛足山寺の略)の「足」の韓国訓がtari,日本訓がtaruであることから,「飛足」も‘主山'を意味するnara-turuの表記とみられるというが、ここで李論文が主張しているのは、古代,韓国と日本で同じぐ山嶽'をtara/*turuといい,‘山峰’をpara/puru/puriといったということだけであり、「飛鶴」や「飛足」が、「'主山'を意味するnara-turuの表記」であったことの論証は一切行ってはいない。
古代韓国語で,‘城'‘市邑'を*toro/*turuといったこと、‘城'あるいは'市邑'を意味する語に*toro/*turu/*turaなどの異形態があったことは、李論文が指摘するとおりであったと考えられ、その異形態の一つが、*tobu-toriの*toriであり、奈良盆地の地名の「八釣」の*turiであって、おそらく蘇我氏の指導の下に奈良盆地を開拓した百済系渡来人によって、彼らが開拓・定住した地に付けられた地名であったと考えられる。
なお、李論文は、古代韓国語で‘城'‘市邑'をいう*toro/*turuに類似した地名が対馬に存在するという。
廣瀬雄一の「対馬海峡をめぐる先史考古学(同成社)」によれば、対馬の西の海域に豊富な漁場が存在したことや、対馬の南側に有明山や矢立山があって朝鮮半島南部からの山を目印にした航海が容易であったことなどによって、縄文時代を通じて朝鮮半島南部と交易などで交流を継続していたのは対馬だけであったという。
ここから、対馬の地理的な位置による、対馬と朝鮮半島南部との交流の存在と、そうした交流を背景にした朝鮮半島からの人の移住によって、李論文が指摘するような、古代韓国語で‘城'‘市邑'をいう*toro/*turuに類似した地名が対馬に存在するということになったのだと考えられる。
そうであれば、古代韓国語で‘城'‘市邑'をいう*toro/*turuに類似した地名が対馬に存在するということは、李論文が主張するような、古代朝鮮人が対馬に彼らの「分国」を形成していたという主張の根拠にはならないと考えられる。
また、李論文は、古代韓国語で‘城'‘市邑'をいう*toro/*turuと類似する語が、'大邑'あるいは'市邑'を意味するBryat蒙古語のtura, Turk,語のtura, Samoyedの中でTaigi語のturaなどのように北方の隣近語にもみられるという。
そうであれば、この*toro/*turuは北方の言語に起源するものであり、李論文がいう*naraが*karaに起源するもので、朝鮮半島中南部以降に広範に分布する*karaが、類似の語形の基本形であったとすれば、*toro/*turuは*naraよりも新しい言葉であったて、*naraが分布した地域に後から、おそらく北方から南下して分布していった言葉であったと考えられる。
(8) *nara-tori(飛鳥)の造語形式と表記字の転訓読
(a)nara‘主'が修飾した語の地名
次に*nara-tori(飛鳥)の造語形式にみられるようなnara‘主'が修飾(冠)する他の地名を考察することにする。すなわちnara-tori(飛鳥)のnara(飛)は,後で考察するnara-bara(国原)‘主城nara-na(国壌)‘主邑nara-ki‘主城'にみられるnaiaと同じ語で,‘主’の意味である。そして, tori(鳥)(<toro)‘市邑'は語の構造上, bara(原)‘城', na‘壌-ki(‘城',接尾辞)に対当する。
ここにnara‘主'が修飾した語の地名を挙げてみよう。
nara‘主'十para‘城'…*nara-bara(国原)(韓国,平安南道平壌)
nara‘主'‘na' 壌'・・・・・・*nara-na(国内城)(同,鴨洙水以北城)
nara‘主’十ki(‘城',接尾辞)…na-ki(奈己)(<*nara-ki) (同,慶尚北道栄州)
nara‘主'十toro‘城'……*nara-tori(飛鳥)(日本,奈良県)
nara‘主'+φ(省略)……・nara(奈良)(同,奈良県奈良市)
nara‘主'十para‘城'……nara-hara(柵原)(同,御所市)
(b)tori(鳥)‘城',またはその異形態を修飾した語の地名
次にnara-tori(飛鳥)の被修飾成分であるtori(鳥)‘城・市邑'の語を中心に,造語形式の地名をみることにする。すなわち,どんな修飾成分の語がtori(鳥)‘城',またはその異形態を修飾しているのか,その例を挙げてみよう。
soi‘首'十turu'城'.・・…・*soi-duru(鉄円)(韓国,江原道鉄原)
kusa‘首・長'十turu‘市邑'…kusa-duru(丘斯珍)(同,全羅南道長城)
ka‘大'十tura‘市邑'……ka-tsura(日本,対馬)
oo‘大'十tura‘市邑'……oo-tsuna(大綱)(同,上)
nara‘主'十toro‘市邑'…nara-tori(飛鳥)(同,奈良県明日香)
ka‘大'十toro‘市邑'……ka-tori(香取)(同近江国高嶋郡、下総国)
以上からみて,「飛鳥」は'主城'‘主邑'を意味する‘nara-toriの表記であることがわかったと思う。
(c)nara-toriをasu-kaと訓む理由
次にはnara-toriの表記である「飛鳥」をなぜasu-kaと訓むようになったのかという疑問が残る。これは次のように説明される。
すなわち,1)nara‘飛'の語が死語化して,一般の人が「飛鳥」をnara-toriと読む理由を知らなかったためであり, 2) nara-tori(飛烏)とasuka(明日香)が同じ場所であったためであり, 3) nara-tori(飛鳥)の意味の‘主城’とasu-kaの意味の‘王邑'がほぼ同じであったためである。
(d)義訓読,あるいは転訓の例
このように,元来の表記とは関係なく,ほかの訓で読むような義訓読,あるいは転訓の例は次にもみられる。
近江国の「滋賀の都」の別称である「楽浪都」をsasa-nami(楽浪)no mijako(鄒)と訓むが。「楽浪」は韓国から渡海した人々によるnara‘王’または'国'の表記であったと考えられる。この地名は韓国の古代地名で,漢四郡の中の「楽浪」と,慶州の古代地名である「楽浪」と同じ地名である。これらの地名も同じく, *nara‘王・国'の表記と考えられる。これらの地名の表記で,「楽」の韻尾-kと「浪」の韻尾-kは,この語形の表記に参与していなかったはずである。韓国の古代語は日本語と同じく,開音節語であったからである。
日本においても,これがnara‘国'の表記に借用され,後代になってこの「楽浪」をnaraと訓む理由がわからなくなり,「浚」(訓, nami)の訓に合わせて,「楽浪」をsasa-nami‘小波'と訓み、これを枕言葉としたのである。
また,このような転訓読は「倭」と「大和」においてもみられる。「倭」と「大和」の「和」は日本音で同じくwaと読むのであるが,倭の国名が優雅でないとして、「倭」を佳好字である「和」に替え,「大」の字を加えて「大和」とし,あるいは「大倭」を「大和」に替え,これをjamatoと訓んだ。また,「倭」までもjamatoと訓ませて優雅でない感じを拭い去ろうとしている。いいかえれば,大和は邪馬台・山戸・山門などと同源の古代国名(地名)であるが,その借訓や借音とは全く関係のない「大和」や「倭」を」amatoと読んだのである。「倭」を「大和」と同じく,jamatoと読んだのは佳好字による転訓読である。
nara-toriを表記した「飛鳥」をasu-kaと訓むことも,このような観点で理解すべきである。
(9)批判と補足
李論文は飛鶴=nara-turuと主張するが、李論文が上げた事例で「飛」をnaraと読んだことは確認できず、飛鶴=nara-turuは李論文による根拠のない解釈でしかなく、李論文のこの主張に客観性はない。
nara‘主'が修飾した語の地名やnara‘主'がtori(鳥)‘城',またはその異形態を修飾した語の地名を列挙する李論文の以降の記述も、「飛」をnaraと読んだことが論証されなければ、飛鳥の地名とは無関係の議論となる。
李論文は、nara-toriを表記した「飛鳥」をasu-kaと訓むのは、元来の表記とは関係なく,ほかの訓で読むような義訓読,あるいは転訓であったというが、それは、*tobu-tori「五周」のasu-ka「小(ア)」「辰(ス)」「国(カ)」が、「五周」がおそらく好字使用によって「飛鳥」と表示され、また同様に「小辰国」が「明日香」と表示され、やがて、「飛鳥」がasu-kaと読まれるようになったという経過についていえることである。
李論文が、何の根拠もなく、義訓読や転訓で、異なった読み方の存在を正当化するのは、とても恣意的な議論で従えない。
ただし、李論文に列挙されている個々の地名や王名などが、古代朝鮮語でどのような意味を持っていたかということについての李論文の説明は、例えば韓国ドラマ「クワン・チョゴワン」のモデルとなった百済王の近肖古王の「近」が「大」の意味であるとか、彼と戦った高句麗王の故国原王の「故」も「大」の意味であったなど、説明を聞いて初めてわかることも多く、有益である。
なお、飛ぶ鳥と書いてアスカと読ませることについては、糸井通浩の「古代地名の研究事始め(清文堂)」(以下「糸井論文」という)でも言及されているが、「あすか」の読みは、「「飛鳥」の漢字表記との直接的な関係は考えにくい」というだけで、「枕詞とそれを受ける語(地名)という近接性から地名「あすか」を「飛鳥」と表記するようになったものと考えられる
ということで終わっている。
枕詞との「近接性」をいうのであれば、何で「飛ぶ鳥」が「あすか」の枕詞になったのかを説明すべきであって、糸井論文の主張は中途半端であり、その中途半端さは、「春日」や「日下」、「長谷」についての議論でも変わらない。
なお、糸井論文は枕詞で使用されている「が」と「の」の区別について論じているが、「飛ぶ鳥」の「あすか」の「の」は、おそらく「である」という意味で使用された「の」であったと考えられる。
それにしても、枕詞や飛鳥の地名を議論する論文で畑井弘の「天皇と鍛冶王の伝承(現代思潮社)に言及していないことや、日下についての議論で大和岩雄の「神社と古代王権祭祀(白水社)」に言及していないことは驚くべきことで、ちょっと勉強不足だと考える。
この間の日本の経済水準の低下は、学問レベルの低下に帰結してきたようで、とても残念である。