多氏の出自について(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、JUDY AND MARYの「Over Drive」を聞いている。

 

 以前、「三輪山祭祀について」と「三輪山祭祀再論」で、三輪山祭祀について、山尾幸久の「日本古代王権形成史論(岩波書店)」(以下「山尾論文」というや大和岩雄の「続秦氏の研究(大和書房)」(以下「大和論文①」という)、高寛敏の「倭国王統譜の形成(雄山閣)」(以下「高論文」という)などにより、おおむね以下のように述べた。

 

 5世紀後半から6世紀後半ばから、三輪山山頂付近にあったと考えられる神座日向神社で、陶邑から移住してきた渡来系氏族である三輪氏(以下「大神氏」という)によって、国家的な祭祀として日神であり天皇の祖神かつ守護神とされた高木神=高御産霊神の祭祀が行われていた。

 

 6世紀半ばの欽明天皇の時代を契機にして、その後、祭祀制度が変更・整備され、日神で天皇の祖神かつ守護神の高木神=高御産霊神は、三輪山山頂の神坐日向神社から、伊勢国の磯宮に遷座し、磯宮の祭神の上に重なる形で、伊勢大神となった。

 

 三輪山祭祀から国家的祭祀であった日神祭祀が分離したことで、三輪山祭祀は三輪山山麓の大神神社で大神氏が単独で行う、三輪山自体に対する祭祀となり、祟り神の「大物主神」の神格が成立した。

 

 5世紀後半に、大神氏が三輪山祭祀を行うようになるのと同時に、淡路島から大倭氏が三輪山山麓に移住してきて、日本全国の地方豪族が祭祀していた各地の「国魂」を譲り受けてまとめた、「大地官」の「大国玉神」を、狭井神社で祭祀するようになった。

 

 この大筋は変わらないが、河野通明の「大化の改新は身近にあった(和泉書院 和泉選書179)」(以下「河野論文」という)が指摘した、全国の条里施工と班田収授によって律令国家による土地所有が実現したという指摘と、その際に各地の神社に土地開発の許可を得たという指摘からすると、大倭氏の三輪山山麓への移住時期は、以下のように考えられる。

 

 伊勢国に日神の祭場が遷座したのは、日神の子である天皇または日神の子の神が伊勢国に降臨してから大和国に移動し、大和国で即位した、という物語を語るためであった。

 

 そして、日本の国土には多くの国神がいたので、日神の子が降臨するためには、それらの国神から日本の国土を支配する権利を譲り受ける必要があると考えられた。

 

 これが、「国譲り」の考え方である。

 

 そういう考え方は、天皇と大和朝廷に結集する畿内豪族たちは、武力で日本各地の豪族を征服して日本の統一を行ったわけではないということを、示している。

 

 この「国譲り」は、伊勢国に日神の祭場が設定されるのと同時に行われた。

 

 それは、三輪山山麓に、全国各地の国神の国土を守る力である「国魂」を譲り受けて集めた狭井神社が設定され、淡路国にいた海民の大倭氏が三輪山山麓に移住してきて、この狭井神社で日本全国の「国魂」を集めた「大国玉神」に対する祭祀を行った。

 

 つまり、伊勢大神が「天」とすれば、狭井神社は「地」であった。

 

 その時期は、6世紀半ば前後であったと考えられる。

 

 5世紀後半の倭王武(雄略天皇)の時代の「人制」は、地方豪族個人が上京して大和朝廷に出仕するという体制であり、地方豪族自体は大和朝廷の下部組織ではなく、規模の違いはあってもかなり独立していた。

 

 しかし、6世紀初頭の磐井の乱の鎮圧を契機に、6世紀半ばまでに、日本の各地に屯倉が設定され、その屯倉に対して農民を動員するために国造が任命されていった。

 

 また、それと並行して、大和朝廷を構成する中央豪族が分担する職掌ごとに、地方豪族の支配する土地や人々の一部が中央豪族に奉仕する「部民」として指定され、地方豪族は、「部民」を指定した中央豪族に対して、貢納や労役の義務を負うようになった。

 

 こうした体制は、律令国家と比較すれば、まだまだ地方豪族の独立性は高いが、地方豪族が国造という大和朝廷の下部組織として組織されたということからすると、人制の時代とは大きく異なっている。

 

 地方豪族が国造となったときに、同時に、地方豪族によるその地域の開発の象徴であり守り神でもあった、地方豪族が守ってきた「国魂」は、大和朝廷に吸収されたと考えられ、そのことが大和朝廷が全国各地に屯倉を設置し国造を任命する根拠とされたと、考えられる。

 

 AD674年(天武天皇3年)に天武天皇は、石上神社の神庫(ほくら)に保管してあった、地方豪族から献上された神宝を、元の地方豪族に返還しているが、これは、条里施工と班田収授の実施によって、全国の土地の国家所有が確立されることで律令制国家の建設が進み、個々の各地方豪族の「国魂」とその象徴の「神宝」を譲り受ける必要がなくなったからであった。

 

 ここから、石上神社に地方豪族から「神宝」が献上されたのは、全国に屯倉と国造が設置されていった6世紀半ばのことであったと考えられる。

 

 屯倉や国造が設置され、部民制が行われる前の、倭王武=雄略天皇の時代の「人制」と地方豪族の個人的な上番体制が行われてた、5世紀後半には、地方豪族の「国魂」とその象徴の「神宝」を譲り受ける必要はなかったと考えられる。

 

 だから、大倭氏は、6世紀半ばごろに三輪山山麓に移住してきて、「倭国造」となったのであり、三輪山山麓への移住と「倭国造」への任命は同時に行われたと考えられる。

 

 6世紀半ばには、全国各地の地方豪族が祭祀する「国魂」の祭祀は大倭氏が狭井神社で、全国各地の地方豪族が献上した「神宝」の管理は物部氏が石上神社で、それぞれ行っていたと考えられる。

 

 律令国家形成に向けて天皇の権力が強化されるとともに、降臨神話も拡充・整備され、対馬国に高御産霊神を降臨させたり、紀伊国の日前宮を国譲り後の「大国玉神」が隠れる神社として検討したりという試行錯誤を行いながら、最終的には天武天皇の時に伊勢大神を「伊勢神宮」として天皇だけの神社とする一方で、AD659年(斉明天皇5年)には、国譲りした後の大国主命が隠れる出雲大社が、出雲国に創建された。

 

 狭井神社で祭祀されていた日本全国の「国魂」の集合である「大国玉神」は、狭井神社から出雲大社に遷座して「大国主神」とされ、その国譲りの出雲神話が構想された。

 

 その神話では、全国の国魂は、日本全国の支配権を天皇に移譲して、出雲に「隠れた」とされた。

 

 律令制国家では、律令制の国ごとに「国魂」を祀ることになったので、大倭氏の拠点(古墳の上)に大倭国魂神社をつくり、狭井神社から遷座した大和国のみの「国魂」を祭祀することになった。

 

 こうして、現在みるような、出雲大社、伊勢神宮、大神神社、大倭国魂神社が成立した。

 

 それでは、三輪氏(大神氏)が祭祀する前の三輪山祭祀は、誰がどのように行っていたのだろうか?

 

 大和論文①によると、以下のとおりである。

 

 多神社がある多遺跡は、弥生時代からの祭祀遺構で、そこでは、古くから農耕に係わる祭祀として、三輪山山頂の日神の日の出を遥拝する祭祀が行なわれていた。

 

 多遺跡の祭祀遺物は、5世紀後半に大神氏による国家的な三輪山祭祀が開始されると減少してゆくので、三輪山山頂の日神祭祀は、初めは多遺跡で行われていたが、5世紀後半以降は多遺跡では徐々に行われなくなり、三輪山山頂付近の神坐日向神社に移行したと考えられる。

 

 大神氏の祖祖とされる「大田田根子」の名は、多氏の同族の舟木直の伝承に「神田田命」が登場することから、「大」+「田田」+「根子」であり、多氏に係わる神名である。

 

 「大田田根子」が陶邑で「発見」されて三輪山に来たという、日本書紀や古事記に書かれている大神氏の伝承は、本来は三輪山とは何の関係もなかった大神氏が三輪山祭祀を行うために、実は大神氏の始祖は多氏に係わりがあった人で、その人を探したところ陶邑にいたので、陶邑から三輪山山麓に移住してきたのだ、ということを説明するために構想された伝承であったと考えられる。

 

 多遺跡は多氏の拠点であると考えられるが、その多遺跡では、弥生時代から継続して三輪山山頂の日神の遥拝祭祀が行われているので、多氏は、弥生時代から多遺跡で三輪山の日神の遥拝祭祀を行ってきた。

 

 そして、そうした事情から、日本書紀や古事記で、多氏の祖先が、初代天皇の神武天皇の子で第2代の天皇の綏靖天皇の兄である神八井耳命とされた。

 

 このように、大和論文①はいう。

 

 しかし、高論文によれば、神武天皇や綏靖天皇が登場したのは、7世紀前半の物語2と系譜2のときであるので、多氏の祖先の伝承も、早くてもそのころに形成されたものである、と考えられる。

 

 だから、日本書紀や古事記に古い時のことであると書かれているから、多氏が古くからの氏族であるとは言えない。

 

 また、弥生時代と庄内・布留式期の祭祀と古墳時代の祭祀は、内容や担い手が異なるはずであり、多遺跡での祭祀の継続から、その祭祀を弥生時代から多氏が行っていたとは言えない。

 

 多遺跡には弥生時代の大規模な環濠集落があるが、多遺跡は弥生時代終末期の庄内式期から古墳時代の布留式期には廃絶する。

 

 だから、多遺跡での祭祀は、弥生時代には、多遺跡にあった環濠集落の人たちまたは近隣の環濠集落の人たちが行っていたが、庄内式期から布留式期には、別の人たちが行っていたと考えられる。

 

 坂靖の「古墳時代の遺跡学(雄山閣)」(以下「坂論文」という)によれば、奈良盆地では、纏向遺跡が発展する庄内式期から布留式期にかけて、中央湿地部と周囲の山岳部の間の土地の大規模な開発が行われ、全国各地から多数の入植者が移住してきた。

 

 そういう人たちを取りまとめることで、纏向遺跡の首長は権力を生成し、大和朝廷を構成し、天皇に繋がっていく。

 

 だから、庄内式期から布留式期にかけての多遺跡での農耕儀礼としての三輪山の日神祭祀は、纏向遺跡の人達が中心となって行っていたと考えられる。

 

 そして、大和朝廷が朝鮮半島南部からの大量の渡来人を受け入れて河内平野の大規模開発を行うようになって初めて、大和朝廷の職掌として特定の豪族に多遺跡での祭祀が任されることになった、と考えられる。

 

 それは、5世紀前半のことであった。

 

 そして、そのときに多遺跡での三輪山祭祀を管掌したのが、多氏であった。

 

 では、多氏はどこから来たのだろうか?