筒井功の「縄文語への道(河出書房新社)」への違和感(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、岡村孝子の「TOY BOX ~ソロデビュー20周年記念 TV主題歌&CMソング集~ [Disc 1]」から「Good-Day ~思い出に変わるならば~」を聞いている。

 

(1)地名に残る「縄文語」の来歴と意味の説明の不在

 

 筒井功の「縄文語への道(河出書房新社)」(以下「筒井論文」という)は、日本の地名の中に「縄文時代に名づけられたことを実証できる」ものがあるとして、以下のようにいう。

 

 「本書で間違いなく縄文語だとして取上げる単語はアオ(青)、アワ(淡)、クシ(串、櫛)、ミ(数詞の三)、ミミ(耳)の五語」であるが、「キ(現今の地名ではだいたい木、城の文字を当てている。何かの構造物で囲まれた境域を指す)、シマ(島)」「もまた、縄文以前に成立した言語」であり、「数詞ではミ(三)にかぎらず、少なくともトオ(一〇)までが縄文期までにできてい」て、「結局、本書では合わせて数十の縄文単語を再現している」という。

 

 こうした筒井論文の例示している「縄文語」は、縄文時代の遺跡があるところの地名などから推定されたのものであり、その中には確かに「縄文時代に名づけられた」と考えられるものも含まれてはいるが、筒井論文も「縄文時代は、おおよそのところで一万五〇〇〇年ほど前から二八〇〇年ほど前までのあいだを指すと考え」れば、「それは一万二〇〇〇余年の長きにわたっていた」というように、それだけであれば、その「縄文語」は、長い長い縄文時代のいつごろかに、日本列島で話されていた言葉であったということの指摘だけで終わることになる。

 

 しかし、複数の民族の日本列島への流入は古墳時代の「渡来人」だけでなく、日本列島から出土した古人骨のY染色体のDNAハプログループの分析によれば、縄文時代や弥生時代にも日本列島には様々な人たちが流入して来たことが分かっている。

 

 そうすると、筒井論文が列挙している「縄文語」が、現生人類が後期旧石器時代に日本列島に移動して来たときに話していたものが、引き続生き縄文時代まで残存したものなのか?あるいは、後期旧石器時代から縄文時代にかけて、日本列島に移動してきた人々によって、日本列島に持ち込まれたものなのか?または、それらが縄文時代に混ざり合ったものなのか?ということの検討がないと、それらの「縄文語」の来歴とその本来の意味を明らかにできないので、その言葉が本当に「縄文語」であるという根拠も薄弱なものとなり、説得力に欠けることになりかねないのである。

 

 筒井論文は、「日本語は成立当初から一つの言語が一本調子で発展してきて「大和言葉」になったのではなく、複数の異質の言語がまじり合ってでき上がったのである」というが、「複数の異質の言語がまじり合っ」たのが「縄文時代」であった可能性については、述べてはいない。

 

 しかし、「縄文文化」が西日本と東日本で異なっていて均質ではないように、「縄文語」も西日本と東日本で異なっていたことが想定できるので、それらの「複数の異質の言語」の「まじり合い」は、縄文時代の日本列島でも起こっていたと考えられるのである。

 

 そして、その「まじり合い」が、その時点での在地の縄文人の言語と渡来した新しい縄文人の言語の間で起きたとするならば、新しい縄文人の故郷の言語を特定できれば、その言語が、どこから、いつごろ日本列島に渡来したのか?ということと、その言葉の元の意味は何であったのか?ということを知ることができるはずである。

 

 しかし、筒井論文が「縄文時代に列島へ渡来した民族の言葉だった」というのは地名の残る「クシ」だけであり、その「クシ」を伝播させた「民族」の推定の議論も、論諸が不足している「思い付き」の域を出ていない気がするのである。

 

 また、筒井論文は、列挙した「クシ」以外の「縄文語」のうちの、葬地に係るという地名の「アオ(青)」が、なんで「葬地」に係るのか?というような、その「縄文語」の来歴とその元の意味を明らかにしていないので、筒井論文の列挙する「縄文語」には、根拠が薄弱なものや疑問なものが多く含まれてしまっていると考えられるのである。

 

(2)「アオ(青)、アワ(淡)」の検討

 

 まず、「アオ(青)、アワ(淡)」を取り上げて検討する。

 

(a)「アオは元来は葬送の地を意味していた」という指摘

 

 筒井論文は、アオ(青)について、以下のようにいう。

 

 「アオ(青)という言葉は、「古事記」や「日本書紀」「万葉集」が成立した八世紀には、すでに色を表す語になっていた」が、「必ずしもブルーの意味には限局されておらず、ときに緑、黄、灰色さらには黒や白を指すこともあ」り、「きわめてあいまいな概念の語彙であった」

 

 「それは今日の青の使い方にもはっきりと残っていて、われわれは青信号(実際は緑色である)、アオシシ(カモシカのこと。体色が灰色っぽい)、顔が青ざめるなどと言っている」のである。
 

 「アオは縄文時代から弥生時代そしておそらく古墳時代ごろまでは葬送の地を指す冐葉だった」
 

 「研究者で、この語をその視点から取上げた人も沖縄民俗学・地理学の仲松弥秀氏と民俗学・地名学の谷川健一氏、それに僭越ながら筆者を除けば、ほかにはいないようであり、まだ仮説としてもほとんど認知されていない」
 

 「アオが元来は葬送の地を意味していたことには揺るぎない証拠がある」

 

 「例えば、山梨県北杜市高根町青木の青木遺跡、宮城県登米市南方町青島屋敷(屋敷は、この地方では村の意)の青島貝塚などと縄文時代の葬地、島根県出雲市東林木町青木の青木遺跡、岩手県花巻市大迫町のアバクチ洞穴遺跡(このアバはアワの訛りの可能性が高い)などと弥生時代の墳墓および洞窟墓、岐阜県大垣市青墓町、宮崎県宮崎市青島、茨城県常陸大宮市花房町青木などと古墳時代の古墳(墳丘式の墓)および横穴墓」などの、「これらの青(一部はアバ)が付いた地名と、縄文-古墳時代の葬送の場が重なり合っていることは決して偶然ではない」のである。

 

 なお、「「葬送の地」の言葉には、殯の場と墓地との両方の意が含まれている」

 

 「アワ(淡)は、実はアオ(青)と同語源というより同一の語であ」り、「今日の使われ方にも共通点があり、もともとはやはり葬送の地を指していた」が、「地名ではしばしば、両者は混用されたり、いつの間にか片方が他方へ変化したりしている」のである。

 

 ここで筒井論文がいっている「アオが元来は葬送の地を意味していたことには揺るぎない証拠」とは、アオ(青)が付く地名が縄文時代から古墳時代の「葬地」であったということであり、確かに「アオ(青)」が「葬地」に係るということは良く分かるが、それだけなのである。

 

 そのことと、筒井論文が、「アオ(青)という言葉は、「古事記」や「日本書紀」「万葉集」が成立した八世紀には、すでに色を表す語になっていた」が、「必ずしもブルーの意味には限局されておらず、ときに緑、黄、灰色さらには黒や白を指すこともあ」り、「きわめてあいまいな概念の語彙であった」ということや、「アワ(淡)は、実はアオ(青)と同語源というより同一の語であ」ったということの関係は、おそらく、なにも説明されてはいないのである。

 

 そうすると、筒井論文には、事例集、資料集としての意味はあるが、「アオが元来は葬送の地を意味していたこと」の意味と、何でそうなったのか?というふうに検討を進めて行く上では、あまり役に立たないのである。

 

(b)「アオ(青)」はマライ・ポリネシア祖語で「中空」を意味するawaŋ (PMP)に起源する「アワ(淡)」の交替形

 

 また、筒井論文は、「アオ(青)」が「葬地」に係るということを指摘したのは、筒井論文の他には「沖縄民俗学・地理学の仲松弥秀氏と民俗学・地名学の谷川健一氏」を挙げるだけであるが、「アオ(青)」と「アワ(淡)」と葬送の地との関係について、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、「アオ(青)」は「アワ(淡)」の-a/-oの交替形であり、「アワ(淡)」はマライ・ポリネシア祖語で「中空」を意味するawaŋ (PMP=マライ・ポリネシア祖語)に起源すると、以下のようにいう。

 

1)語源

 

 「awaŋ (PMP)は、各言語においてマレー語awaŋ「中空」:タガログ語awa「間」「空間」:マダガスカル語avana「虹」:フィジー語yawa「遠く」:サモア語ava「間」のように意味変化する」

 

 「青(アヲ)はオーストロネシア祖語形*awaŋ「中空」に由来する淡(アワ)の交替形である」

 

2)色彩への意味変化

 

 「アヲ「青」は本来、白と黒の中間を示し、時には白、黒も指す(「日国辞」)ようなとりとめのない色、アワ「淡」い色のことであ」り「アワとアヲは、-a/-oの交替形で」、「アワしほ「眷塩=食塩」「摂津国風土記」(逸文)、アワしは「阿和之保=白塩」「和名抄」、アワしは「日塩」・アハしお「鹵醐」「名義抄」は、すべて「淡い」を意味する」

 

  「春くれば滝の白糸いかなれやむすべども猶アワに見ゆらん」(春だというのに滝の水はどうしたのだろう、まだ淡くくすんだ色をしている)紀貫之「拾遺和歌集」

 

 「この歌は、滝の微妙な色の変化に注意が向けられているので、当然」「この歌のアワ」を「「淡」としている」「「日国辞」の読みを妥当とすべきである」

 

 「「待ちつけたてまつりたるかひなく、アワの御ことわりや」(お待ち申し上げた甲斐もなく、あっさりした言い訳ですこと)「源氏物語」(竹河)のアワは、「淡」と解釈して正しく読まれている(「日国辞」)」

 

 「「安波乎呂のをろ田におはる(生はる)タハミズラ」(薄く霞んだ峰の上田に生えているタワミズラ[未同定の蔓植物]「万葉集」」の「アハをろ「安波乎呂」の「乎呂=峰」を修飾する形容詞として読めば、アハ「=アワ「淡」にはアヲ「青」の意味も含蓄されていることになる」

 

 「近江の語源とされるアハうみ「淡海、相海」「万葉集」、アフみ「阿布彌、阿甫彌、阿符美」「日本書紀」(歌謡)の歴史的仮名遣いにはワ行音との混乱があり、「アワうみ」が本来の語源であると考えられる」

 

 「水深が平均四十メートルしかない琵琶湖の湖面は、中空の色を反射して鏡のように刻々と変化する」が、「このような七変化する湖の色を、古代人がアワと認識したのは自然と思われ」、「あるいは、広い湖面に天空(アワ)が、プラネタリウムのように投影されるのを見ていたのかもしれない」

 

 「「アワうみ」に対するアヲうなばら「阿釆宇奈波良」「万葉集」「阿釆宇奈波良=滄溟」「名義抄」という、色彩のニュアンスを変えた同義語もあり、アワの交替形がアヲであることを、語形的にも意味的にもいっそう鮮明に示す例である」

 

3)冥土への意味変化

 

 「オーストロネシア系民族に属するパラオ人の中空観念では、具体的に冥土が示される」

 

 「すなわち、「天は鍋を伏せたようになっている。その下に星がありその下に月がありその下に太陽があり雲がある。陸、島の周囲を海が取りまいている。陸地は海の底に深く根をおろしており、それが地下界に続いている。天と地界(島、陸、人間界)との中空に上界がある。この上界はそれぞれの下なる地界とそっくり同じものと考えられる。つまり、地界なるコロールの上には上界なるコロールがある。人が死ぬとその魂はそこへ行く」と説明され、現代パラオ語でこの上界(宇宙的空間)は、半円球として認識されたbeluu i bab(sic)地理的・空間的上界」と呼ばれる」

 

 「また、ポリネシアのトゥアモトゥでも、地界がそのまま中空のドームのなかに具体的な階層状をなす宇宙観が存在する」

 

 「しかし、沖縄のグソーではこのような階層観念はなく、「あの世」は現実の生活空間と密着し交錯しながら、四次元的に現実生活と日常的な関わりをもつように変身した」

 

4)葬地への意味変化 
 

 「淡路島の語源についてはこれまで明らかにされていないが、このアワも、中空を意味したと考えられ」、「とくに、伊耶那岐命と伊耶那美命が日本列島(大八島国)で最初に誕生させた島である点が注日される。黄泉の世界の創造は、順位としてまず最初に行われるべきだからである」


 「アヲ「あの世」説は、*awaŋに由来するアワによって、さらに補うことができる」

 

 「アヲがアワに関連する具体的事例として、宮崎の青島は海幸山幸の舞台として有名で、古くは淡島と呼ばれて」おり、「アワは上に述べた淡路島のほか、島名、神社名に残る、阿波神社(徳島)、淡嶋神社(和歌山)、弥生遺跡のある淡島(静岡・沼津沖)、縄文遺跡のある粟島(新潟沖)のような例があ」り、「また、阿房神社は栃木・小山、千葉・館山ほかにあり、阿房岳は長崎・蛎浦島で知られる」 

 

 「とくに注目されるのは、西日本各地で川の流域の村に「流し雛」の伝統が残り、その雛は海に出て和歌山に本家のある淡島神社に行くと信じられていることである」

 

 「このように、アワは淡のほか、粟、阿波、阿房などにも当て字され」、「安婆島(「常陸国風士記」)のアワ(ワを婆と書くのは八行転呼音の混乱例)は、現在の阿波(茨城・稲敷)に比定することができるが、東方で太平洋と向き合った常陸内海に位置する」

 

 「ここに見られるアワの島や神社は、海と向き合う点で共通し、中空の原概念から黄泉の世界、あるいはあの世との接点としての島・空間として認識されていたと考えられ」、「流し雛の行く末でもある」


 「館山の阿房は、房総半島南端に位置し、人骨を含む洞窟遺跡でも知られ、粟島(香川・三豊沖)には浦島説話が残る」が、「浦島伝説は、「日本書紀」(雄略紀)の丹波国餘壯郡の記述が最古とされるが、「語在別卷」と追記されていて、他所でも伝承があったことが知られる」


 「色彩としてのアヲは、中空の特徴を反映する色であり、黒、白をも含む中間の幅広い色を指していた」が、「青(アヲ)はオーストロネシア祖語形*awag「中空」に由来する淡(アワ)の交替形であるから、葬送との関連を探るなら、アヲがアワに由来するととらえることで問題は一挙に解決する」のである。

 

5)中空と神、中空と「後生」


 「興味深いのは、言霊説を唱える神道で「あわ(の)歌」と呼ばれる神詞は、現在、「あ」「わ」それぞれに対し音義説は行われるものの、「あわ」が「あは」と書かれないことが重要であり、また中空にいます神々によって作られたとみなされていることである」


 「中空を意味するアワの概念は、沖縄ではグソー「後生」「gusoo)という漢語からの借用語に置き換えられたが、実質は冥土(あの世)に対応している」

 

 「後生の観念は、島ごとにまたは家ごとに甚だしく区々になっていると言われるが、巷間で後生は、神と人間の世界との中間、すなわち中空にあるとされ、死後の世界は現実の世界(地界)の近くに存在すると思われている」

 

 「中空にあるということは、その場所が柳田の言うように、広漠としてとりとめがない(何処とは明確に特定できない)ことにもな」り、「例えば、「沖縄人にとってグソーンチュ(あの世の人)は生き身の体がないだけの身近な存在であり、グソーは「雨垂れの下」といわれるほどの近い場所にある」(比嘉淳子「グソーからの伝言」双葉社)とも説明される」 
 

 「この*awaŋ「中空」の概念は、上代日本語でソラ「空」に置き換えられた」

 

6)「アオ」は「中空」「awaŋ (PMP)」に起源し、「中空」の意味から色彩の「青」や「あの世」の意味が派生した

 

 崎山論文はこのように、縄文時代後期以降のオーストロネシア語族の日本列島への渡来によって、彼らの「awang (PMP)」という「中空」を意味する言葉が日本列島に渡来し、その「中空」の意味から派生した、色彩の「青」や「あの世」「冥土」の意味も同時に渡来したという。

 

 そして、「awaŋ (中空)」に起源する日本語の「アワ(淡)」や「アヲ(青)」が「あの世」「冥土」を意味した言葉であったので、縄文時代から古墳時代にかけての「葬地」の地名に「淡」や「青」が付けられて、現在まで残存しているというのである。

 

 これは、筒井論文が指摘している、「アオが元来は葬送の地を意味していた」ということが、いつごろ、何で生起したのか、ということを解明したものであると考えられる。

 

(c)崎山論文の先行研究に触れない筒井論文

 

1)崎山論文による筒井論文批判

 

 崎山論文は、筒井論文について、以下のようにいう。

 

 「「青の島」をニライカナイ(沖縄の常世国)と同じとみた仲松弥秀、谷川健一の考察を承けて、日本各地の「青」の付く地名およびその歴史を調べ、青が葬送・墓地に関係した島・場所であると結論づけた筒井の労作があ」り、「その分析は、沖縄に7ヵ所ある奥武(オー=青)から日本列島の各地を縦断して東北地方の地名にまで至っている」

 

 「ただし、青(アウォ)の古い表記は淡、粟、阿波(その発音はアフア)であるが、八行音をワ行音で発音する「八行転呼」なのでアヲと書く、という対応は粗く遺憾である」

 

 「また、なぜ青が葬制に結び付くのかを、仲松を引用しつつ「青の世界は暗黒でもなければ明るい世界でもない。むしろ明るい世界に通ずる淡い世界、古事記の黄泉と類似の世界」であると言う」

 

 「しかし、青の意味をあまり詮索しても」、「いかようにも付会できる」ので、「説得力に欠ける」

 

 「アヲ「あの世」説は、*awaŋに由来するアワによって、さらに補うことができる」

 

 なお、「アオは筒井も指摘するように、アイヌ語で解くことはできない」

 

 「筒井の「青」論では、日本列島各地にこの中空を黄泉とする原初の観念が広がり、保持されていたことにな」り、「また、その時期は鳥取・米子の青木遺跡が縄文時代晩期、山梨・北杜の青木遺跡が縄文時代後期であり、オーストロネシア民族の渡来時期ともほぼ一致する」

 

 ここで、崎山論文は、オーストロネシア語族のなかのマライ・ポリネシア祖語の「中空」を意味する「awang (PMP=マライ・ポリネシア祖語)」に起源する日本語の「アワ」「淡」やそれが変化した「アヲ」「青」が、「中空」の色彩の意味とともに、その「中空」という意味から派生した「あの世」「冥界」という意味を持ったと指摘している。

 

 そして、「アワ」「淡」や「アヲ」「青」に「あの世」「冥界」という意味があったので、葬地に係わる遺跡や神社がある地名に「アワ」「淡」や「アヲ」「青」が含まれるのであると、指摘している。

 

 また、「アワ」「淡」や「アヲ」「青」の地名を持つ、葬地に係わる遺跡の年代と、オーストロネシア諸語の日本列島への渡来時期を、縄文時代後期から晩期にかけてと推定し、「アワ」「淡」や「アヲ」「青」が日本列島に渡来した時期を、筒井論文がいう「縄文時代」という長い期間のうちの後期から晩期にかけてであったと特定しているのである。

 

2)先行研究に言及せずにその批判に触れない筒井論文

 

 崎山論文は筒井論文を紹介しながら批判しているのに、筒井論文が崎山論文が言及しているのは、以下の個所のみである。

 

 「一方、崎山理「日本語「形成」論」(二〇一七年、三省堂)が用いている「形成論」の意味は全く違う」
 

 「崎山氏は、「一般的な系統論の概念では、ある言語の系統とはその言語に全面的な刻印を与えた一つの言語について言われる。つまり、一つの言語の系統が複数の言語に由来することはあり得ないとするのが系統としたうえで、一般的な系統論の考え方を否定し、日本語は、「複数の言語からそれぞれの文法部分が提供され、一つの言語として形成された混合語である」としている。具体的にはオーストロネシア語族とツングース諸語との混合語だとする立場である」
 

 「系統論にしろ、形成論にしろ、個々の論の当否については、わたしにはわからない。ただ、どんな考え方に立つにしても、日本語および比較対照する言語を可能なかぎり古い時代にさかのぼって再現する作業をともなっていなければならないはずである」


 「ところが、日本語にかぎっても、弥生時代以前の姿を直接、明らかにしようとする試みが、ほとんどというより全くなされていない」


 「崎山理氏は、「日本列島に人類が住み着いた一万数千年前の旧石器時代以降、彼らの共通言語として「日本語」が立ち上がっていたとしても、言語学は経験的実証科学であるから、その現象自体は言語研究の対象にはならない。縄文時代の初期、中期に至っても何の言語データも残っていない」と述べている」

 

 筒井論文による崎山露文へのこうした批判は、崎山論文が、縄文時代の後期から古墳時代にかけて、オーストロネシア諸語が日本列島に渡来して、日本語の形成に係わったと指摘していることに触れていない。

 

 つまり、崎山論文は、縄文時代の初期や中期は分からないが、後期や晩期は分かるといっているのであり、その「分かった」言葉には、筒井論文が指摘している「アワ」「淡」や「アヲ」「青」も含まれるのである。

 

 ここで筒井論文は崎山論文を批判しているので、崎山論文を読んでいるはずであるが、崎山論文への批判は、崎山論文が、「縄文時代の初期、中期に至っても何の言語データも残っていない」と述べている」ということであり、崎山論文が、縄文時代の後期から古墳時代にかけて、オーストロネシア諸語が日本列島に渡来して、日本語の形成に係わった、つまり、縄文時代の初期や中期は分からないが、後期や晩期は分かるといっていることに触れずに行われているのである。

 

 筒井論文は崎山論文を読んでいるはずなのに、なぜ、崎山論文の指摘に触れずに批判するのだろうか?また、なぜ、崎山論文による自説の紹介と批判に触れないのだろうか?

 

 もしかして、筒井論文は、崎山論文の詳細な論証部分を読んでいないで崎山論文を批判したのだろうか?それとも、崎山論文を読んでも理解できなかったのだろうか?

 

 こうした筒井論文の姿勢は、正直なんとも理解できず、非常な違和感を持つものである。