「人類祖語」の再構成の試みについて(94) | 気まぐれな梟

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 今日は、Simon & Garfunkelの「The Best Of Simon & Garfunkel」から、「The 59th Street Bridge Song (Feelin‘ Groovy)」を聞いている。

 

(56)古代日本語

 

(a)naとa,wa

 

 近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)は、「日本語の人称代名詞の成り立ち」について、以下のようにいう。

 

  <表10〉古代日本語の人称代名詞

 

   1人称「私」  : na/wa/a/ ware/are

   2人称「汝」  : na/nare/si/i

   3人称「それ」: si

 

 これらのうち、「1人称と2人称のnaは,朝鮮語のna「私」,nə「あなた」と同源」であり、「それは*-gaの反映形で,*ŋaを経て成立したもの」である。

 

 「また,siは*-tiの反映形で,iも*tiに溯る形であ」るが「*tiのtが脱落してiとなったのか,siのsが脱落してiとなったのかは分からない」

 

 「waとaについて言うと,これらはおそらく*-gaに由来するものであり,*ga>*ya>*?a> *xa>wa>aという変化をたどって生まれた可能性が強い」が,「ツングース諸語においてø-bi-i「ø-あり(て)」という表現から「私」を意味するbiiが生まれたように,原日本語でも「私」を意味する代名詞として*biiが成立した可能性もある」

 

 「ミラーは,古代日本語の存在動詞u「ある・いる」が*bu>*wu>uという過程を経て成立したとしている」が、「uはari「ある・いる」のa-に変化したのであるから,人称代名詞のaとwaが存在動詞から生まれたとする考えは途方もない仮定ではない」

 

 「一方, wareとareについて言うと,waとaに存在動詞ari「ある・いる」の已然形areが付加されてwa-areとa-areという表現が生まれ,これらがwareとareになった」の「であれば, nareはna-areの縮約形ということになる」

 

 「ware, are, nareの成立に存在動詞がかかわったかもしれないという考えは,「古事記」に頻出する「故」という語の起源について大野が次のように説いているところと一脈通じる」

 

 「カレというのは,カアレのつまった形であ」り、「kaare→kare (上代日本語では,母音が二つ重なることを嫌ったので,こういう場合は一方が脱落したのである。))であった。

 

 「カアレの力は,カレ(彼)・カナダ(彼方)・カシコ(彼処)などの力であり,アレは「有り」の已然形である」

 

 「上代では已然形は,それだけで,……デアルカラという既定条件を示すことができる形であったから,カアレとは,ソウアルカラ,ソウダカラというような意味を表した」が、「それが少し転じて,ソコデという位の意味になったのである」

 

 「このように「故」という語がもともと「ソウアルカラ,ソウダカラというような意味を表した」とするなら, wareとareの原義は「私がいるから」「私だから」であり, nareの原義は「あなたがいるから」「あなただから」であった」と考えられる。

 

 このように近藤論文はいう。

 

(b)na型とka型

 

 近藤論文が例示している、古代日本語の1人称単数の人称代名詞のnaとa、waの二種類のうち、a、waの起源がツングース語やモンゴル語の存在動詞biに起源するという主張には、以下の点から従えない。

 

 まず、主格接辞が消失して存在動詞が1人称単数の人称代名詞となったのはツングース語やモンゴル語だけであり、主格接辞が消失して存在動詞が1人称単数の人称代名詞となったのは、おそらく新石器時代に入ってから、それもその後半以降になってからの変化であったと考えられる。

 

  次に、ツングース諸語の古代日本語への影響は、例えばそれが濊人の渡来によるものであったとすれば、歴史時代に入ってからのことであることから、仮にそうした変化が古代日本語にあったとしても、a、waの起源は、それとは別であったと考えられる。

 

 そうすると、近藤論文が別に指摘するように、具各接辞*gaに起源するgaが、ga→ka→wa→aという経過で音変化してwaやaが形成されたのだと考えられる。

 

 そして、古代日本語の1人称単数の人称代名詞のnaは現生人類の第1波の移動に係わる言語集団の言語の1人称単数の人称代名詞のna型に起源すると考えられるので、このaやwaは、現生人類の第2波の移動に係わる言語集団の言語の1人称単数の人称代名詞のka型に起源すると考えられる

 

 日本列島中間部への現生人類の流入の主なものは、崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)によれば以下のとおりである。

 

 まず、旧石器時代後期の約36,000年前ごろのY染色体DNAハブログループD(D2)の集団の流入があり、次に、約22,000年前ごろの最大最終氷期(LGM)の退避先として、アムール川流域から中国東北部・朝鮮半島を経て直接九州への、Y染色体DNAハブログループC3の集団の流入があり、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)によれば、その次に、縄文時代後期から古墳時代にかけて、フィリピンなどから九州や西日本を中心とした地域に北上してきたY染色体DNAハブログループO1aのオーストロネシア語族の流入が何度もあり、その次に、長江や淮河付近の沿岸部から山東半島や遼東半島の沿岸部を経て朝鮮半島中南部に紀元前1,000年ごろに流入して朝鮮半島の無文土器時代を形成した、オーストロアジア語族と同族のY染色体DNAハブログループO1bの集団による、紀元前700年ごろの気候の寒冷化に伴う新天地の開拓のための紀元前700年ごろの北部九州への流入があった。

 

 そして、最後のY染色体DNAハブログループO1bの集団は日本列島を西進して弥生文化を伝播させたが、その過程で彼らの言語が各地に拡散し、今日の日本語の遠い基礎となった。

 

 そうすると、日本列島に流入した集団のうち、現生人類の第1派の移動に係わる集団のY染色体DNAハブログループD(D2)の集団がna型の1人称単数の人称代名詞を日本列島に持ち込んだのだが、日本列島に流入した集団のうち、現生人類の第2派の移動に係わる集団は、Y染色体DNAハブログループC3の集団と同じくO1aの集団、O1bの集団があったので、そのうちのどの集団が日本列島にka型の1人称単数の人称代名詞を持ちこんだのかが問題となる。

 

 崎谷論文によれば、Y染色体DNAハブログループC3の集団の流入規模は比較的小さく、またその流入範囲は北部九州に限定されていたというので、この集団が日本列島にka型の1人称単数の人称代名詞を持ちこんだのではないと考えられれる。

 

 また、Y染色体DNAハブログループO1bの集団の流入は、弥生文化の拡散という点では日本列島に大きな影響を与えたと考えられるが、当初に流入してき集団の規模はごく小さく、たたかだか紀元前700年の流入で、基層言語に大きな影響を与えたとは考えられない。

 

 それらに対して、Y染色体DNAハブログループO1aの集団の日本列島への流入は、その頻度も多く、長期間継続し、拡散範囲も広かったので、まずは消去法ではあるが、この集団が日本列島にka型の1人称単数の人称代名詞を持ちこんだと考えられる。

 

(c)2人称のma

 

 古代日本では、初めはna型の1人称単数の人称代名詞だけだったところに、後からka型の1人称単数の人称代名詞が流入してきたのだとすると、ka型の1人称単数の人称代名詞とともに、それに対応した2人称単数の人称代名詞も新たに古代日本に流入してきたと考えられる。

 

 そこで、ka型の1人称単数の人称代名詞を持つ、Y染色体DNAハブログループO1aの集団であるオーストロネシア語族の2人称単数の人称代名詞をみると、みると、例えば、日本列島への流入先のひとつであったフィリピンなどの西部オーストロネシア・ポりネシア諸語の人称接辞では、タガログ語の1人称単数の人称接辞が-kuであるのに対して、その2人称単数の人称接辞は-moとなっているので、この-moが具各接辞*maに起源していて、その原型がmaであったとすれば、古代日本語の2人称単数の人称代名詞に、同様に具各接辞*maに起源するものがあれば、それらの人称単数と2人称単数の人称代名詞は、オーストロネシア語族によって日本列島に持ち込まれたものであったと考えられる。

 

 松本克己の「世界言語のなかの日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)は、上代日本語のma-について、以下のように言う。

 

 ma-si、i-ma-siは「古事記」などでは、「むしろ2人称の正式な代名詞と言ってよい」

 

 「これまで大方の国語学者の解釈によれば、これらの形はいわゆる尊敬の助動詞「マス」「イマス」からの派生形として生じたと見なされてきた」が、「人称代名詞の基幹が動詞・助動詞から作られたというようなケースは、手許の人称代名詞データに照らしてみても、世界諸言語の中に全く例がない」ので、「このma-は、沿岸型2人称代名詞を特徴づける基幹子音m-に直接つながる形」である。

 

 人称代名詞の語形を「基幹子音」に還元しようとする松本論文の主張には従えないが、上代日本語には2人称単数の人称代名詞のma-があったという指摘は重要であり、このma-こそ、ka型の1人称単数の人称代名詞とともに持ち込まれた2人称単数の人称代名詞であったと考えられる。

 

 なお、松本論文は、このmaが、「いわゆる尊敬の助動詞「マス」「イマス」からの派生形として生じた」という主張を批判するが、確かにこのmaが、「いわゆる尊敬の助動詞「マス」「イマス」からの派生形として生じた」ものでないことは確実であるのだが、松本論文は、このma-が何であるのか、そして、ma-si、i-ma-siとはなんであるのか、さらに、尊敬の助動詞「マス」「イマス」はこのma-と関係ががあるのか、尊敬の助動詞「マス」「イマス」は、どのようにして形成されてきたのか、などということについては、はっきりとは語らずに「基幹子音」に還元している。

 

 しかし、i-ma-siと同じようなi-ma-suがあるように、これらの「尊敬の助動詞」は、maに、例えば、行動の方向を示す接辞であったiが付加されたi-maに、動詞化接辞の-siや-suが付加されて形成されたものであり、このi-maとは、「あなたの方に」というような意味で、i-ma-siやi-ma-suが「尊敬の助動詞」となる前の、その本来の意味は、「あなたのもとにゆく」とか「あなたのために(何かを)する」とでもいうようなものであったと考えられる。

 

 そうすると、このmaとは、「いわゆる尊敬の助動詞「マス」「イマス」からの派生形」ではなく、逆に、このmaから「いわゆる尊敬の助動詞「マス」「イマス」」が誕生したのだと考えられる。

 

 以上から、古代日本語に2人称単数の人称代名詞のma-があったことは間違えがないので、この2人称単数の人称代名詞maとセットになっている1人称単数の人称代名詞のkaも、日本列島に渡来したオーストロネシア語族によって、日本列島に持ち込まれたのだと考えられる。

 

(d)na型の1人称単数と2人称単数の人称代名詞

 ka型の1人称単数の人称代名詞が流入する前のna型の1人称単数の人称代名詞と2人称単数の人称代名詞の語形について検討する。

 

 日本列島のna型の1人称単数の人称代名詞はY染色体DNAハブログループD2の集団に係るものであったので、同じY染色体DNAハブログループDの集団に係るチベット・ビルマ語族の1人称単数の人称代名詞と2人称単数の人称代名詞の原型から考える。

 

 「「人類祖語」の再構成の試みについて(83)」では、チベット・ビルマ語族の1人称単数の人称代名詞と2人称単数の人称代名詞について、以下のように述べた。

 

 ヒマラヤ南部のリンプ語のaŋgaやアッサムのポド語のaŋといったヒマラヤ山脈付山麓付近の言語の1人人称単数の人称代名詞には、その祖型が2語であった痕跡を残すものが存在している。

 

 例えば、リンブ語のaŋgaがa-ŋgaで、ポド語のanがa-nであったとすると、それらの本来の語形はga-ŋaやga-naであり、naがŋaが音変化したものであったとすると、それらの語形の祖型はga-ŋaとなり、さらにそれは具格接辞*-gaを二つ重ねたga-gaであり、それは、その二つを差別化する意味でga- na としたものであったと考えられる。

 

 チベット・ビルマ諸語の1人称単数の人称代名詞の原型がga-naであったとすると、その祖型は、ø- ga-na-yoo-kyi「私ありて」れはと復元され、-yoo-kyiはそれらの諸言語では脱落したと考えられる。

 

 松本論文が例示している、古典チベット語の2人称単数の人称代名詞のkhyodは、タカリ語のkyaŋとよく似ているが、より古形を残しているタカリ語を例にすると、kyaŋはky-a-nという3語で構成されており、その原型は、ki-ga-ŋaであったと考えられる。

 

 そうすると、これまで見てきたように、チベット・ビルマ諸語の1人称単数の人称代名詞の祖型がga-ŋaであったとすると、タカリ語の2人称単数の人称代名詞kyaŋの祖型は、1人称単数の人称代名詞の祖型にga-を付加したものであり、ヒマラヤ南部のリンブ語では1人称単数の人称代名詞がaŋgaで、2人称単数の人称代名詞がkhɛnɛであることからも、チベット・ビルマ諸語の2人称単数の人称代名詞の祖型は、1人称単数の人称代名詞の祖型ga-ŋaにga-を付加したga-ga- ŋaという3語の構成であり、近藤論文が指摘するような副詞句としてはø-ga-ga-na-yoo-kyi「私たちありて」であったと考えられる。

 

 アチャン語やポド語のnaŋはna-ŋaで、トゥルン語のganaはga-na、ブナン語のhanはga-nであるが、それらは、1人称単数の人称代名詞のga-ŋaからgaが脱落したように、祖型のga-ga-ŋaからgaが脱落し、またそこから音変化することで現在の語形になったと考えられる。

 

 そうすると、羌語noやビス語naなどの1語の2人称単数の人称代名詞は、祖型の3語から2語が脱落して現在の語形となったと考えられる。

 

 こうした検討の結果、古代日本語のna型の1人称単数の人称代名詞と2人称単数の人称代名詞の語形も、チベット・ビルマ諸語のものと同じように、1人称単数の人称代名詞の祖型はga-ŋaで、2人称単数の人称代名詞の祖型は、1人称単数の人称代名詞の祖型ga-ŋaにga-を付加したga-ga-ŋaという3語の構成であったと考えられる。

 

 なお、チベット・ビルマ語族の言語の中では、ヒマラヤ山脈付山麓付近の言語に固形が残存していると考えられるが、日本列島に流入した集団のY染色体DNAハブログループD2は、Y染色体DNAハブログループDの集団がチベット高原に移動する前の華北でその集団から早期に分岐したもので、その日本列島に流入した集団のY染色体DNAハブログループD2の集団の言語にも、同様に古形が残存していたと考えられる。

 

 このように、1人称単数の人称代名詞がga-ŋaで、2人称単数の人称代名詞ga-ga-ŋaであったところに、1人称単数の人称代名詞がaやwaであり、2人称単数の人称代名詞がmaである言語が流入したのである。

 

 その結果、松本論文が、上代日本語の人称代名詞の「1人称では、a/areが最も通常の形である」というように、na型の1人称単数の人称代名詞は次第に駆逐されていき、松本論文が、「naの1人称としての用法は」、「自分のキョウダイに対する親密な呼称表現に限られ」、「上代語のnaは、1人称よりもむしろ2人称としての用法が一般的となっていて、1人称の用法は少数の固定した表現に残存するだけである」というように、naは、1人称単数の人称代名詞から2人称単数の人称代名詞になっていったが、その過程で、ka型の2人称単数の人称代名詞のmaは、na型の2人称単数の人称代名詞のnaに駆逐されていったのだと考えられる。

 

 そうなったのは、チベット・ビルマ諸語では、結局、1人称単数の人称代名詞も2人称単数の人称代名詞も同じnaとなったことで、1人称単数の人称代名詞のnaが消滅しても、2人称単数の人称代名詞のnaは残存したので、1人称単数の人称代名詞のaやwaと2人称単数の人称代名詞のnaが棲み分けをするようになったためであったと考えられる。

 

 例えば、松本論文が例示している、「古事記」神名の「opo-na-mu-ti」のnaは、本来は土地の意味のnaであったが、「古事記」のころには「異分析」されて、「大己貴」の「己」のように1人称単数の人称代名詞となっていたが、その後、「大己貴」が「大汝命」ともいわれるようになったように、そのnaは、1人称単数の人称代名詞の「己」から2人称単数の人称代名詞の「汝」に、その意味を変えているのである。

 

 これは、1人称単数と2人称単数の人称代名詞であったnaが、2人称単数の人称代名詞に限定されていったことを反映している、と考えられる。

 

 そして、そうした限定を前提として、aやwaにareが付加されて、a-reやwa-reが誕生したように、それらとの語形の統一を図るために、naにもareが付加されて、na-reが誕生したのだと考えられる。

 

 なお、松本論文によれば、古代朝鮮語には1人称単数の人称代名詞のaがあった痕跡があるというが、日本列島の九州に渡来した外洋航海民のオーストロネシア語族は九州の対岸の朝鮮半島南部にも渡来したと考えられるので、このaを朝鮮半島南部に持ちこんだのもオーストロネシア語族であったと考えられる。

 

 しかし、オーストロネシア語族の影響は、黒潮に乗って西日本各地への拡散が可能であった日本列島に対して、朝鮮半島で黒潮に面しているのは朝鮮半島最南部の沿岸部のみであったので、オーストロネシア語族の影響は、朝鮮半島南部では限定的であった。

 

 日本列島で発展したaやwaが朝鮮半島では廃れてしまったのは、両者へのオーストロネシア語族の影響の違いに起因していたと考えられる。

 

(℮)iとsi

 

 近藤論文は古代日本語の人称代名詞の2人称ではnaやnareに加えてsiとiを挙げ、3人称にはsiを挙げているが、これらの単数と複数の区別を表示していない。

 

  崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、このiとsiは、オーストロネシア諸語に起源する、以下のようにいう。 

 

 「*iを3人称単数主語代名詞とし、*siを複数とする言語がインドネシア東部のセラム島からニューギニア島のほぼ全域に拡がり(オーストロネシア祖語形の下位区分では、中東部マライ・ポリネシア諸語)、その周辺を、単数*na(語源はRAN*n-iya)、複数*laである言語が取り巻く」

 

 「*siはオーストロネシア祖語形*siDaの語末音節消失形、*laは*siDaの語頭音節消失形である」が、「歴史的にはna/laが古く、その後に発生したi/siがna/laを周辺に押しやったのである」

 

 こうした崎山論文の指摘から、オーストロネシア祖語形の3人称複単数の人称代名詞*iaがオセアニア祖語形の*iになり、オーストロネシア祖語形の3人称複数の人称代名詞の*siDaがオセアニア祖語形の*siになったが、この3人称複数の人称代名詞の*siは、単数*na、複数*laの3人称の人称代名詞よりも新しく、オセアニアでは後者を駆逐していったことがわかる。

 

 崎山論文が指摘しているように、オーストロネシア諸語は、フィリピンなどから黒潮に乗って、縄文時代後期から古墳時代にかけて、何度も日本列島に渡来したオーストロネシア人たちによって、主に日本列島の九州から西日本に流入したが、その過程で、3人称単数の人称代名詞の*i と3人称複数の人称代名詞の*siが、日本列島に流入した。

 

 崎山論文によれば、このオーストロネシア諸語の3人称複数の人称代名詞の*siは、日本列島に流入すると、2人称複数の人称代名詞に転用されていったといい、以下の文例を例示している。

 

 「三枝の中にを寝むと愛しくシが語らえば」

([さきくさの]真ん中に寝たいよ、とかわいらしく、お前が言うものだから)「万葉集」

 

 そして、崎山論文は、このsiは「指示代名詞(それ、それら)になったといい、以下の文例を挙げる。

 

「年のはに鮎シ走らば辟田川鵜八頭潜けて川瀬尋ねむ」

(毎年鮎[それらが]泳ぎ走るころになったら、辟田川に鵜を八羽潜らせて川瀬をたどってゆこう)「万葉集」

 

「乙女等シ春野の菟芽子摘みて」

(乙女たち[彼女らが]春のヨメナを摘んで)「万葉集」

 

「天地の神シ恨めし」

(天地の神々[かれらが]恨めしい)「万葉集」、

 

「白髪シ子等に生ひなば」

(白髪[それらが]娘たちに生えたら)「万葉集」

 

 これらの文例では、siは、複数の「それら」や「彼ら」「彼女ら」という意味を示している。

 

 また、崎山論文は、このsiの「複数機能は非限定を表わし、不可算名詞であるにもかかわらず複数が不定、広大、総体を意味するのは「拡大的複数」と呼ばれる」といい、それは例えば、英語the high seas 「外洋」、Japanese waters 「日本水域」、フランス語les ciels「風土」(単数le ciel 「空」)などのようであるとし、複数接辞のシが不可算名詞であるときに名詞を受けた例として以下の文例を挙げる。

 

 「冬過ぎて春シ来たれば年月は新たなれども人は古りゆく」

(冬が過ぎて春[それが]来ると年月は新たまるけれど人は老いてゆく)「万葉集」

 

 さらに、崎山論文は、2人称に転用されたシは、婉曲的に対等者か目下に向けられる、といい、siが、主語の体言、体言相当格に付く(副助詞)となったときに、そのような婉曲性により、副助詞シが控え目な主観性を表明することになったという。

 

 こうした崎山論文の指摘から、古代日本語の人称代名詞については、オーストロネシア諸語の影響がかなり大きいと考えられるが、こうした影響の大きさは、人称代名詞にととどまらず、崎山論文が例示しているような、日本列島の各地の地名や古い方言など残ったオーストロネシア諸語の痕跡から、日本語の多くの語彙にも及んでいると考えられる。

 

(f)重層的関係

 

 以上みてきたように、古代日本語の人称代名詞は、古層のna型の上に新層のka型が流入してきて併存したもので、その後、残存する人称代名詞と消滅する人称代名詞が選択されていったという、重層的な形成過程を経てきたものであったと考えられる。

 

 そうすると、そうした重層的な関係は、人称代名詞だけではなく、さまざまな語彙にも及んでいて、古代日本語は、こうした系統の異なる語彙が併存する、重層的な言語であったと考えられ、その中には、古代中国語の影響や古代朝鮮語の影響に係わるような語彙も多く存在していたと考えられる。

 

 ここから、この重層過程を復元していくことで、どの語彙が最も基層的なものかがわかるのであり、その最も基層の言語が、現生人類の第1派の移動・拡散に係るものであったとすれば、それらの言語の復元の過程を通じて、「人類祖語」の再構成に接近することが可能となるのだと考える。