前期古墳の編年について(25) | 気まぐれな梟

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今日は、東京事変の「ドーパミント!」を聞いている。

 

「講座日本の考古学7古墳時代上(青木書店)」所収の第一章「古墳文化の地域的様相」の大久保徹也の「二、四国」(以下「大久保論文」という)は、前期の四国島北部の古墳について、以下のようにいう。

 

(1)1期築造の前方後円墳

 

 「北東部エリアの香川県鶴尾神社4号墳(前方後円墳、四〇メートル。以下括弧内は墳長を示す。単位メートル)、丸井古墳(同、三〇)、徳島県西山谷2号墳(円墳、二〇)を四国島域の最初期古墳例としてあげることができ」、「これらは伴出土器の型式から奈良県箸墓古墳など成立期前方後円墳とごく近接した築造時期を推定できる」

 

「このほか初期の前方後円墳として、香川県摺鉢谷9号墳(前方後円墳、二七)、大麻山経塚古墳(同、三一)、徳島県宮谷古墳(同、四五)などがある」

 

「北東部エリアでは前方後円墳様式の成立直後に、その影響を受けて成立期の古墳が面的に展開」し、「弥生後期末までの墳丘墓の局所的広がりとは明瞭に区別できる」

 

「西部エリアの展開は限定的だが、高縄半島沿岸部では鶴尾神社4号墳とほぼ同時期の大久保1号墳(前方後円墳、二四)、一段階遅れて朝日谷2号墳(前方後円墳、二五)というように早期に前方後円墳様式が波及している」

 

「北東部エリアにおける前方後円墳などの成立はいわば「墳丘墓の前方後円墳化」と受けとめられるものである」が、「これに対して弥生後期末までに墳丘墓類型の成立をみなかった西部エリアでは、前方後円墳様式の波及が「墳丘墓の成立」を意味」し、「一方中・南部エリアでは、この段階でも瀬戸内海側の変化が及んでいない」

 

「鶴尾神社4号墳は北東部エリアにそれまでみられなかった長さ四メートルに達する大形にして粘土棺床を備えた板石積みの竪穴石槨にやはり長大化した刳抜木棺を収める」が、「従来と同じように石槨・棺を東西方向に配置し木蓋で覆」う。

 

「精製食器類の破砕集積儀礼を継承するが、それらはすべてあらかじめ焼成前に小孔が穿たれた、埴輪同様の仮器であ」り、「同じく仮器化した同種の中形広口壷多数を墳裾に配する」

 

「平面手的には円丘に匹敵する長さの発達した前方部を備えるが、それはごく平板な形状で箸墓古墳などの後円部を一体化した立体的な前方部形態とは似て非なるもの」である

 

「吉野川下流域北岸に位置する西山谷2号墳は埋葬施設や副葬品目に前方後円墳様式の強い影響を看取できる一方で、墳丘は主に地山成形で作出して楕円形を呈し葺石・埴輪などはない」

 

「讃岐中・東部の諸墳はしばしば塊石で墳丘を築き、右にあげた鶴尾神社4号墳と共通する特色をも」ち、「前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ」、「ある種の地域的規範が形成されている」

 

 「最初期古墳の主丘部サイズはおおむね径一五~二〇メートルに収まり、弥生後期墳丘墓の主丘サイズと大差がな」く、「形状や内容面も含めて同格の諸古墳が並立的に展開する」

 

「四国北東部エリアでは同じ時期に四四基の前方後円(方)墳(双方中円墳を含む)を数えるが、ほぼ九割が墳長五〇メートル未満、1期に限ればそのすべてがこのクラスの小形墳となる」

 

「築造数も念頭におけば北東部エリアでは「前方後円墳化」した墳丘墓はなによりも大小優劣の幅広いグループの間で共有され、彼らの(多分に水平的な)結集を表象する記念物として出発する」

 

「また西部エリアの場合も築造規模・築造数でやはり広域的な政治的結集の頂点を表象するものではない」

 

「このエリアに限らず、安芸西部太田川流域、周防中部というように、周辺でも中四国西部および東部九州の複数地域でこうした局所的な結果を観察できる」

 

(2)検討

 

「前方後円墳の発生過程について」で述べたように、前方後円形の墳形は箸墓古墳の築造過程で考案されたものであり、鶴尾神社4号墳などのいわゆる「讃岐型前方後円墳」の墳形は、平地に築造された箸墓古墳の築造企画を丘陵での墳丘の築造に適応させるため、古墳の意墳丘の基壇面の築造を省略することで成立したと考えられる。

 

また、鶴尾神社4号墳では、箸墓古墳や中山大塚古墳の築造過程で始められた供献土器の底部の焼却前穿孔が行われている。

 

だから、箸墓古墳の築造時期を布留0式期末とすると、鶴尾神社4号墳や同時期の築造と考えられる摺鉢谷9号墳などの古墳の築造時期は、早くても布留1式期古・中段階となる。

 

丸井古墳は、前方部に近接して方墳を築造し、そこに従属葬の埋葬を行うが、下垣仁志の「古墳時代の王権構造(吉川弘文館)」(以下「下垣論文」という)によれば、以下のとおりである。

 

「本方式の最古例が前期初頭前後の丸井古墳であること、香川に北大塚古墳・陣の丸二号墳などがあり、隣県の徳島に大代古墳、愛媛に相の谷二号墳があるなど、四国北半に分布が多いこと、さらには」「東西志向の埋葬頭位などからみて、本方式は香川近辺で発祥したものと推定できる」

 

「この方式は、発祥後すぐさま広域に拡散したようである。前期前葉までに、福岡県妙法寺二号墳・同津古二号墳・静岡県新豊院山D二号墳・岐阜県象鼻山一号墳などというように、かなり広域にひろがって」おり、「そしてこの方式は、前期中葉頃までには畿内地域にも出現」し、弁天山B三号や闘鶏山古墳が築造される。

 

下垣論文が指摘するこうした分布から、この形式は、讃岐の首長層と摂津や河内の首長層、筑前の首長層などとの交易・交流関係を基礎にして各地に拡散していったものであったと考えられる。

 

博多湾沿岸に築造された妙法寺2号墳や、弁天山古墳B-3号墳に後続して築造された闘鶏山古墳やほぼ同時期と考えられる弁天山古墳B-1号墳などの築造時期が3期、布留1式新段階と想定されることからすると、丸井古墳の築造時期は、その直前の2期、布留1式中段階であったと考えられる。

 

宮谷古墳からは三角縁神獣鏡が出土しているが、三角縁神獣鏡の「配布」が開始したのは布留1式期新段階以降であったので、宮谷古墳の築造時期は、古墳編年の3期前半、土器編年の布留1式期新段階であったと考えられる。

 

以上から大久保論文がいう「最初期」とは2期、布留1式中段階で、「初期」とは3期前半、布留1式新段階であったと考えられる。

 

(3)2期から3期築造の前方後円墳

 

「大形前方後円墳は2期以降に成立」し、「北東部エリアでは2期に香川県高松茶臼山古墳(前方後円墳、七二)、猫塚古墳(双方中円形、九八)が」、「徳島県八人塚古墳(前方後円墳、六〇)も墳形からこの時期に位置づけられ」、「愛媛県妙見山1号墳(前方後円墳、五五)は、西部エリアで最初に大形化した前方後円墳とみられるが、出土土器等から2期より古く位置づけることは困難」である。

 

 「引き続き五〇メートル未満クラスの小形前方後円墳が少なからず築かれている」が、「こうした大形墳の出現は」、「当初志向した、古墳築造を媒介とする相互のむしろ水平的な連携を階層的に再編しはじめる動き」である。

 

 こうした「序列化傾向は3・4期前半にはいっそう進展」し、「北東部エリアの讃岐地域では快天山古墳(3期、前方後円墳、一〇〇)、三谷石舟古墳(4期、前方後円墳、約八〇)が築かれ、西部エリアでは高縄半島の北端に相ノ谷1号墳(3期・前方後円墳、八〇)、同2号墳(4期?・前方後円墳、約六〇)が登場する」が、「北東部エリアでは前方後円墳の築造数そのものがめだって減少」し、「3・4期後半をあわせても二七基と、I・2期のおよそ六割にすぎ」ず、「五〇メートル未満クラスの小形前方後円墳は全体の約九割から五割台へと急激に低下し、逆に墳長五〇メートル以上の前方後円墳が五基からー二基に増加する」

 

「讃岐中部の丸亀平野東部(令制鵜足郡域)でも墳長一〇〇メートルの快天山古墳が築かれる3期には1・2期に点在した三~四グループはすべて築造を停止する」

 

(4)検討

 

 大久保論文によれば、快天山古墳は3期の古墳となるが、快天山古墳の埴輪と「形態的な類似性が高」い埴輪が出土している御旅山古墳は、3期後半=布留2式古相の築造であるので、快天山古墳も3期後半の築造であったと考えられる。 

 

ここから、大久保論文が「四国北東部部に1期から2期に築造された」とする多数の古墳は、快天山古墳が3期後半の古墳となるので、実際には2期から3期前半に築造された古墳であったと考えられる。

 

そして、3期に築造されたとされる古墳は、3期後半から4期前半に築造された古墳であったと考えられる。

 

ここから、多数の小古墳が築造された時期の後に築造された、高松茶臼山古墳、猫塚古墳、八人塚古墳、妙見山1号墳、船岡山古墳などの古墳も3期後半以降に築造された古墳であったと考えられる。

 

猫塚古墳からは三角縁神獣鏡と筒形銅器が出土しているが、前述のように、三角縁神獣鏡の「配布」開始は、古墳編年の3期前半、土器編年の布留1式期新段階であり、岩本崇の「筒形銅器の生産と流通」(以下「岩本論文」という)によれば、筒型銅器は古段階のA群と中段階のB群が出土しており、甲冑は出土していない。

 

そして、A群→B群、B群で甲冑と共伴するという筒形銅器の岩本論文による編年から、猫塚古墳から出土した筒形銅器は、甲冑と共伴する以前の古墳時代前期後半古相から前期末のものであり、そこから、猫塚古墳の築造時期は、A群の筒形銅器が出土した紫金山古墳の築造時期の、古墳編年の3期後半、土器編年の布留2式期古相と同じであったと考えられる。

 

また、高松茶臼山古墳から出土した鍬形石は、同じものが紫金山古墳から出土しているので、高松茶臼山古墳の築造時期は、A群の筒形銅器が出土した紫金山古墳の築造時期の、古墳編年の3期後半、土器編年の布留2式期古相と同じであったと考えられる。

 

さらに、船岡山古墳の発掘の「現地説明会資料」では、船岡山古墳の築造時期は高松茶臼山古墳の築造時期よりも「やや新しい」といわれているが、高松茶臼山古墳や船岡山古墳からは器台形円筒埴輪が出土しており、これらの埴輪は「間接伝播」であるとされている。

 

ここから、高松茶臼山古墳と船岡山古墳の築造時期には、それほどの時間差はなく、船岡山古墳は高松茶臼山古墳とほぼ同じ時期の古墳編年の3期後半、土器編年の布留2式期古段階の築造であったと考えられる。