甲骨文の誕生と漢語の形成について(49) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「REQUIEM AND SILENCE[Disc 4]」から、「月光 (instrumental)」を聞いている。

 

 歌詞がないinstrumentalで聞くのもいいものである。

 

 落合淳思の「漢字の構造-古代中国の社会と文化(中公選書108 中央公論新社)」(以下「落合論文2」という)は、二里頭文化の「王朝」について、「国家や王朝の出現は」「実際には」、「金属器の生産との関連が深いのである」というが、二里頭文化の金属器の生産、つまり青銅器の生産については、以下のとおりである。

 

(5)権力維持のための青銅器生産

 

(a)宮廷儀礼の成立

 

 岡村秀典の「夏王朝(講談社学術文庫 講談社)」」(以下「岡村論文」という)は、二里頭文化での青銅器生産について、以下のようにいう。

 

 「二里頭文化は青銅器時代の初期の段階にあ」り、「各種の銅工具が出現したが、板状か棒状のつくりやすい形のもので、用途に応じて銅と錫の合金比を調える技術はまだ掌握されていなかったし、日常の生活や生産には石器がなお多く用いられていた」

 

 「しかし、二里頭二期にはトルコ石を象嵌した獣面文銅牌や銅鈴など、権力者の身体を飾るものが出現し、二里頭三期には飲酒儀礼に用いる銅爵や儀仗用の銅武器など、王朝儀礼にかかわる各種の銅器があらわれた」

 

 「銅容器は、二里頭三期に出現した爵がもっとも古く、盉・斝・鼎は二里頭四期に出現した」が、「すべて火にかける三足器で、煮炊き用の鼎が一例あるほかは、いずれも土器を模倣した酒器であるのは、王朝の支配者たちが酒器を重視していたことに加えて、酒を加熱するばあいは銅器の方が効率的だったからであ」る。

 

 「銅爵の出現が先行したのは、それが飲酒儀礼においてもっとも重要な酒器であったことのほか、小型で比較的つくりやすかったからである」

 

 「複雑な形の銅爵をつくるには、内型のほかに三つ以上の外型をうまく組みあわせて鋳造する必要があり、銅工具の製作とは技術のレベルがまったくちがっている」が、「その困難をのりこえて銅爵の創作に向かわせた力こそ、その時期に宮廷儀礼の整備を強力に推進した王権にほかならない」

 

 「中国の古代王権を特徴づける宮廷儀礼の成立に着目するならば、銅爵の出現した二里頭三期を大きな画期」であり、「それにともなって儀仗用の銅武器があらわれる」が、「それらは朝廷機能をもつ宮殿や儀礼用玉器の出現と三位一体の関係にあったのである」

 

 こうした、岡村論文の指摘から、朝廷機能をもつ宮殿や儀礼用玉器や儀仗用の銅武器、銅爵の出現によって、「中国の古代王権を特徴づける宮廷儀礼」が成立するが、複雑な形の銅爵の制作の困難を克服したのは、飲酒儀礼などの「宮廷儀礼の整備を強力に推進した王権」であったと考えられる。

 

 だから、青銅器の生産が国家や王朝の出現をもたらしたのではなく、国家や王朝の出現とその王権こそが、青銅器生産を推進したのだと考えられる。

 

(b)シャーマニズムと青銅器

 

 張光直の「中国古代文明の形成(平凡社)」(以下「張論文2」という)は、殷王朝のシャーマニズムと青銅器について、以下のようにいう。

 

 「中国古代の青銅器は中国古代の政治権力の道具と同等のものであった」

 

 「「左伝」に「国家にとっての重大事はまつりといくさである」という言葉がある」が、「青銅は硬度が大きく、生産用の道具を作ることのできるものだが、中国においてはそれによって政治的な道具が作られ、まつりといくさとに使われた」

 

 「古代の巫はもっぱら宮廷で使われるだけのものではなく、巫自体が宮廷なのであり、巫がおこなう儀式と巫が中心となった宗教とが、とりもなおさず、中国古代の宗教と儀式との中心をなすものだったのである」

 

 「それでは、巫はどのような用具をかりて「明神がその身に降る」ようにしたのであろうか」、また「言いかえれば、儀式をおこなうことによって、神を体によりつかせたのであろうか」

 

 「巫たちは方と円とを把握することができたばかりでなく、より重要であったのは、そこから一歩すすんで、天と地とを行き来できるようにすることができた」が、「天と地とを行き来できるようにするということは、中国古代の宇宙観の中のきわめて重要な原動力であり核心だった」

 

 「古代の宗教と儀式とがになっていた第一の任務とは、現世の人間にさまざまな宇宙の階層の間を行き来させて、天にのぼらせたり地にもぐらせたり、また、明の世界と暗の世界、陰の世界と陽の世界、生と死との世界を自由に往来させることであって、シャマンの任務とは、こうした仕事を実際におこなうことであった」

 

 「中国古代のシャマンたちが天と往来した手段にはおおよそ次のようなものがあった」

 

 「第一は、天地間の直接の物理的なつながりによるものである」が、「これはシャマニズムで言われる大地の柱であって、シャマンたちはこの柱によってのぽりおりし、またそれ以外にも、彼らは、天地の間を行き来する使者たちの助けで、天と地との間のつながりを保持した」

 

 「シャマニズムには主要な大地の柱として、次の二つのものがある」が、「すなわち、山と樹木とである」

 

 「鳥と樹木との密接な関係を通して、鳥もまた、シャマンたちが天と通じるための重要な助手であ」り、「風もまた天帝の使者の一種であって、言いかえれば、天地の間を結合させるための、いま一つの仲立ちとしての使者が風なのであった」

 

 「第二種の、第一のものと密接な関係を持った、天と行き来するための道具が、さまざまな種類の動物たちであった」

 

 「そこには二つの様相が存在する」が、「その一つは、動物自体が犠牲となり、その魂がシャマンの助手として天地の間を行き来することであ」り、「もう一つは、青銅器(あるいは木器、玉器、漆器)に表わされた動物であって、シャマンたちは、そうした動物によって天と往来する際の障碍を除去したいとねがったのである」

 

 「この外に、古代のシャマンたちや現代のシャマンたちは、酒や薬の力を借りて精神が恍惚状態に入る場合もあった」

 

 「中国古代の青銅製礼器の中でも中心を占めたのは、飲酒、盛酒、温酒用の酒器であ」り、「二里頭遺跡から出土した中国最古の青銅器の中にあって、爵と緑とは酒器であった」

 

 「酒を飲むことと各種の祭祀用の器を飾る動物の紋様とは、シャマンたちが天にのぼり地にもぐるのを助けた」

 

 「中国の古代に〔エクスタシーに入るための〕薬があった」が、「古代の霊芝は、神聖なキノコにあたるもので、食べるとやがて朦朧とした状態に入った」し、「中国では早くからすでに大麻が栽培されてい」て、「仰韶文化の時代において、大麻の実は五穀の一つであった」

 

 「古代のシャマニズムにおいて、動物が仲立ちをなしたほかに、星占い、鳥占い、夢占い、筮竹による判断などもやはり天と往来するための手段なのであった」

 

 「もう一つの種類の〔天と往来するための〕具体的手段が、儀式と儀礼用具とであ」り、「陳夢家氏は殷代のシャマニズムを論じて、二種類の儀礼用具を挙げている」が、「その一つが血であり、他の一つが玉である」

 

 「これ以外に、更に飲食と舞楽とがあった」が、「飲食と舞楽とは、シャマンたちが朦朧状態に入るのと密接な関係があり」、「「楚辞」九歌篇は、実のところ、舞楽でもって神と交流することの具体的な描写なのである」

 

 「こうした観点からみてみると、中国古代の工芸美術品は、シャマンたちの儀礼用具であ」り、「中国古代の工芸美術品を手中ににぎっていた人々は、天と地とを交流させる手段を手中ににぎっていたのであって、とりもなおさず、古代における政治権力のための道具を掌握していたのであった」

 

 「古代工芸美術が政治上でもっていた重要性については、殷周工芸美術の核心であった青銅器の中心をなす九鼎にまつわりついていた伝説の上にきわめてはっきりとみることができ」、「古代王朝が九鼎を占有していたことは、すなわち、天と通じる手段を独占していたことの象徴であったのである」

 

 「「左伝」宣公三年条に語られている、「遠方の各地の物を描き、九州の各長官に貢納した金属で鼎を鋳造して、それらの物をその上に表わし、……それによって天上と天下とを和協させて天の恵みを受けることができた」という、このいく句かのことばは、青銅礼器の上に鋳表わされている動物紋様のことを直接に述べているのである」が、「各地方の国ぐにの人びとが、それぞれの土地特有の「物」を図像に描いて、それを鼎に鋳表わしたことは、それぞれの土地がもっていた、天との交流を仲立ちする特有の動物をすべて王朝に奉献して役立たせ、そのようにして「天上と天下とを和協させ、それによって天の恵みを受けた」ことを物語っている」

 

 「言いかえれば、各王朝の帝王は各地の国ぐにの天然資源を掌握したばかりでなく、同時に、それらの国ぐにが持っていた天との交流手段をも掌握したのである」

 

 「「左伝」にいう、「金属を九州の長官へ貢納させた」ことと、「墨子」にいう、「金属を山や川から掘り出させた」こととは、まさに、各地の天然資源の中の銅鉱と錫鉱とを掌握したことを語って」おり、「「鼎を鋳てそこに物を表わした」ことは天と交流する手段を製作することであり、つまり、鼎鋳造の原料である銅鉱と錫鉱との掌握も、基本的には天と交流するための手段の掌握を意味するのであった」

 

 「それゆえ、九鼎とは天と交流することのできる権力の象徴であるだけでなく、同時にまた、天と交流する手段を製作するための原料と技術との独占を象徴するものでもあった」

 

 「九鼎の伝説が夏王朝から始まっていること、言いかえれば、中国史上の最初の王朝から始まっていることも、まことにもっともなことなのであ」り、「王権という政治権力は、九鼎という象徴性を独占することに由来したのであり、とりもなおさず、中国古代の工芸技術を独占したことに由来するものでもあった」

 

 「従って、王朝が交替する際には政治権力が移行したばかりでなく、中国古代の工芸美術品の精華の移転をも伴ったのである」

 

 「「逸周書」には、〔周の〕武王が〔殷の〕紂王を討伐した後に、「南宮百達と史佚とに命じて、九鼎を三巫へ移させた」(克殷解篇)のみならず、「伝来の宝玉一万四千、〔身につけて飾りとする〕佩玉億と八万とを得た」(世俘解篇)と述べられている」

 

 こうした張論文2の指摘から、古代中国では、青銅器の酒器などは、そこに付けられた動物の文様などとともに、シャーマンが祭祀儀礼で天と交流・交通して神の意志を聞くための重要な道具であったのであり、そうしたシャーマンを掌握した王が行った、シャーマンの祭祀儀礼を含む宮廷儀礼の際に使われた重要な祭器でもあった、と考えられる。

 

 そして、古代中国では、シャーマンが神の意志を聞くことで、王が政治的な意思決定を行うという、祭政一致の政治が行われており、そこでのシャーマンの祭祀儀礼とそれを含む宮廷儀礼は、国家と王朝、そして王の存在と意思決定を、人びとに合意形成するための、重要な手段であったと考えられる。

 

 だから、祭祀儀礼を含む宮廷儀礼で使用された酒器などの青銅器は、シャーマンを王が掌握するか、あるいは、シャーマンが王となるかした結果として、そうした宮廷儀礼が成立したことを前提として、制作され、そして使用されたのであり、それは、シャーマンと王権が結合した古代中国の国家と王朝の誕生の後で行われたものであった、と考えられる。

 

 なお、「九鼎の伝説」は、その「九鼎」が古代中国の「九州」に基づくものであるので、戦国時代の地理認識に基づいているので、後世に創作されたに説話であったと考えられるが、「金属を山や川から掘り出させ」、その金属で青銅器を作り、そこに「それぞれの土地がもっていた、天との交流を仲立ちする特有の動物」の文様を付ける、というようなこと自体は、殷王朝では行われていたと考えられる。

 

 以上から、落合論文2がいう、「国家や王朝の出現」は、「実際には、統治技術の発達や金属器の生産との関連が深い」という主張が、それらの因果関係を主張するものであるならば、それは事実関係が異なり、国家や王朝が出現したことで統治技術が発達し、また、金属器の生産が行われていったのであり、落合論文2のこうした主張には従えない。