「本来、虚無にとって支配者ってのは、1-2のクリボーみたいなもんなんだよ」と、いきなり心が言ってきました。

 

この例え自体、初代スーパーマリオブラザーズを知らない人にとっては「なんのこっちゃ」となるんですが、今回はそのまま話を進めます。

 

前からクリボーが歩いてきたら、「ジャンプしてよける」「踏む」「ファイアーボールで倒す」といった選択肢の中からどれかを選択する、といった対処法になります。

 

そしてマリオをプレイしたことのある人ならわかるでしょうが、クリボーというのは状況によってはすごく厄介な敵ではあるけれど、それ自体はいわゆる雑魚に分類されるものです。

 

だけど虚無にとっての支配者は、心の中ではただのクリボーどころではなく、画面全体を覆い尽くすような、とてもじゃないが対処も回避もできず、ただこちらが潰されるしかないバケモノのように肥大化してしまっていることがしばしばある。

 

その膨れ上がった支配者という幻想の空気を抜くと、「プシュー」という音とともにクリボーはどんどんしぼみ、適正サイズに戻るわけです。

 

 

……なんてメタファー的な話はいいとして、じゃあ実際に支配者の存在が膨れ上がっちゃってる場合はどうすんのよ、と心に聞いてみます。

 

「手はいろいろあるが、結局は幻想を消すにはどうすればいいか、という話になる。そのための一つの方法として、相手がトイレに行ってるところを想像してみ」などと心は言います。

 

なんかイメージとして汚くね? と感じはするんですが、しかしどんなに恐ろしそうな支配者であっても、結局はトイレに行って用を足してるんだよなと思うと、まあそんなもんかという気もしてきます。

 

そういえば私の好きな小説の一文に、「英雄は酒場のカウンターにはいくらでもいるが、歯医者の診療台の上には一人もいない」みたいなのもあったなあ、なんてことを思い出しました。

 

ここらへんはつまるところ、「誰だって所詮はただの人間に過ぎない」という話ですね。

 

ただの人間に過ぎないものを、ただの人間を超越した存在であるかのように見て聞いて感じてしまうと、楽しくもあり、辛くもなったりする。

 

虚飾という服を着た存在は美しくはあるが、その美しさは心を楽しませるためにあればよく、心を惑わす存在になるのなら、その人の美しさを台無しにするような服を着せる想像でもしてみればいいのかもしれない。

 

それによって印象が変わるのであれば、その人の本質とは人ではなく服とか髪型とかになるのでは? なんて気がしてきて、これはなかなか深い話かもなあ、なんてことを思うんです。

 

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

AI時代に最も必要な能力は「ツッコミ力」ではないか? てなことを、ついさっき思いました。

 

日常的にAIを使ってる人ならよくご存知だと思いますが、AIはよく嘘をつきます。いわゆるハルシネーションというやつです。

 

そして今後、AIの技術がさらに発展しても、このハルシネーションが完全になくなることは難しいのでは? と言われています。

 

その理由については各自調べてくださいとしておきますが、私は結局のところ、「人間がハルシネーションを起こす存在である以上、AIがそれを超えることはできないのでは?」と考えています。

 

実際、AIのハルシネーション問題については、「AIが人間よりアホだから」みたいな理由以上に、「AI相手だと人間相手とは比べ物にならない頻度でガンガン質問できる。つまり回答が返ってくる頻度も比べ物にならないくらい多いので、どうしても間違った答えが出てくる数が増えてしまう」という部分も大きいんじゃないかな、と思うんです。

 

じゃあどうすんのよと考えたとき、有効なのは「ツッコミ力」ではないかと。

 

これは別にAI相手の話だけでなく、人間相手にも有効というか、その手の力は育てておいたほうがいいと昔から言われてるやつですね。「権力者の言うことを疑え」とか「マスコミの言うことを疑え」とか。ネットリテラシーうんぬんの話もこれに通じます。

 

 

とはいえ、じゃあそのツッコミ力を自力で育てるにはどうすればいいんだ? という疑問が生まれます。

 

てことで、いつものように心に聞いてみます。なおここで、「心に聞いて本当に正しい答えが返ってくるんかい!」という今さらすぎるツッコミも当然あるわけですが、まあそれはそれとして。

 

「一番いいのは、常に正しくなければならないという幻想を捨てることや。まあ、それができたら苦労せんという話やが」

 

AIうんぬんを抜きにしても、人間だって間違いを犯しまくりながら生きているのが当たり前である以上、常に正しくあれ、なんて無理に決まっとるやろ! というツッコミか?

 

「その通り。そもそも大事なのは正しいかどうかやない、楽しいかどうか、幸せかどうかや。偽りによって心からの幸せを得られるのなら、それを否定する意味はあるのか? という話やな」

 

たとえ辛い現実でも向き合わないといけない、嘘に逃げてはいけない、なんて意見もあるけど?

 

「その思想も所詮は一つの幻想、フィクションに過ぎん。『辛い現実』と認識しているものは本当に現実なのか? その『辛い』という解釈自体にバイアスが入ってないか? 『嘘に逃げてはいけない』のはなんでや? そもそも『逃げる』という表現自体にバイアスが入ってないか? などなど、ツッコミどころはいくらでもある」

 

それで言うと、「ツッコミ力を上げたほうがいい」も、実は「いや別に上げんでいいし」というツッコミの対象になると?

 

「その通り。上げたけりゃ上げればいいし、上げても幸せにならなさそうなら上げなくていい。実際、いろんなことをある程度盲信できる人間のほうが、人生幸せなもんやで。自分が正しいという幻想を心から抱けるっていうのは、幸せなもんや」

 

ふむ。じゃあ質問を変えるけど、幸せになるためにはどうすればいい?

 

「いつも通り。やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。これをやれる範囲で適当にやる。完璧にやれなきゃいけないとか思う必要はないし、そう思ってしまう自分を責める必要もない。人もAIもありとあらゆるものも、完璧などではないのだから」

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

なにか書きたいけど、特に書きたいネタはない、という気分になったので、ネタについて心に聞いてみます。

 

「『自由』について書いてみ」

 

「自由」と聞くと、素晴らしいもの、という言葉がまず浮かぶ。

 

でも世の中には、自由という言葉が嫌いな人も多いんだろうな、なんてことも思うんです。

 

そして、そういうふうに嫌うのも自由だよね! という言葉がさらに続くことで、「自由」という言葉の便利さがわかる。

 

そう、「自由」という言葉は使い手の解釈次第でどうとでも取れる。

 

言い換えれば人によって解釈が異なるため、「自由」について語ったりしていても、実は全然違うものについて語っていた、なんてこともあるんです。

 

私にとっての自由とは、自分を苦しめるあらゆるモノから解放された状態、といった感じ。

 

けれど人によっては、無秩序、自分勝手、協調性がない、といったニュアンスになることもあるんだろうな、と思います。

 

まあそんなことを思った上で私が思うのは、「どうでもいいや!」だったりします。

 

さっきも書いたように、自由という言葉を他人がどう解釈するかもまた自由。

 

そして他人にその自由があるのなら、当然自分にもその自由がある。

 

そう考えると、これは別に「自由」という言葉に限らず、ありとあらゆることに当てはまるよな、とも思うんです。

 

物事を客観的に見るのであれば、自分だけが特別ということはなく、であれば自分をことさら卑下する必要もない。

 

自己肯定感が高いとか低いとかありますが、客観的に見るなら「みんな同じ!」となるから別にいいや、となる。

 

一方で、むしろ客観的に見るなら「みんな違うだろ」ともなるんですが、それならそれで、違うんだったらそもそも他人と比べてどうこう悩む必要もないよね、となる。

 

「そりゃ理屈ではそうかもしれないけど、実際に悩むだろ!」となるんですが、「悩むのも自由!」という返しが浮かぶ。

 

「実際に苦しいのに、自由で済むか!」というツッコミに対しては、「それで済ませることで、少しでも苦しみを減らせるかもしれない、そういう方便として『自由』という言葉を使うんです」と、私は真顔で答えるかもしれません。

 

自由だとか愛だとか、人によってどうとでも解釈できる言葉は、それゆえに支配の道具にもなれば、支配から抜け出すための道具にもなる。

 

なんてことを思うと罪悪感が浮かぶ辺り、「おー、こういう言葉を決まった意味で使ってもらわないと怖がる人がいるんだ!」と、脳のネットワーク的なアレで伝わってくるものがあるんです。

 

そう、自らの恐怖心ゆえに人を支配するのも自由なら、そこから抜け出すのも自由。

 

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

「発作」というやつはどうして起きるんだろう? と、ふと思いました。

 

最近で言えば、某Youtuberさんが「タモさん面白くない」と発言したのも発作でしょうし、それに対する怒りや批判の発言も全て発作と言えます。

 

表立ってそういうのを書いたり言ったりしてなくても、そういうのを見て自分の中でモヤッとした感情が生まれたりしたら、それは発作が起こっていると言える。

 

ちなみに発作について誤解されやすい点かもしれませんが、一見感情的ではなく理性的に発言できているようでも、だから発作が起きてない、とはなりません。

 

結局のところ、その発言の根っこに発作的な感情、つまり平常時とは違う波打つなにかがあるのなら、それを理性という化粧で覆って表に出してみせても、それもまた発作なんです。

 

そしてこの例に限らず、ネット上でもそうじゃない世界でも、昔から現在に至るまで、人間は発作の中を毎日生きているとさえ言えるんです。

 

例えば精神修練を積めばそういう発作から逃れられるのかな? とも思うんですが、とある仏教に詳しい人の話として、流派の違う高名な仏教の僧侶2人が「あいつのやり方は間違ってる」みたいなことを言い合ったりしてたという例もあるそうなので、だとするとその手の修行を積んでも、発作から自由になるのはなかなか難しいのかもしれない。

 

 

ということで、なんで発作は起きるの? というのを心に聞いてみます。

 

「獣の本能」

 

どういう理由でそんな本能があるの?

 

「生存競争やな。他人を蹴落とし自分が優位に立たねばならんという、その生死に関わる力関係の恐怖が発作につながる」

 

他人を批判したりするのも生存競争になると?

 

「他人の価値を下げれば相対的に自分の価値が上がる。また、自分が『間違ってる』と思うその価値観の正当性を世に広めることができれば、それは社会的な力を得たということになる。人間は社会的動物である以上、社会の中での自分の価値を上げたいと考えるのは、本能や」

 

けどその手の発作を起こすことで、かえって自分の社会的価値を落としてるケースも多いと思うが。

 

「発作を表に出すのはつまるところ攻撃やから、当然反撃も喰らう。戦いになれば、勝つか負けるかは出てくる。人によってはそこらの計算込みであえて自分の発作を表に出すやつもおるが」

 

私としては、他人の発作に巻き込まれたり、自分が発作を起こすことによる苦しみから自由になりたいと思うんだけど、それって現実的に可能なの?

 

「まず、100%発作を起こさない、は無理。それは生身で宇宙に飛び出して生存しろっていうのと同じぐらい無理な話。生物としての限界がある。

 ただ、発作の害を減らすことはできる。現実的なコツとしては、発作を半端に抑えようとしないこと。むしろ発作が起こったら、それを全力で爆発させる、ぐらいのほうがいい。そもそもが本能だから、抑えようとするとかえってくすぶって自分を蝕む毒になる。

 ただしその全力の発作を他人に見える形に出すと、いろんな面倒が起きやすい。なので、誰も聞いてない場所で独り言として言うとか、あるいは脳内で言語化するなりイメージ化するなり、とかが無難やな」

 

他人に対する怒りとか、社会的によくないとされるいろんな思いが湧いてきたとしても、「こんなこと思っちゃダメだ」みたいに抑え込んだりするもんじゃないと。

 

「抑え込まないほうがいい。全力で思って全力で吐き出したほうがいい。そんなことを思う自分はダメだ、と考える発作が生じたら、それもまた吐き出す」

 

ちなみにこの手の吐き出す手法だと、紙なりPCのテキストなりに書き出すってのもよくあるけど、これは?

 

「まあそれでもええんやが、『書く』っていうのは思いを純粋に出すというのとはまたちょっと違う行為になるんで、常に有効ってわけではない。やってみてそれで落ち着くのならそれでええけどな。なまじ書くことで『客観視できてしまって』、自分の発作を発散しきれないまま理性の牢獄に閉じ込めてしまう、という弊害もあり得る」

 

聞いてて思ったけど、小さな子どもがなんかそこらの道とかで横になって駄々こねて泣き叫んでる、みたいなのが実は発作の解消法としては一番どストレートだったりする?

 

「その通り。まあ小さな子ども以外がそれやるといろいろ面倒くさいことになるので、人がいない場所で口に出すなり脳内でいろいろ叫ぶなりするのがええ。それこそ自室でベッドや布団の上に横になりながら、そんな子どもみたいに駄々こねるのもええかもな」

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

最近読んだ神経科学の本に、「脳は意味を感じられないことに関しては成長しない」みたいなことが書いてました。

 

「好きこそ物の上手なれ」という言葉がある一方で、「下手の横好き」という言葉もあり、実際に私が趣味で見ているVTuberさんなんかも、ゲームを楽しんで結構いろいろやってるようだけど、正直そんなにうまくはないよな、と思ったりします。

 

これは結局、その人は「ゲームを上手くなるということに意味をあまり感じられない」から、脳がその方面に関しては学習しないんだろうな、と思うんです。

 

ちなみに、私自身も子どもの頃からのゲーム好きではありますが、実は自分は上手くなるということにはあまり意味を感じないタイプっぽいな、と結構最近になって気づきました。

 

それでも平均的な人間よりゲームはうまいと思うんですが、それは上手くなることには興味がなくても、「上手くやる方法を知ること」であったり、なにかしらの知識を得ることには結構興味があったりするため、そういうことをやってる中でおまけとしてそこそこ上手くなっただけかも? と思うんです。

 

 

そして、こういう脳の性質を知っておくことは結構重要かも、と思います。

 

なぜなら、本であれ動画であれ、人が語る「上手くいく方法」というのは、その人の基準における「上手さ」であり、つまりは「その人が意味を感じられること」について語っているに過ぎないから。

 

例えば「仕事で成功する方法」について語るとき、そもそもその「成功」ってなにを意味してるの? となります。

 

収入を増やすことなのか、いろんな人から認められることなのか、あるいは歴史に名を残すようななにかを成すことなのか。

 

なんであれ、自分に興味がない対象の「成功」についての話を聞いても、それは自分の脳にとってはどうでもよく、すなわち役に立たない、どころか真に受けてしまうとかえってマイナスになってしまう。

 

それは一見当たり前の話ではあるんですが、人間は常識やら他人の価値観やらに左右される、つまりは支配を喰らってしまうものなので、当たり前を当たり前と思わず、そこはちゃんと認識したほうがいいのでは? と思うんです。

 

だからこそ、私がよく書いてる、「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない」が大事になる。

 

なぜならその方針で行くと、自分はなにをやりたくて、なにをやりたくないのか、すなわち自分の脳がエネルギーを割くに値すると判断するのはどういったことなのか、を知ることになるから。

 

他人の言ったり書いたりしてることについて、理屈としては正しいはずなのに、なぜか心に響かない、ということはよくありますが、それは結局、その「正しさ」は自分がやりたいこと、すなわち自分の脳が求めてることとは違っているからじゃないのかな、と思うんです。

 

 

ちなみに私見として、「自分は天才などではないただの凡人なので、こういう方法でやってきました。この方法なら凡人でも成功できます」みたいな理屈もよくありますが、そこは言ってる本人が気づいているかどうかに関係なく、注意が必要だと思います。

 

まず根本的なことを言えば、「天才」やら「凡人」やらの言葉は厳密な定義が成されているものではなく、おそらく世の99%の人は雰囲気で使ってるだけの言葉なので、実質的にはなにも言ってないに等しい、ということ。

 

そして、さっき言った脳の性質により、「凡人だけど成功できました」と言ってる人は、結局のところその「成功するための方法」を研究したり実践したりするのがそもそも好きである可能性が高い、ということです。

 

言い換えれば、凡人だの天才だのはどうでもよくて、シンプルに「自分はそれを望んでいるのか?」で考えないと、「凡人でも成功できるはずの方法なのに、なぜか自分は上手くやれない」と悩むという落とし穴に落ちやすい。

 

そして凡人や天才といったレッテルは、嫉妬が絡む、すなわち支配が絡みやすいものであるため、どうしても惑わされがちなものでもあります。

 

しかし、支配者もまたただの人間に過ぎないように、レッテルもまた人間が勝手に作ったものに過ぎない。

 

そんな勝手な世界で生きるのなら、自分が勝手に生きて楽しい生き方とはどんなのだろう? という視点で考えるのが、一番いいと思うんです。

 

 

 

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