甲骨文の誕生と漢語の形成について(50) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

 今日は、鬼束ちひろの「REQUIEM AND SILENCE[Disc 4]」から、「眩暈 (instrumental)」を聞いている。

 

 落合淳思の「漢字の構造-古代中国の社会と文化(中公選書108 中央公論新社)」(以下「落合論文2」という)は、西周王朝の封建制について、以下のようにいう。

 

(1)封建制の高い効果

 

 「西周王朝(紀元前十一~前八世紀)は、王の親族や功臣を諸侯(地方領主)として派遣する「封建制」を採用し、殷王朝よりも安定した支配体制を構築した」

 

 「西周王朝の支配圈は殷王朝よりも若干拡大した程度と推定されているが、殷代と比べて地方領主の反乱は格段に少なくなっており、封建制に高い効果かあったことが分かる」

 

 落合論文2がいう、「封建制の高い効果」とは「地方領主の反乱」が「格段に少なくなっ」たことによる「安定した支配体制」の構築ができたことであったと考えられるが、殷王朝末期の「地方領主の反乱」が、当時の技術水準では生産力の拡大ができなくなるという「フロンティアの消滅」による「満員の世界の到来」という事態を、殷王朝が地方領主層への収奪強化で打開しようとしたことへの反発に起因しているとすれば、単に「王の親族や功臣」が、「諸侯(地方領主)として派遣」されてもあまり事態は変わらず、今度は、「派遣」された「王の親族や功臣」に対して西周王朝からの収奪が強化され、その結果、殷王朝末期と同じように、地方領主の反乱が起きてしまったはずであるである。

 

 そうならなかったのは、何故だったのだろうか?

 

 「図説中国文明史2 殷周 文明の原点(創元社)」(以下「中国文明史2」論文という)は、西周の封建制について、以下のようにいう。

 

(2)封建の内容

 

 「周室は、新しく占領した士地に諸侯国を建て、分封のときには土地を与えるだけでなく、人民も氏族を単位として族ごとを諸侯に与えました」

 

 「諸侯は領地に到着すると、新たに占領した土地と在地の先住氏族を接収管理することになります。

 

 「このため、分封制度は事実上、周人の植民活動であり、人口の再編成でもあったのです」

 

 「新しく封ぜられた国では、その地の先住民と混ざり合うことにより、地縁性をもつ政治単位ができあがりました」

 

 「しかも、周人はそうした分封を行い、地方の守りを固めることに借りて、殷の遺民は部族ごと、領土を与えられた諸侯とともに異なった封国へ移し、殷人の勢力を分散させて、殷人の脅威を取り除きました」

 

 中国文明史2論文のこうした指摘によると、西周の封建は、「新たに占領した土地」に対する「周人の植民活動」であり、封建された諸侯(地方領主)は、その土地で在地の先住氏族と敗北した殷の遺民を支配したのだと考えられるが、これは、「軍事占領」「進駐」であり、強力な軍事力の担保がなければ実現は不可能であったと考えられる。

 

(3)封建の経過

 

 「最初の分封は、西周が建国されたときに行われ」、「周の武王は、姫姓の同族一門と先王の後裔を諸侯に封じ、一連の諸侯国を建てました」

 

 「第二回目の大規模な分封は、周の成王と康王のときに行われました」

 

 「周の武王は殷を倒したあと、2年でこの世を去」ったが、「太子の成王は幼かったので、武王の弟である周公が代わって政治を執り行うと、殷の旧勢力はこの機に乗じて、東方で殷の貴族を監督していた西周の宗室を扇動して反乱を起こしました」

 

 「周公が東征して乱を平らげたあと、成王は姫姓の同族一門や姫姓と姻戚関係にある親族を諸侯に封じて、斉・魯・燕・晋などの主な諸侯国を建てました」

 

 「このあと、康王はさらに姫姓の同族一門を諸侯に封じたり、改めて封じ直したりして、邢・呉などの諸侯国を建てました」

 

 「第二回目のより大規模な分封によって、西周の国土は北は燕山の南北、東は山東省や江蘇省の沿海部まで拡大し、南は長江沿岸まで達し」、「分封を通して、周の天子は姫姓の同族一門に国土全体を支配させて、国家の真の主宰者となりました」

 

 中国文明史2論文のこうした指摘によると、西周の封建は、殷の遺民の反乱を鎮圧した後に行われた第二回目の封建が最も大規模であり、殷の遺民の反乱の鎮圧なくしては、西周の封建はその効果を上げられなかったと考えられる。

 

(4)殷の軍事力

 

 そこで、殷の軍事力と西周の軍事力を比較してみる。

 

 中国文明史2論文によれば、殷の軍事力は以下のとおりである。

 

 「殷代には王室であれ、諸侯邦伯であれ、みな相当規模の軍隊を保有していました」が、「直属の軍隊を保有していたといっても、殷王室にはまだ正式な常備軍は存在せず、兵士の供給源はもっぱら地方の諸侯国に頼る状態でした」

 

 「氏族は殷の社会を形づくる基本単位で」、「殷王朝の内部には血縁関係を基盤にして形づくられた多くの氏族諸侯の国がありました」が、

 

 「軍隊の構成形態もこれに合わせたもので、各国には支配階級である氏族の人々を主要な成員とする軍隊があり、本国の貴族によって統括されていました」

 

 「ですから殷王朝の兵制は「族兵制」とても言うべきもので、有事の際に殷王からの徴集を受けると、普段は農耕に従事している氏族の成員たちがそれぞれに武器をとり、出征する軍隊を構成したのです」

 

 そして、「当時は軍隊の訓緋方法もそれほど複雑なものではなく、主として狩猟を通して行われました」

 

 こうした中国文明史2論文の指摘から、殷王朝には殷王直属の常備軍はなく、殷王朝にあったのは、「普段は農耕に従事している氏族の成員たちがそれぞれに武器をとり、出征する軍隊を構成した」「氏族諸侯の国」単位の臨時の軍隊であったことがわかる。

 

 そうすると、こうした体制は、日本史でいえば、戦国時代に織田信長が常備軍を作る前の、農閑期しか戦争ができないような軍隊と同じであり、そうした戦国大名の軍隊が織田信長や豊臣秀吉の巨大な常備軍に敗北していったように、殷王朝の軍隊も、周に常備軍が出現すれば、敗退せざるをえなかったと考えられる。

 

(5)西周の軍事力

 

 中国文明史2論文によれば、西周の軍事力は以下のとおりである。

 

 「西周の軍隊は、氏族兵制がいまだ主要な構成部分でしたが、王朝の政権を維持するため、中央の王室は直接的に軍事力を掌握する必要がありました」

 

 「そこで、西周は中国史上初の正規の常備軍を設立しました」

 

 「周王による討伐の際、中央直属の軍隊を動員する以外に、諸侯国の軍隊と臣下の氏族軍を徴用することがたびたびあり」、「諸侯と臣下はみずからの軍隊や氏族軍を率いて討伐に参加し」、「常備軍をもたない諸侯は、周王の命によって徴集された兵士からなる軍隊を臨時に組織し、周王の出征に従って出兵しました」

 

 「西周王朝には、中央の天子直属の常備軍が2つあり」、「すなわち、宗周の鎬京に駐屯する[西六師]と成周の洛邑に駐屯する「成周八師」です」

 

 「成周八師は、武王が殷を滅ぼしたあと、殷の遺民を抑見込む目的で組織されたので、もとの名は「殷八師」といい、洛邑が建設されてから成周八師と改称されました」

 

 「どちらも各氏族から兵員を選抜し、氏族単位で組織され」、「どの氏族の部隊も、各氏族の高級将校によって統率され、これら兵を率いる高級将校は師氏と呼ばれました」

 

 「この2つの常備軍は、平時は都を警備し、戰時には反乱を起こした異族の方国を征伐するために派遣されました」

 

 「当時、各師の兵力は3千、常備軍の総兵力は約4万人でした」が、「諸侯国の領地は最大でも100里に満たず、人口は10万足らずだったので、周王はこの部隊によっていかなる反乱も完全に平定できました」

 

 「西周の軍隊はみな城内、あるいはその付近に住む平民(つまり国人)で組織されていました」

 

 「西周には王宮を警護する部隊もあり、虎臣と呼ばれました」が、「虎臣は、夷族など少数民族出身の奴隷や王畿内で罪を犯して奴隷に落とされた者によって構成され」、「彼らはみな選り拔かれ、死をも恐れない勇敢な兵士で、虎のように勇猛果敢だったので、虎賁とも呼ばれました(賁は、奔で、虎が走るように勇猛であるという意)」

 

 「虎臣の主な任務は王宮を警護することでしたが、ときには前線に派遣されて戦い、勇敢に突撃する決死隊でした」

 

 「西周の分封された諸侯の重要な目的は、辺境開拓、周王室の保護でした」ので、「諸侯や臣下のうち、采邑主はみな氏族単位の武装兵力を組織し、周の天子を守護ました」が、「諸侯勢力の増大を防ぐため、地方軍の兵力には厳しい制限が設けられ、大国は3師を越えてはならず、中国は2師以下、小国は1師以下と定められていました」

 

 「各諸侯国は自国の軍隊を有していましたが、勝手に討伐を行うことはできず、周王の統一された指揮に従わなければなりませんでした」


 こうした中国文明史2論文の指摘から、西周が殷の遺民の反乱を鎮圧できたのは、彼らが巨大な常備軍を初めて創出したからであり、この巨大な常備軍が、地方に封建された諸侯による、新しい土地と先住氏族や殷の遺民たちの軍事支配をバックアップしたのであった。

 

 そして、地方に封建された諸侯も、それぞれが西周のミニ版として、軍事力を組織して、新しい土地と先住氏族や殷の遺民たちの軍事支配を行っていったのであったが、こうした軍事力の存在こそが、西周による封建制が「安定した」地方支配を実現できた理由であったと考えられる。

 

 しかし、西周の勢力圏外にいた淮河流域の淮夷や漢水流域の楚荊などの苗人などの異民族に対する戦いでは、昭王が南征中に漢水で戦死するなど、西周も苦戦を強いられていた。

 

(6)各種産業の興隆

 

 以上のような周王直属の常備軍や地方の諸侯の軍隊による巨大な軍事力による軍事占領と支配ということだけでは、地方支配の長期的な安定はない。

 

 西周の時代には地方の産業が興隆して、地方の諸侯や人びとが豊かになったが、このことについて、中国文明史2論文は以下のようにいう。

 

(a)牧畜業の隆盛

 

 「西周の社会生活の礼制化は、牧畜産品に対する需要を増加させ、とくに戦争と娯楽による需要は、馬の必要性をいっそう増大させました」

 

 「このため、西周では牧畜の発展が非常に重視され」、「周王室は専用の牧場を開設し、周王はつねに牧場を視察し、みずから牧場で行われる重要な典礼的活動に参加しました」

 

 「西周社会の家畜に対する需要量は驚異的なもので、当時の家畜は食用や車を引く以外に、祭祀や埋葬する「犠牲」として大量に使用され」、「また、家畜の骨は骨器製造業の重要な原材料でもあり、戦争にも大量の馬が必要とされました」

 

 「このため、西周の牧畜業は、社会における経済生活の重要な一部門であり、家畜も社会において財産の所有を表す象徴の一つとなっていました」

 

 「西周の王室は、牧畜業をたいへん重視し、牧畜業を管理する官吏を置くだけでなく、周王がみずから春の馬神の祭祀や子馬の(執駒訌馬追い)の活動に参加しました」

 

 「牧畜業は、当時の礼法制度を行うための重要な物質的基盤であり、貴族の日常の飲食・埋葬・祭祀などに必要とされる犠牲を提供し」、「貴族のぜいたくな食事で、鼎に盛られる肉は主に牛・羊・猪などでした」

 

 「祭祀は国家の一大行事で、祭祀活動が行われるたびに、いつも[犠牲]として大量の牛・猪・馬などが必要とされ」、「西周の高級貴族の墓には、みな車馬坑があり、たくさんの馬が埋葬されなければなりませんでした」

 

 「つまり、西周における礼法制度の盛行は、牧畜業の発達なくしては成し得ませんでした」

 

(b)冶金技術

 

 「西周の冶金技術は、すでに新たな頂点へと発展し、質・量・新製品開発のうえで大きな革新を迎えていました」

 

 「まず、西周の都には、殷王朝よりも大規模な青銅器工房があり、鋳造業の分布範囲もより広い地域に及び、青銅器の生産量は大幅に増加しました」

 

 「青銅器のほかには、周人は冶金技術においても重大な革新を迎え、正真正銘の鉄器の製錬をはじめ、また、冶金の副産物であるガラス器の製造技術を習得していました」

 

 「西周中期以降、青銅器の数量はどんどん多くなり、諸侯国である號国の墓地からは、5千点余りの青銅製の礼器と装飾品が出土しました」

「需要に応えるため、西周の都には大規模な青銅器工房があり、また青銅器鋳造業の分布範囲は遼河平原や広西・甘粛・四川・山東半島などの地にまで拡大しました」

 

 「青銅器の数量が増加した原因は、おそらく消費者がしだいに拡大したからでしょう」

 

 「諸侯までもがみずから青銅器を鋳造したのも、青銅器がすでに商品化され、各地のいたるところに輸送されていたからかもしれません」

 

 「確実に言えることは、西周における金属製錬技術の水準の向上が、青銅器の普及を促したということです」

 

(c)鉄器の出現

 

 「正真正銘の鉄器は、人工的に鉄を製錬した製品で、西周後期になってようやく現れます」が、「製錬技術は西周中・後期の中原地域に出現したのでしょう」

 

(d)ガラス器の出現

 

 「ガラス器の出現も西周の製錬技術における成果の一つで」、西周前期に出現した「ガラス器は冶金の過程で残った人工的な石英のくずを、低温で熱し、凝結させてできる装飾品です」

 

(e)窯業の進歩

 

 「西周における窯業の進歩は、明らかに2つの面に示されています」

 

 「第一に青銅製の礼器を模倣して作られた陶器が流行したことで」、「第二に、原始磁器が日常の社会生活に浸透したことです」

 

 「西周の時期、陶器は依然として生活のうえで重要な用具でしたが、種類と数量は殷代よりも減り」、「貴族が大量に青銅器や青銅器を模倣した陶器、原始磁器、漆器などを用いたため、陶器の使用が減少したのです」

 

 「殷代に登場した原始磁器の製造技術は、西周に継承され、そして発展と改善が図られました」

 

 「生産量は殷代よりも大幅に増え、西周の宗周・岐周・成周地域の住居遺構や墓のいずれからも原始磁器が発見されています」

 

 「王室以外では、北方の諸侯国や方国でも、数は多くありませんが、原始磁器が使われ」、「南方地域の西周の墓からは、より大量の原始磁器が出土しています」

 

 「たとえば、浙汪省義島市の西周の墓から出上した原始磁器は100点にのぼります。西周のころ、とくに当時の南方地域では、貴族階層の日常生活に原始青磁器 が広範に使用されていたことを物語っています」