筒井功の「縄文語への道(河出書房新社)」への違和感(2) | 気まぐれな梟

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 今日は、岡村孝子の「TOY BOX ~ソロデビュー20周年記念 TV主題歌&CMソング集~ [Disc 1]」から「空の彼方まで」を聞いている。

 

 筒井功の「縄文語への道(河出書房新社)」(以下「筒井論文」という)が列挙している「縄文語」の検討の続きである。
 

(3)クシ 


(a)「クシ」には岬の意があった
 

 筒井論文は、「クシ」の名が付いた岬について、以下のようにいう。

 

 「どんな辞書、事典にも載っていない(と思う)」が、「クシには現今の二つの語義(竹串などの串と、髪をすく櫛)以外に「岬」の意味があ」り、「日本民俗学の創始者、柳田國男である、柳田は「海南小記」(初出は一九二五年)の「六 地の島」の中で、「クシは即ち亦岬の古語である」と明記している」


 「これは、わが国にクシの名が付いた岬が軽く一〇〇を超す事実によって立証できる」

 

(b)日本語のクシにも、朝鮮語のコッにも、「串、櫛、岬」の三つの意味があった


 「朝鮮語の古語では串のことを「コッ(粱)」といった」が、「その名残りは現代にも明瞭に認められ、あとにカム(柿)がつづくと、「串柿」の意にな」り、「串柿は串に刺して日にさらす干し柿のことである」


 「現今のコッの語は普通の辞書には、だいたい「地名に付いて岬の意を表す」と説明されてい」て、「日本語とは逆に今日では串の義は失われ、岬を指しているのである」


 「一方、櫛は「ピッ」だが、「朝鮮語大辞典」(一九八六年、角川書店)によると、先のコッとよく似た音の動詞「コッ」には、①差す、突き差す ②突く、小突く ③(髷を)結う の意があるという」


 「厳密にいえば、動詞の語頭の音は濃音と呼ばれ、名詞とは少し音が異なる」が、「それは長いあいだの音韻変化の結果であって、もとは同じ言葉だったと考え」られるので、「「差す」「突く」は串と、「(髷を)結う」は櫛とつながっているといえる」

 

 「そうして、名詞のコッには岬の意がある」


 「日本語のクシにも、朝鮮語のコッにも、「串、櫛、岬」の三つの意味があるか、あったのである」

 

 筒井論文は、「日本語のクシにも、朝鮮語のコッにも、「串、櫛、岬」の三つの意味があった」というが、筒井論文の論述では、その「「串、櫛、岬」の三つの意味」のうち、どれが根源的な意味で、どれが派生的な意味なのか、そして、それらの語の最も初原的な意味や語形は何だったのか?についての分析は、行われてはいない。

 

(c)「クシ」はオーストリオネシア諸語に起源する

 

 崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、「クシ(櫛)」について、以下のようにいう。

 

 「*sisi[r](PWMP=西部マライポリネシア祖語)「櫛」> sisir (Mai):sisir (Tob):sisir (Nga)」


 「古日(=古代日本語)(ka)sira >上日(=上代日本語)クシラ「久西良=櫛」「大隅国風土記」(逸文)、クシ「久志=櫛」「新撰字鏡」、クシ「櫛」「名義抄」」

 

 「語根*sirに受動の接頭辞*ka-をともなった形*ka-sir 「梳った」を異分析し、*kasiクシと変化したと解釈される」が、「「櫛」に対しては*seru(POC=オセアニア諸語の祖語形)も再構されており、この形に基づく*ka-seruの方がクシラにはむしろ近い」

 

 「隼人語の地名として、「大隅國風土記」逸文中の郷名とされているクシラ「串卜、久西良」とヒシ「必至」がある」が、「前者の原文注記には、久西良は隼人の俗語で、「髪梳=髪を梳る」を意味したとある」

 

 また、*ka-sirや*ka-seruの接頭辞の*ka-について、崎山論文は以下のようにいう。

 

 「*ka- (被災的、受動)>luba「ほどく」・ka-luba「とかれた」(Ngg)、ndiku「よける」・ka-ndiku「消えた」(Ngg)」
 

 「上代日本語では、力黒し、力緇し、力易し、などのほか、「擦る」に対する「力擦る(無意識で擦る)」、「依る」に対する「力寄る(何となく近づく)」

 

 「そのほか、「はす(斜め)」と「力はす(交わす)=交錯させる」、「ふせる(伏せる)」と「力ふせる(被)=伏せたものを被う」、「きる(切る)」と「力きる(限る)=範囲を切り定める」、「まける(負ける)」と「力まける(自分は負けるつもりはない)」などにもその機能が認められる」
 

 「*ka-が生物名に現れることがある」が、それは「生物が超自然の創造物だからであろう」

 

 「オーストロアジア諸語でも動植物に「前添辞j」ka-を付ける特色があるから、より上位の「オーストリック大語族」にまで遡る可能性がある」


 「上代日本語では、力みら「賀美良=力韭」「古事記」(中・歌謡)、力みな「加美奈=寄居=ヤドカリ」「本草和名」、力みな「寄居子」「名義抄」の接頭辞力として残るが、一方で、力をともなわないニラ(韮)「殿暦」(康和4[1102])、ニナ「爾奈==蜷」「新撰字鏡」もある」

 

 このように、崎山論文は、「櫛(クシ)」は、「櫛」を意味した「語根*sirに受動の接頭辞*ka-をともなった形*ka-sir「梳った」を異分析し、*kasiクシと変化した」ものであったというので、崎山論文が例示している「クシラ「久西良=櫛」「大隅国風土記」(逸文)」からも、当初は「クシラ」といったと考えられる。

 

 そうすると、まず、オーストロネシア語族には「櫛(シル)」という単語が存在し、その単語が、オーストロネシア語族の日本列島への渡来によって伝播し、やがてそれから、古代日本語の「クシラ「久西良=櫛」=「櫛(クシ)」が出来たのだと考えられる。

 

 この想定は、後述するように、筒井論文が日本で「クシ」地名が「目立っている」という「長崎県の五島列島や西彼杵半島、熊本県の天草諸島、瀬戸内海の西部など」は、縄文時代後期以降に、オーストロネシア語族が渡来した地域であったことからも、明らかであると考えられる。 

 

 また、そのことは、崎山論文が「隼人語の地名として、「大隅國風土記」逸文中の郷名とされているクシラ「久西良」とヒシ「必至」がある」が、「前者の原文注記には、久西良は隼人の俗語で、「髪梳=髪を梳る」を意味したとある」と指摘しているように、古代日本語の「クシラ「久西良=櫛」=「櫛(クシ)」が、古墳時代に日本列島の九州南半分に渡来したオーストロネシア語族であったと考えられる「隼人」の言葉であったという「大隅國風土記」の記述からも、間違えはないと考えられるのである。

 

(d)「クシラ(櫛)」→「クシ(串)」→「クシ(岬)」という変化

 

 岬を「鼻」というが、これは海に突き出た岬の形が人間の「鼻」に似ているからであったので、本来は岬を意味する固有名詞はなく、その形状を比喩した言葉が、やがて固有名詞になっていったのだと考えられる。

 

 そうすると、まず、髪を梳く「櫛」という固有名詞が形成され、櫛で髪を梳くときに櫛を髪に「突き刺す」ことから、ものに突き刺す「串」が連想されて誕生し、さらに、岬の海に突き出した形から、岬を「クシ(串)」というようになったのであったと考えられる。

 

 それは、例えば、高知県の足摺岬付近の海岸に「竜串」という地名があり、和歌山県の潮岬の付近に串本という地名があることなどからもわかるし、何より、筒井論文がそうした例をたくさん紹介しているので、岬の意味になったのは「櫛」ではなく「串」だったと考えられる。

 

 そうすると、「櫛(クシ)」と「串(クシ)」と「岬」の関係は、「櫛」→「串」→「岬」の順で、「クシラ」の「ラ」音が消滅して「クシ」となるとともに、その意味が拡張していったのだと考えらえる。

 

 なお、筒井論文は、岬とは関係がない内陸部の「クシ」地名について、「岬を指すクシによってついたというより」、「竹串のように尖った地形の意で付いた地名で」あり、「岬とはとくに関係していない」というが、古代では平野に突き出した丘を「岬」といっていた例がある。

 

 だから、「クシ(串」地名の本質は、「竹串のように突き出た地形」や「竹串のように尖った地形」を「クシ(串)」といったということなのであり、その地形が海にあっても平野にあっても、同じ「クシ(串)」地名が付けられたのであったと考えられる。

 

 筒井論文は、内陸部の「クシ」地名が「岬とはとくに関係していない」というが、これは、内陸部の「クシ」地名と岬との、「クシ(串)」地名としての共通性を理解しない考え方で従えない。

 

 また、平野に突き出した丘を「岬」といっていたのは、その海に突き出た「クシ(串)」が「岬」と表記されるようになった後で、海の岬からの連想で、「平野に突き出た」「クシ(串)」も「岬」と表記されるようになったものであったと考えられる。

 

 こうした論述から、筒井論文は、「クシ(串)」は岬の意味であるということからその議論を開始しているが、なぜ「クシ(串)」が岬の意味になったのかを、理解できていないのではないか?と考えられる。

 

(e)クシ地名やコツ地名の偏在

 

 筒井論文は、クシもコツも元来は、クシ地名やコツ地名が偏在する地域に居住する海洋民族が用いていた言語だったと以下のようにいう。

 

 「日本語は、すべての単語のみならず音節までもが母音で終わる典型的な開音節系の言語であり、最後が子音で終わったり、朝鮮語のコッやピッのように声をのみこんで発しない言葉の発音が苦手であ」り、「そのような言葉には無理にでも母音を付加しなければ日本語にはならない」


 「だから、もしコッを朝鮮語から受け入れたのだとすると、何らかの母音を付け足したはずであ」り、「そうだとすれば、クシとコッとは現在の形以上に近い音の言葉だということになる」ので、「それが「i」であれば、コッの語末に付いた子音の性格から、「コッイ」ではなく「コシ」と発音された」と考えられる。


 「串の字が付いた岬は朝鮮半島にもたくさんあるが、その地域的分布は日本の場合と同じように著しいかたよりを見せてい」て、「日本では長崎県の五島列島や西彼杵半島、熊本県の天草諸島、瀬戸内海の西部などに目立っており、朝鮮半島ではソウル西方の京畿湾(江華湾)沿いと、その周辺に極端に多」く、「日本列島では東北地方や北陸地方には皆無のように思われ、朝鮮半島では東海岸にほとんど見当たらない」


 「おそらくクシもコツも元来は、クシ地名やコツ地名が偏在する地域に居住する海洋民族が用いていた言語の単語だったのが、のちに列島と半島の全域で使われるようになったのだと思われる」


 「この語族は、漁業とくに海にもぐってアワビやサザエなどを捕ることを得意としていたらし」く、「その原郷は中国南部の海岸べりにあった可能性が高い」が、「その言語が日本語や朝鮮語に組み込まれ、それぞれの「祖語」の一部を形成したのではないか」

 

 筒井論文は、一方で、「もしコッを朝鮮語から受け入れたのだとすると、何らかの母音を付け足したはずであ」り、「そうだとすれば、クシとコッとは現在の形以上に近い音の言葉だということになる」ので、「それが「i」であれば、コッの語末に付いた子音の性格から、「コッイ」ではなく「コシ」と発音された」と考えられるといいながら、「この事実によって、わたしは日本語と朝鮮語が同系の言語だとする根拠の一例にしようとしているのではな」く、「むしろ、話は逆である」というが、それでは、「コッの語末に付いた子音の性格から、「コッイ」ではなく「コシ」と発音された」という指摘は、事実ではないということなのだろうか?

 

 ここでの筒井論文の論述は、紛らわしいし、わかりにくい。

 

(f)「家船(えぶね)」と中国南部の「蛋民」

 

 筒井論文は、「おそらくクシもコツも元来は、クシ地名やコツ地名が偏在する地域に居住する海洋民族が用いていた言語の単語だったのが、のちに列島と半島の全域で使われるようになったのだと思われる」といい、「日本列島と朝鮮半島へクシとコッの語を持ち込んだ漁民は、それぞれ別のルートをたどって二つの海域へ渡った」のであるが、その語族の「原郷は中国南部の海岸べりにあった可能性が高」く、「その言語が日本語や朝鮮語に組み込まれ、それぞれの「祖語」の一部を形成したのではないか」という。

 

 筒井論文は、この「別のルート」のうちの、朝鮮半島への伝播は、山東半島から渡海して来たのだと推定しているが、日本列島への伝播のルートは明らかにしてはいない。

 

 しかし、それでも、筒井論文が、日本列島と朝鮮半島へクシとコッの語を持ち込んだ漁民の「原郷は中国南部の海岸べりにあったというのは、九州の西岸にいる「家船(えぶね)」という「漂海民」と、中国南部の海岸べりにいる「蛋民」という「漂海民」の生活様式が同じようだからであることをその「根拠」としているのだが、こうした「漂海民」は朝鮮半島南西部では確認できないという。

 

 筒井論文は、「家族そろって小さな船を住みかとして浦から浦へ、港から港へ移動しながら生涯を海の上で過ごした人びと」「水上生活者」「漂海民」を「家船(えぶね)」の人たちといい、「クシ地名の分布域は家船の生活域と重なる」といい、「日本列島に「クシ」の語を持ち込んだ言語集団は、家船の先祖たちであった」という。

 

 しかし、後述のように、崎山論文によれば、「日本列島に「クシ」の語を持ち込んだ言語集団」はオーストロネシア語族であるので、そのオーストロネシア語族と「家船」の人たちとは、遠く離れた存在であって、その二つを結び付ける議論の生産性は低いと考えられる。

 

 九州西部の沿岸などに「クシ」地名が残存したのは、そこが古代の日本の中心地から遠いところであったからであり、同じ理由で古い水上生活者の生活様式が残存したのであるが、その水上生活者の生活様式は必ずしもオーストロネシア語族が持ち込んだものであったとは言えず、ある時点で海民の一部が水上生活者の生活様式を持った「家船」の人々になったのであったが、彼らとオーストロネシア語族とは直接つながってはいないと考えられる。

 

(g)オーストロネシア語族

 

 「日本列島に「クシ」の語を持ち込んだ言語集団」は、オーストロネシア語族であって、彼らが「クシ」地名を名付けたのであるが、彼らは「家船の先祖たち」とはいえないので、筒井論文のここでの主張には従えない。

 

 筒井論文が指摘しているように、九州の西岸にいる「家船(えぶね)」という「漂海民」と、中国南部の海岸べりにいる「蛋民」という「漂海民」の生活様式が同じようであるとしても、それは彼らの生活環境が同じだからであり、九州の西岸にいる「家船(えぶね)」と中国南部の「蛋民が、同じ集団が分岐した人たちであったとは考えられない。

 

 日本列島の「クシ(櫛)」について、崎山論文は、オーストトロネシア語族のなかの西部マライ・ポリネシア祖語に起源するもので、オーストロネシア語族が縄文時代後期以降に、フィリピンなどから北上して日本列島に渡来したことで、主に日本列島の西半分に拡散した言葉であったというが、その渡来時期は、日本の古墳時代であり、その渡来範囲は九州の南半分に限定されていたという。

 

 そうであれば、その「クシ(櫛)」に起源する岬の意味の「クシ(串)」が、朝鮮半島の南部の沿岸に残存していないのは、その言葉を伝播させたオーストロネシア語族が、古墳時代には日本列島の九州南半分までしか拡散せず、朝鮮半島南部には移動しなかったからであったと考えられる。

 

 なお、「クシ(串)」地名が日本列島の九州南半分を越えて西日本各地に拡散しているのは、南九州との貝などの交易が栄えたことによるものであり、もしかすると、オーストロネシア人の後裔の隼人や肥人たちが貝とともに西日本各地に行って、その地名を西日本各地に拡散させたのかもしれないと考えられる。

 

(h)オーストロアジア語族

 

 朝鮮半島に中国の山東半島などから稲作の農耕が伝播したとき、それを真っ先に受け入れていったのは、山東半島の対岸に位置する朝鮮半島の中西部の京畿湾沿岸であり、稲作の農耕文化は、そこから朝鮮半島の南部に拡散していったと考えられている。

 

 おそらく、筒井論文がいう朝鮮半島の「コッ(串)」は、山東半島から朝鮮半島南西部に稲作の農耕を伝播させた人たちによって持ち込まれた言葉であったと考えられる。

 

 つまり、フィリピンなどにいた人たちは、櫛を「クシ」といい、山東半島付近にいた人たちは、櫛を「コッ」といったのであったが、「櫛」→「串」→「岬」というような意味変化が、その時代は異なっていても、両者で同じように起こったのだ、と考えられるのである。

 

 稲の起源地は長江中流域で、長江の下流域で稲作の農耕に発展し、その後、黄海沿岸を北上する過程で水田による稲作という技術開発が行われ、その水田の耕作の稲作が、朝鮮半島の中西部に伝播したのであるが、水田は自然の河川に稲を直播する条件がなかったところで開発されたものなので、水田の稲作の技術を開発したのは長江の近隣の人たちであり、おそらく、そのうちのY染色遺体DNAハプログループのO2bの集団で、淮河流域にいたオーストロアジア語族の分派の人たちでが、水田による稲作の技術を持って黄海沿岸を北上し、さらに、沿岸航海民であった彼らが山東半島から黄海を渡海して朝鮮半島南西部に移住して、水田による稲作を朝鮮半島に伝播させたのだと考えられる。

 

 オーストロネシア語族は長江下流域にいたタイ・カダイ語族から分岐した人たちで、彼らのY染色遺体DNAハプログループはO1aであったが、彼らも当初は水田耕作の稲作を持って台湾に移住し、そこから南方に拡散する過程で、その技術を失っていったのだと考えられる。

 

 そうすると、日本列島に「クシ(櫛)」を伝播させたオーストロネシア語族と、朝鮮半島中南部に「コッ(櫛)」を伝播させたオーストロアジア語族は、それぞれ異なった語族であり、それらの伝播の時代も異なっていたのだと考えられる。

 

(i)日本語の「クシ」と朝鮮語の「コツ」の共通性の「根拠」

 

 そのうえで、日本語の「クシ」と朝鮮語の「コツ」の共通性があるとするならば、それは、日本列島に「クシ」地名を伝えたオーストロネシア語族と朝鮮半島に「コツ」地名を伝えたオーストロアジア語族の共通性であるが、両者は同じY染色遺体DNAハプログループOを持っているので、同じ集団が分岐して形成されたのだとすれば、その分岐の前には、両者とも同じ言語を話していたと考えられる。

 

 そうすると、両者の祖語の「共通性」にそれらの「共通性」の根拠が存在したのだと考えられるのである。

 

 つまり、日本語の「クシ」と朝鮮語の「コツ」の「共通性」があるとすれば、それは、両者がY染色遺体DNAハプログループOの言語に起因すると考えられるからであり、それはもしかすると、それらすべての言語の共通の祖語である、「人類祖語」に起源する共通性であったのかもしれないと考えられる。

 

 なお、日本列島に「クシ」地名を伝えたのはオーストロネシア語族の海民であり、朝鮮半島に「コツ」地名を伝えたオーストロアジア語族の海民であったということと、筒井論文がいう、クシもコツも海洋民族が用いていた言語の単語だったという主張は、重なるようで全く異なる主張であるが、筒井論文の議論は、なぜこんなにずれて行くのだろか?

 

 おそらくその理由は、そもそも「クシ」の本来の意味は何であったのか?その言葉はどのようにして形成されたのか?という言語学の先行研究を筒井論文が無視してその議論を始めているからだと思う。

 

(j)島の名に付くクシ地名

 

 筒井論文は、「クシ」の名が付く島は、もとは岬だったと以下のようにいう。


 「日本語のクシには岬の意味があったことは、はっきりして」おり、「数多いクシ地名の中には折りおり島の名に付いている例が見つかるのである」が、これは、「もと岬だった地形が、海面の上昇によって付け根のあたりが水没し、先端の高くなった部分だけが海上に残った結果に違いな」く、「長崎県南松浦郡新上五島町飯ノ瀬戸郷(五島列島の中通島)の串島などが、それに当たることは、まず疑いあるまい」


 「旧石器時代の地球は現在よりずっと寒気が厳しく、北極と南極付近は厚く凍りついて、そのため海面が低くなってい」て、「二万年前~一万七〇〇〇年前ごろがどん底だったらしく、当時はいまより海面が一〇〇メートル前後も低かったとされている」が、「その後、地球は温暖化に転じ、一万年前には現在との高低差は五〇メートル以下に、五〇〇〇年前にはほぽゼロになっていたようである」

 

 「むろん、それからも寒暖の繰り返しはあり、再び海面が何メートルか低くなったりしたこともあった。だが、その低下が数メートル以上になることはなかったらしい」


 「そうだとするなら、今日、「クシ」の名が付いている島と、本土とのあいだの海峡の深さが数メートルを超す場合、その命名は五〇〇〇年以上も前だったことになるはずであ」り、「この一帯にクシの語を使用する民族が移住してきたのは、縄文時代か、それ以前だったといってよいことになる」
 

 筒井論文は、「数多いクシ地名の中には折りおり島の名に付いている例が見つかる」が、これは、「もと岬だった地形が、海面の上昇によって付け根のあたりが水没し、先端の高くなった部分だけが海上に残った結果に違いな」いというが、おそらくそういうこともあっただろうとは思う。

 

 しかし、筒井論文は、「「クシ」の名が付いている島と、本土とのあいだの海峡の深さが数メートルを超す場合、その命名は五〇〇〇年以上も前だったことになるはずである」といったり、「もし、水道の深さが一〇メートルを軽く超し、幅もある程度あれば、その水道をはさんだクシの語が付く島が岬だった時代は、五〇〇〇年以上も前であったといえる」といったりしていて、「クシ」の名が付いた岬が島になったのときの海面低下は何メートルであったのか?そして、そのことから推定される「クシ」の地名が付いたときはいつだったのか?は、筒井論文からは、はっきりしないのである。

 

 筒井論文は、「クシ」は岬であるということからその議論を出発させているが、岬が海に突き出した姿が「串」に似ていたので岬が「クシ」と呼ばれたのであるから、海に突き出した岬のように見える島には、陸地との間に水道があっても「クシ」の名が付けられたと考えられる。

 

 また、海に突き出した岬のようなものがある島には、「岬のようなものがある島」という意味で、「クシ」島という名が付けられたとも考えられる。

 

 筒井論文も指摘しているように、「島」という言葉は、「魏志倭人伝」に登場する「対馬国」が「津島国」であることから、遅くとも生時代後期には「島」という日本語が存在していたのは間違えがないので、「クシ島」もそのころまでには名つけられていて、それは、「クシ」のような島、あるいは「クシ」がある島という意味の言葉であったと考えられるのである。


 崎山論文が指摘しているように、「クシ(櫛)」の語が、オーストロネシア語族によって、縄文時代後期以降、日本列島の主に西部に伝播したとすれば、その「クシ(櫛)」が「クシ(串)」となって、やがて岬のことを「クシ(串)」と呼ぶようになったのは、縄文時代後期以降であったと考えられるので、「クシ」地名の誕生を縄文時代前期にまで遡及させるような筒井論文の主張には従えないのである。

 

 なお、ここでの筒井論文の議論は、「クシ」の「櫛」「串」「岬」という三つの意味が、「櫛」→「串」→「岬」の順に拡張されていったということと、単語の「クシ」が当初は「クシラ」であって接頭辞の「カ」+語根の「シラ」から形成されたということなどの「クシ」という単語についての分析を欠落させて、「クシ」は「岬」の意味であるという一つの方向からの主張を繰り返すだけであり、「クシ」という単語がたどってきた歴史の一部分だけを拡張して行われる筒井論文の議論は、論理的なものではなく、要するに「思い付き」の域を出ないようなものであると考えられるのである。

 

 だから、筒井論文は、宝賀寿男の「古代氏族」に関する著作がそうであるのと同じように、実質的には「クシ」地名の事例集となっているのである。

 

(k)「鼻」や「串」が古く、「埼」や「岬」が新しい

 

 「岬」は元は「埼」であり、「埼」に「美称」の「御(ミ)」が付いた「御埼」が、「岬」という漢字で表記されるようになったのであるが、「岬」の漢字の本来の意味は、で「埼」もその漢字の本来の意味は で、どちらも内陸の平野に突き出た山地を表現したものであった。

 

 言葉としての「みさき」は「ミ」+「サキ」であり、その「ミ」は美称で、「サキ」は「先」の「サキ」であって、本来は、内陸部の平野に突き出した山地の先端をそう呼んだのであるが、沿岸部の海民たちは、海に突き出した山地の先端を「ハナ」とか「クシ」とかと呼んでいたのであり、海に突き出した山地の先端を呼ぶ「ミ」+「サキ」という言葉ができたのは、その後、沿岸部の海民たちが内陸部の人たちに支配されるようになってからであったと考えられる。

 

 そして、その「ミ」+「サキ」の「サキ」を漢字で表記するときに、沿岸部の「海民」を支配するようになった内陸部に住む人たちは、本来は内陸部の平野に使われる漢字の「埼」や「岬」を使って「サキ」を表記したのであったと考えられる。

 

 だから、「ミ」+「サキ」の「サキ」を漢字の「埼」から考えるのは、間違っていることになるのである。