多氏の出自について(2) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

 今日は、シドの「夏恋」を聞いている。


 多氏は、5世紀前半から5世紀後半まで、多遺跡で、国家的祭祀として三輪山祭祀を行っていた。


 多氏は、どこから来たのだろうか?


 三輪山祭祀を行った大神氏は和泉国の陶邑から三輪山山麓に移住し、大倭氏は淡路国から三輪山山麓に移住してきた。


 ここから考えると、多氏も大和国以外の国から多遺跡に移住してきたと考えられる。


 大和国の奈良盆地には、日本全国の国名を付けた地名、いわゆる「国名地名」が存在するが、これらは、全国各地から奈良盆地に移住して来た人々が付けた地名である。


 日本の首都である東京には、東京一極集中という言葉があるように、全国各地から人やモノや情報が集中する。


 それは、徳川家康の江戸開府以降、継続している。


 だから、現在の東京には、江戸を開発した江戸重継や江戸城を築城した太田道灌のころから住んでいる人などがいたとしても、ごく少数であり、圧倒的多数の人々は、何㈹か前に地方から出てきて東京に住み着いた人々である。


 同じことが、大化前代の奈良盆地にも起こっていた。


 大和朝廷が飛躍的に発展したのは、大量の渡来人たちを受け入れ、彼らの技術を活用して河内平野の大規模開発を行うとともに、大阪平野と奈良盆地に新しい技術の手工業や馬飼などの拠点を形成したからである。


 大和朝廷の発展をもたらした新しい力は、河内平野で展開したのであり、その力が奈良盆地に持ち込まれた。


 大和朝廷を構成する中央豪族で奈良盆地に昔から住んでいた人たちは、ほとんどいない。


 葛城氏は、朝鮮半島南部に居住していた倭人の王であったが、朝鮮半島南部から渡来し、紀ノ川を遡及して葛城地域の南部に拠点を形成した。


 紀氏は、朝鮮半島南部の貴族であったが、朝鮮半島南部から渡来し、紀ノ川河口付近に定住すると、在地の倭人の豪族と混血し、そのうちの一部は大伴氏となった。


 日本書紀や古事記で葛城氏と同族とされている、波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平郡氏なども、みな朝鮮半島南部からの渡来系氏族である。


 波多氏は、秦の民を率いてきた秦の君(弓月の君)の関係者である。


 巨勢氏も、その「コセ」の氏名は、渡来人が奉斎した比売許曽神社の「コソ」と同じ意味であり、朝鮮半島南部からの渡来系氏族である。


 平郡氏は、平郡谷に築造された平郡氏に係わる古墳の内部構造等をみると、渡来系氏族であると考えられ、遅れて移住してきた紀氏と在地で混血した。


 蘇我氏は、百済貴族の木満致の子である蘇我稲目が始祖の来系氏族である。


 和爾氏は、6世紀初めに形成された氏族であり、奈良盆地には、和爾氏の核となった春日氏がいたが、春日氏が添上郡に拠点を形成したのは5世紀後半であったと考えられ、春日氏は、近江国や山城国の方面から南下してきた氏族であった。


 なお、春日氏の氏名の「春日」は、朝鮮語で、「浜辺」または「浜辺での祭祀」という意味であり、奈良盆地で生まれた言葉ではなく、大阪湾岸または丹後国から越前国にかけての日本海の海岸であったと考えられる。


 ここからも、春日氏は、奈良盆地の在地氏族ではないと考えられる。


 物部氏は、河内国の大県遺跡に係わった穂積氏から分岐した氏族であり、物部氏の拠点は河内国渋川郡にあった。


 中臣氏は、河内郡の平岡神社に隷従していた。


 以上みてきたように、大和朝廷を構成する主だった中央豪族は、奈良盆地の在地氏族ではない。


 ここからすると、多氏も、奈良盆地に自生した氏族ではないと考えられる。


 多氏について包括的に検討した文献は、ほとんどないが、大和岩雄は、いくつかの著作で、多氏について論述している。


 また、宝賀寿男は、「古代氏族の研究③阿部氏(青垣出版)」(以下「宝賀論文」という)で、阿部氏について検討した結果、阿部氏は多氏から初期に分岐した氏族である、と主張する。


 そこで、多氏について検討する前に、阿部氏について検討したいが、宝賀論文の内容を検討する前に、他の研究者による阿部氏の論述を検討したい。


 大橋信弥の「日本古代の王権と氏族(吉川弘文館)」(以下「大橋論文」という)によれば、阿部氏は蘇我氏とともに欽明朝ごろに政治的に進出した新興豪族であるという。


 日本書紀には孝元天皇の第1皇子の大彦命の子孫として、①阿部臣、膳臣、②阿閉臣、伊賀臣、③狭狭城山君、筑紫国造、越国造の7氏をあげているが、①は中央豪族、②は伊賀国の地方豪族、③は姓の君を共通とする地方豪族である。


 ③の氏族のうち、狭狭城山君は、中央豪族の山部連のもとで近江国蒲生郡の山部を管掌する地方豪族であるが、狭狭城山君の本拠であったと考えられる近江国蒲生郡佐々筍郷は、琵琶湖最大の内湖の大中ノ湖(豊浦内湖)に面しいる海上交通の一大拠点であったので、狭狭城山君は、越や敦賀、丹後方面を経由する海外との交通や交渉に係わっていたと考えられる。


 ③の氏族のうち、筑紫国造は筑紫君のことで、筑紫君磐井の後裔であり、博多湾岸の那ノ津付近に拠点を有し、朝鮮半島南部との海外交渉に関与したと考えられる。


 ③の氏族のうち、越国造は越道君のことで、「新撰姓氏録」の右京皇別に阿部氏同族として道公が見え、欽明紀に越の郡司の道君が見えるので、加賀国(加賀国分離前は越前国加賀郡)の地方豪族であったと考えられる。


 朝鮮半島との交通経路は、九州の筑紫を経由するコースとともに越を経由するコースがあり、越国造の道君は、越を経由する海外交渉に関与したと考えられる。


 阿部氏は天皇が即位するときの大嘗祭で、対外交渉に従事した渡来系氏族であった吉士集団を率いて「吉志舞」を奏上しているが、阿部氏が吉士集団を統括して海外交渉に関与したことから、阿部氏による「吉志舞」の奏上が行われるようになったと考えられる。


 吉士集団の本拠は難波にあったが、大阪市に「阿部野」の地名があるように、阿部氏も難波に拠点を有していた。


 阿部氏には、布施、引田、長田、久努、狛、許曾部などの複姓氏族があるが、天武朝には、阿部布施氏が阿部氏の本宗家となったが、この阿部布施氏の本拠は、阿倍野の近くの布施であり、ここからも、阿部氏は難波に拠点を有していたと考えられる。


 以上から、阿部氏は、海外交渉を行う、いわば外交担当の「大夫」として、大和国十市郡安部村とともに摂津国東成郡阿倍野を拠点とし、海外交渉の表玄関の筑紫国造、裏玄関の越国造、狭狭城山君と、そうした職掌を通じて同族関係を形成した、と考えられる。


 大橋論文は、おおむね以上のようにいう。


 直木孝次郎の「日本古代の氏族と国家(吉川弘文館)」(以下「直木論文」という)によれば、阿部氏の活動はとくに推古紀から舒明紀に顕著である


 阿部臣鳥は、AD608年(推古16年)には、隋の使者の裴世清を迎え、AD610年(推古18年)には、新羅使を迎え、AD612年(推古20年)には、舒明天皇の妃の蘇我堅塩姫の改葬で天皇の命を誅している。


 AD639年(舒明11年)に、阿部倉橋麻呂を「造宮司」として創建されたという百済大寺は、阿部氏の本拠の地と推定される現桜井市阿部に近接しており、百済大寺と同時に建設された舒明天皇の百済宮も百済大寺に近接していたので、百済宮や百済大寺の地は阿部氏の勢力範囲であった。


 舒明朝で阿部氏は、蘇我氏との協調の上でであったが、大きな権力を掌握していた。


 阿部臣麻呂は、阿部倉梯麻呂ともいい、蘇我馬子の命令で推古天皇に葛城県の割譲を奏上し、推古天皇の崩御後、蘇我馬子は、後継の天皇を決めるために群臣を自分の家に集めようとして、阿部臣麻呂と相談している。

 

 このように、阿部氏は蘇我氏と緊密な関係であった。


 しかし、阿部臣麻呂は、娘の小足媛が孝徳天皇の妃となり、AD645年の乙巳の変後、左大臣となった。


 阿部臣鳥や阿部臣麻呂は、阿部内臣とも書かれており、阿部氏の職掌は天皇に近似する性格を持ち、内廷と関係が深いと考えられている。


 こうした阿部氏の職掌から、阿部氏は、内廷の雑用に奉仕したと考えられる丈部を管掌するようになった氏族であったと考えられる。

 

 直木論文では、おおむね以上のようにいう。