「人類祖語」の再構成の試みについて(87) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「HYSTERIA」から、「End of the world」を聞いている。

 

(28)タイ・カダイ諸語

 

(a)タイ・カダイ系集団の故地とその後の移動

 

 タイ・カダイ諸語の現在の分布は中国の広西チワン族自治区の西部からベトナムの北部、ビルマの東部、ラオス、タイにかけての広範囲な地域であるが、本来は長江下流域が本拠地であった。

 

 「先史時代の東アジアの言語について」で述べたように、松本克巳の「世界言語の中の日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)は、タイ・カダイ語族について、以下のようにいう。

 「タイ・カダイ諸語を話す集団は、中国史書で「百越」と呼ばれてきた諸族に発祥する」が、「この越系の集団が歴史の舞台に初めて登場するのは、長江下流域に興った「呉」「越」両国が互いに覇を競った春秋戦国時代である」

 

 「どちらも越系の集団と見られるこの両国が紀元前5、4世紀に相次いで滅亡した後、秦漢時代に至ってもなお、長江下流域からヴェトナム北部に至る中国沿岸部の一帯は、もっぱら越系諸族の居住地だった」

 

 「漢代以後、これら越系諸族はその名称ともども相次いで消滅ないし漢化され、代わって登場したのが現在「呉語」「閑語」「男語」などと呼ばれる漢語諸方言であ」り、「いずれも土着の越系言語を基層として形成された漢語の新しい諸形態と見てよい」

 

 「唐宋代まで生き残った越系諸族は、「烏滸」(または於越)、「浬」、「僚」などと呼ばれ、この中の一部は、現在海南島の黎語や臨高語として残り、北上して雲貴高原に入った別の一部は、現在貴州、広西、湖南3省の境界域に分布するカム・スイ(漢語で伺・水)と呼ばれる諸言語の先縦となった」が、「現在の中国領内で最も大きな越系言語は、広西壮族自治州とその周辺で話されている壮(チワン)語である」

 

 「現在「タイ・カダイ」と呼ばれる語族は、その内部に70あまりの言語を含み、全体でおよそ7千万の話者人口を擁するとされる」が、「その中で、中国領内で話されている言語は全体の半数以下、話者人口も2千万程度にすぎ」ず、「残りは全部東南アジア地域に属し、ヴェトナム北部、ラオス、タイ、ビルマ北部、さらにインドのアッサム地方にまで及んでいる」

 

 「これらの地域への越系言語の拡散がいつどのような形で行われたか、はっきりしたことは分からない」が、「現在の中国領内のチワン・タイ諸語とインドシナ半島で話されているタイ系諸語との問の言語上の差異は比較的軽微であり、年代的にそれほど古く遡るとは思われない」

 

 「中国南部からインドシナ半島の全域は、13世紀この地を襲った蒙古の大軍勢によって席巻され、結果的に言語・民族の分布図が大きく塗り替えられた」が、「現在メコン川流域の中心部を占めるタイ王国が出現したのも、13~14世紀のこの動乱の時代と見てよい」

 

 こうした松本論文の指摘から、インドシナ半島にタイ・カダイ語族が進出したのは比較的新しく、春秋・戦国時代までは、彼らは「長江下流域からヴェトナム北部に至る中国沿岸部の一帯」に居住しており、古代中国の良渚文明などは彼らが担ったものであったと考えられる。

 

 これまで見てきたように、崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)によれば、中央アジアから華北に移動したY染色体DNAハブログループのNOの集団は、華北でシベリアに北上するNの集団と華北を南下するOの集団に分岐したが、このOの集団は、黄河流域に拡散したO2の集団と長江流域に拡散したO1の集団に分岐し、O1の集団は長江下流域のO1aの集団と長江上流から中流のO1bの集団に分岐した。

 

 このY染色体DNAハブログループのO1aの集団がタイ・カダイ系集団であるが、崎谷論文は、このO1aの集団はいったん広西チワン族自治区の南部やベトナム北部にまで南下し、そこから長江流域に北上したという。

 

 しかし、稲作は長江中流域にいたオーストロアジア系集団から長江下流域にいたタイ・カダイ系集団に伝えられ、タイ・カダイ系集団は、その稲作をおそらくは中国大陸の沿岸を南下する形で、インドシナ半島に伝えたのであるので、崎谷論文の主張には従えない。

 

(b)人称代名詞

 

 松本論文の例示によると、タイ・カダイ諸語の1人称単数の人称代名詞は、カダイ諸語のラクァ語がkhəu、北中部タイ諸語のチワン語がkou、南西部タイ語のシャン語がkau,標準タイ語がphomであるが、ラクァ語のkhəuやチワン語のkouはシャン語のkauが音変化したもので、また、このkauもその祖型はkuであり、そのkuは、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)を参考にすれば、具格接辞*gaがga→ka→kuと音変化して形成されたものであったと考えられる。

 

 ここから、タイ・カダイ諸語の1人称単数の人称代名詞は、松本論文がいうようにkuであり、それは1人称単数の人称代名詞のna型とka型の基本形のうちのka型の基本形に分類できると考えられる。

 

 なお、標準タイ語のphomの語形は、松本論文によれば、「東南アジアを代表する他のいくつかの「文明語」と同じように、敬語法の影響による人称システムの変容が起こっ」た結果のものであるというので、その本来の語形は、タイ・カダイ諸語と同じようなkauであり、その基本形はkuであったと考えられる。

 

 松本論文の例示によると、タイ・カダイ諸語の2人称単数の人称代名詞は、カダイ諸語のラクァ語がmi、北中部タイ諸語のチワン語がmiŋ、南西部タイ語のシャン語がmai,標準タイ語がkhunであるが、ラクァ語のmiやチワン語のmiŋ はシャン語のmaiが音変化したもので、また、このmai kauもその祖型はmaであり、そのmaは、近藤論文を参考にすれば、具格接辞*maに起源するものであったと考えられる。

 

 ここから、タイ・カダイ諸語の2人称単数の人称代名詞のphomと同じように、「敬語法の影響による変容」であるので、その変容前の語形他の諸語と同じmaiであったと考えられる。

 

 そして、近藤論文が指摘するように、人称代名詞がゼロ標識の人称接辞+存在動詞+連用形接辞という副詞句に起源しているとすると、標準タイ語(シャム語)の存在動詞はjuであるので、仮に連用形接辞をiとすると、タイ・カダイ諸語の1人称単数の人称代名詞はø-ka-ju-i「私ありて」が、タイ・カダイ諸語の2人称単数の人称代名詞はø-ma-ju-i「あなたありて」が起源となる。

 

(29)オーストロネシア諸語

 

(a)オーストロネシア系集団の故地とその後の移動

 

 オーストロネシア諸語は、台湾、フィリピン、インドネシア、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシア、マダカスカルの島々に分布している諸語であり、それら言語を話す集団は、台湾からフィリピン、インドネシア、そして南太平洋へと移動していったのであり、その故地は台湾であったが、彼らのY染色体DNAハブログループは、タイ・カダイ系集団と同じO1aであり、彼らが移動によって伝播させた稲作がタイ・カダイ系集団から伝播したものであったことから、タイ・カダイ系集団が分岐したのがオーストトロネシア集団であったと考えられる。

 

 つまり、長江下流域にいたタイ・カダイ系集団の一部が沿岸航海民として中国南岸を南下したが、その途中の福建省や香港付近で対岸の台湾に渡り、そこからフィリピンに移動して、以降の移動をスタートさせたと考えられる。

 

 ピーター・ベルウッドの「農耕起源の人類史(京都大学学術出版会)」(以下「ベルウッド論文」という)によれば、タイ・カダイ系の航海民が台湾に渡ってオーストロネシア系の航海民になったのは紀元前3,500年ごろで、台湾からフィリピンに移動したのは紀元前2,000年ごろのことであったという。

 

 オーストロネシア系集団の移動は、インドネシアからメラネシア→ミクロネシア→ポリネシアの順で行われたが、メラネシアにはニューギニアを中心とするパプア系集団が展開していたので、メラネシアに移動したオーストロネシア系集団は、パプア系集団のパプア諸語の影響を強く受けた。

 

 松本論文は、オーストロネシア諸語を以下のように区分する。

 

 「オーストロネシア諸語の内部構成は複雑多様であるが、人称代名詞の面から見ると、概略、台湾、フィリピン、インドネシア、ミクロネシアを含む「西部オーストロネシア語派」とポリネシア(および一部のミクロネシア)を含む「ポリネシア(または西部オセアニア)語派」がひとつのまとまりを作り、その一方でメラネシアを中心とする「東部オセアニア語派」が別の一派を作って、ここに大きく2つのグループが分かれる」

 

 こうした「2つのグループ」の区分の根拠は、先住のパプア系集団が話していたパプア諸語の影響をどの位受けたか、ということによるものであったと考えられる。

 

(b)西部オセアニア語派の人称代名詞

 

 松本論文の例示によると、オーストロネア諸語の西部オーストロネシア/ポリネシア語群の1人称単数の人称代名詞は、台湾のアタヤル語がkun、フィリピンのタガログ語がako、インドネシアの古ジャワ語がaku、ミクロネシア・ポリネシアのサモア語がa?uであるが、サモア語のa?u の?はk音が消失したもので原形はakuで、アタヤル語のkunは、同じ台湾のツォウ語がa?oで、この?もkが消失したものでその原形はakoであったので、語頭のaが消失したものと考えられるので、その原形はakuとなる。

 

 これらから、それらの祖型は松本論文が推定しているように*akuであるが、このakuはa+kuなので、その祖型はkuであり、そのkuは、近藤論文を参考にすれば、具格接辞*gaがga→ka→kuと音変化して形成されたものであったと考えられる。

 

 松本論文の例示によると、オーストロネア諸語の西部オーストロネシア/ポリネシア語群の1人称単数の人称接辞は、台湾のアタヤル語が-ku?、フィリピンのタガログ語が-ko、インドネシアの古ジャワ語が-ku、ミクロネシア・ポリネシアのサモア語が-?uであるが、これらの人称接辞は、それぞれの言語の人称代名詞に対応している。

 

 そこで、例えば、タガログ語の存在動詞をmay、属格の接辞をni、1人称単数の人称接辞を-koとすると、人称代名詞はゼロ標識の人称接辞と存在動詞と連用形接辞という構成の副詞句から誕生したという近藤論文の指摘を参考にすれば、

 

 タガログ語の1人称単数の人称代名詞は、ø-ko-may-ni「私ありて」となり、その-may-niが脱落し、語頭にaが付加されるとakoとなるが、他の言語でkoがkuに変われば、akuとなる。

 

 フィリピンのオーストロネシア語はその発祥の地の台湾から直接にオーストロネシア語が伝播した最初期の中継地であるので、ø-ko-may-ni「私ありて」の語形はオーストロネシア祖語の語形と大きくは変わっていないと考えられる。

 

 松本論文の例示によると、オーストロネア諸語の西部オーストロネシア/ポリネシア語群の2人称単数の人称代名詞は、台湾のアタヤル語がisu?、フィリピンのタガログ語がikau、インドネシアの古ジャワ語がko、ミクロネシア・ポリネシアのサモア語が?oeであるが、サモア語の?oe の?はk音が消失したもので原形はkoeで、そのkoは古ジャワ語のkoと同じであるが、そのkoは同じインドネシアのカイリ語がikoであるので、その原形はikoであったとすると、タガログ語のikauが音変化したものであったと考えられる。

 

 これらから、それらの祖型は松本論文が推定しているように*iakuであるが、このikauはi+kauなので、その原型はkauであり、さらにそのkauは1人称単数の人称接辞のkuが音変化したものであったと考えられる。

 

 松本論文の例示によると、タガログ語の2人称単数の人称接辞は-moで、オーストロネア諸語の西部オーストロネシア/ポリネシア語群の他の諸語の2人称単数の人称接辞も、例えば、古ジャワ語で-mu、サモア語で-uとなっていて、サモア語の-uが-muのmが脱落した語形であったとすると、それらには全てmが含まれているので、2人称単数の人称代名詞の語形とは異なっている。

 

 しかし、タガログ語の人称代名詞の体系には、ang型とng型とsa型の三つがあり、ang型では1人称単数がako、2人称単数がikawなのに対してng型では1人称単数がko、2人称単数がmoとなり、ng型にmが登場しているが、このmoは人称接辞の-muに起源するものであると考えられる。

 

 また、台湾のオーストロネシア諸語の2人称単数の人称接辞は、アタヤル語で-su?、ルカイ語、カバラン語で-suとなっているが、このsuはタガログ語のsa型と対応していると考えられる。

 

 オーストロネシア諸語の拡散の起源地が台湾で、次の伝播地がフィリピンであったことから、タガログ語のang型、ng型、sa型は、sa型が最も古く、次にng型、その次にang型という順で変化してきたものであったと考えられる。

 

 そうすると、オーストロネア諸語の西部オーストロネシア/ポリネシア語群の2人称単数の人称代名詞は、本来のsaやmaを基本形とする語形が、kaを基本形とする語形に置き換わり、それにaを付加して、新しい2人称単数の人称代名詞が形成されたのだと考えられる。

 

 そうであれば、オーストロネア諸語の西部オーストロネシア/ポリネシア語群の2人称単数の人称接辞の-moや-muは、近藤論文がいう具格接辞*maに起源するものであり、その祖型は1人称単数の人称接辞-kuとの対応から、-muであったと考えられる。

 

 そこで、例えば、タガログ語の存在動詞をmay、属格の接辞をni、2人称単数の人称接辞を-moとすると、人称代名詞はゼロ標識の人称接辞と存在動詞と連用形接辞という構成の副詞句から誕生したという近藤論文の指摘を参考にすれば、タガログ語の2人称単数の人称代名詞は、ø-mo-may-ni「あなたありて」となり、その-may-niが短縮されてiになると、moiとなるが、この語形は、タイ・カダイ諸語の南西部タイ語のシャン語のmaiなどと同じような語形となる。

 

 また、台湾諸語の2人称単数の人称接辞が、アタヤル語で-su?、ルカイ語、カバラン語で-suであることについて、松本論文は、このsuは「タイ・カダイ諸語の2人称複数に現れるsu/shu (南部タイ諸語、チワン語)などと関係があり」、「*taから(例えばta>tu>tsu>suのようなプロセスによって)派生した」ものであったという。

 

 そうすると、例えば、タイ・カダイ諸語のカダイ諸語のリー語の2人称単数の人称代名詞がmeiであるのに体して2人称複数の人称代名詞がtauであるが、リー語の2人称複数の人称代名詞にはmei-taという語もあるので、リー語のtauの原形をmei-taとすると、リー語の2人称複数の人称代名詞は2人称単数のmeiにtaが付加されたものからmeiが脱落したものであったと考えられる。

 

 なお、このmei-taの-taは、近藤論文を参考にすると、具格接辞*tiに起源するものであったとかんがえられる。

 

 松本論文が指摘しているように、「中国雲南省南部で話されるタイ語の西双版納方言(タイ・ヌア)で、suは2人称複数であると同時に2人称単数としても用いられている」ことから、2人称単数の-suは、2人称複数から転用されたものであったと考えられ、本来の2人称単数の人称代名詞は、1人称単数の人称代名詞をkoとすれば、moであったと考えられる。

 

 そうすると、タガログ語の人称代名詞の三つの体系は、タイ・カダイ諸語に起源するsu型がもっと古く、その次にng型、そしてang型の順であったと考えられ、またこのことは、オーストロネシア諸語がタイ・カダイ諸語に起源する根拠のひとつとなると考えられる。

 

(c)東部オセアニア語派の人称代名詞

 

 松本論文の例示によると、オーストロネア諸語の東部オセアニア語群の1人称単数の人称代名詞は、アワド・ビン語がnam、メケオ語がlau、トアバイタ語がnau、レウォ語がinu、フィジー語がyauであるが、これらの語は, レウォ語がinuの原形がinauであったとし、メケオ語のlauの原形がnauであり、lauのlはそのnauのnが音変化したものであったとすれば、それらの祖型は松本論文が推定しているように、*inauであったと考えられる。

 

 そして、西部オーストロネシア・ポリネシア語群を参考にすると、東部オセアニア語群の1人称単数の人称代名詞の祖型の副詞句は、ø-nau-may-ni「私ありて」となり、その-may-niが脱落し、語頭にiが付加されるとinauとなったと考えられる。

 

 松本論文の例示によると、オーストロネア諸語の東部オセアニア語群の2人称単数の人称代名詞は、アワド・ビン語がwun、メケオ語がoi、トアバイタ語が?oeu、レウォ語がko、フィジー語がi?oであるが、これらの語は, フィジー語がi?oやトアバイタ語が?oeuの?がk音が消失したものであるとすれば、それらの原形はkoやkauとなり、kauが音変化したkaiがメケオ語がoiに、kauのuがアワド・ビン語がwunになったとすると、それらの祖型は松本論文が推定しているように、*kauであったと考えられる。

 

 そして、西部オーストロネシア・ポリネシア語群を参考にすると、東部オセアニア語群の2人称単数の人称代名詞の祖型の副詞句は、ø-kau-may-ni「あなたありて」となり、その-may-niが脱落してkauとなったと考えられる。

 

(29)太平洋沿岸南方群

 

 松本論文は、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア諸語、タイ・カダイ諸語、オーストロネシア諸語を太平洋沿岸南方群とし、それらは、全体でオーストリック諸語を形成しているが、ミャオ・ヤオ諸語とオーストロアジア諸魏からなるオーストロ・ミャオ諸語とタイ・カダイ諸語とオーストロネシア諸語からなるオーストロ・タイ諸語に分けられるという。

 

 これらの諸語の1人称単数の人称代名詞の基本形は、ミャン・ヤオ諸語がkで、オーストロネシア諸語のうちのモン・クメール西北群の諸語がku、モン・クメール南東群の諸語とムンダ諸語がani、タイ・カダイ諸語がku、オーストロネシア諸語の西部オーストロネシア・ポリネシア語群がakuで東部オセアニア語群がnauとなるが、これらは、ともに具格接辞*gaに起源するgaが音変化したkaと、ŋaに起源するnaをそれぞれ基本形としたものであった。

 

 「「人類祖語」の再構成の試みについて(82)」で述べたように、崎谷論文によれば、ミャオ・ヤオ計集団、オーストロアジア系集団、タイ・カダイ系集団、オーストロネシア系集団は、すべてY染色体DNAハブログループOの集団であるが、この集団が東アジアに拡散したのは現生人類の2次拡散のときであり、こうした2次拡散に係わった集団の言語の1人称単数の人称代名詞はka型であったので、本来ならばこれらの全ての集団の言語の1人称単数の人称代名詞はka型となるはずであるが、モン・クメール諸語南東群とムンダ諸語、東部オセアニア語群の諸語の1人称単数の人称代名詞のみがna型となっている。

 

 モン・クメール諸語南東群では、オーストロアジア系集団がインドシナ半島に拡散する前には、そこには第1次拡散で南下していた先住民のチベット・ビルマ語族がおり、ムンダ諸語では、同様に南方ルートで移動してきたインド半島の先住民がおり、東部オセアニア語群では、同様にパプア諸語がいて、それぞれ新来の集団言語に影響を与えたと考えられる。

 

 だから、こうした先住民の言語との言語接触によって、オーストリック諸語には、na型とka型の

二種類の1人称単数の人称代名詞が、言語ごとに併存することになったと考えられる。

 

 なお、松本論文は、「太平洋沿岸型人称代名詞圏の「南方群」を構成する諸語族」は「1人称の形に着目すると、k‐形を持つグループ(すなわち、ミャオ・ヤオ、モン・クメール北西群、タイ・カダイ、西部オーストロネシア・ポリネシア群)とn-を持つグループ(すなわち、モン・クメール南東群、ムンダ語群、東部オセアニア語群)の2つに分けることもできる」が、「1人称におけるk‐形とn‐形のこのような使い分けは、沿岸型人称代名詞の本来の姿を反映するもので」、これらは「元もと共存していた1人称の2つの形が、地域的・方言的に違った形で選択統合された結果生じたものにほかならない」という。

 

 松本論文は人称接辞が具格接辞に起源することを理解していないので、人称接辞を「基幹子音」に還元しようとするので、k‐形とn‐形というが、これらはka型とna型というべきものである。

また、このka型とna型が、「元もと共存していた1人称の2つの形」であったというが、この「共存」が何から生じたのかも、説明できていない。

 

 しかし、松本論文がいう「共存」は、現生人類の第1次移動の集団の言語と第2次移動の集団の言語の違いに起因していると考えられる。