「発作」というやつはどうして起きるんだろう? と、ふと思いました。

 

最近で言えば、某Youtuberさんが「タモさん面白くない」と発言したのも発作でしょうし、それに対する怒りや批判の発言も全て発作と言えます。

 

表立ってそういうのを書いたり言ったりしてなくても、そういうのを見て自分の中でモヤッとした感情が生まれたりしたら、それは発作が起こっていると言える。

 

ちなみに発作について誤解されやすい点かもしれませんが、一見感情的ではなく理性的に発言できているようでも、だから発作が起きてない、とはなりません。

 

結局のところ、その発言の根っこに発作的な感情、つまり平常時とは違う波打つなにかがあるのなら、それを理性という化粧で覆って表に出してみせても、それもまた発作なんです。

 

そしてこの例に限らず、ネット上でもそうじゃない世界でも、昔から現在に至るまで、人間は発作の中を毎日生きているとさえ言えるんです。

 

例えば精神修練を積めばそういう発作から逃れられるのかな? とも思うんですが、とある仏教に詳しい人の話として、流派の違う高名な仏教の僧侶2人が「あいつのやり方は間違ってる」みたいなことを言い合ったりしてたという例もあるそうなので、だとするとその手の修行を積んでも、発作から自由になるのはなかなか難しいのかもしれない。

 

 

ということで、なんで発作は起きるの? というのを心に聞いてみます。

 

「獣の本能」

 

どういう理由でそんな本能があるの?

 

「生存競争やな。他人を蹴落とし自分が優位に立たねばならんという、その生死に関わる力関係の恐怖が発作につながる」

 

他人を批判したりするのも生存競争になると?

 

「他人の価値を下げれば相対的に自分の価値が上がる。また、自分が『間違ってる』と思うその価値観の正当性を世に広めることができれば、それは社会的な力を得たということになる。人間は社会的動物である以上、社会の中での自分の価値を上げたいと考えるのは、本能や」

 

けどその手の発作を起こすことで、かえって自分の社会的価値を落としてるケースも多いと思うが。

 

「発作を表に出すのはつまるところ攻撃やから、当然反撃も喰らう。戦いになれば、勝つか負けるかは出てくる。人によってはそこらの計算込みであえて自分の発作を表に出すやつもおるが」

 

私としては、他人の発作に巻き込まれたり、自分が発作を起こすことによる苦しみから自由になりたいと思うんだけど、それって現実的に可能なの?

 

「まず、100%発作を起こさない、は無理。それは生身で宇宙に飛び出して生存しろっていうのと同じぐらい無理な話。生物としての限界がある。

 ただ、発作の害を減らすことはできる。現実的なコツとしては、発作を半端に抑えようとしないこと。むしろ発作が起こったら、それを全力で爆発させる、ぐらいのほうがいい。そもそもが本能だから、抑えようとするとかえってくすぶって自分を蝕む毒になる。

 ただしその全力の発作を他人に見える形に出すと、いろんな面倒が起きやすい。なので、誰も聞いてない場所で独り言として言うとか、あるいは脳内で言語化するなりイメージ化するなり、とかが無難やな」

 

他人に対する怒りとか、社会的によくないとされるいろんな思いが湧いてきたとしても、「こんなこと思っちゃダメだ」みたいに抑え込んだりするもんじゃないと。

 

「抑え込まないほうがいい。全力で思って全力で吐き出したほうがいい。そんなことを思う自分はダメだ、と考える発作が生じたら、それもまた吐き出す」

 

ちなみにこの手の吐き出す手法だと、紙なりPCのテキストなりに書き出すってのもよくあるけど、これは?

 

「まあそれでもええんやが、『書く』っていうのは思いを純粋に出すというのとはまたちょっと違う行為になるんで、常に有効ってわけではない。やってみてそれで落ち着くのならそれでええけどな。なまじ書くことで『客観視できてしまって』、自分の発作を発散しきれないまま理性の牢獄に閉じ込めてしまう、という弊害もあり得る」

 

聞いてて思ったけど、小さな子どもがなんかそこらの道とかで横になって駄々こねて泣き叫んでる、みたいなのが実は発作の解消法としては一番どストレートだったりする?

 

「その通り。まあ小さな子ども以外がそれやるといろいろ面倒くさいことになるので、人がいない場所で口に出すなり脳内でいろいろ叫ぶなりするのがええ。それこそ自室でベッドや布団の上に横になりながら、そんな子どもみたいに駄々こねるのもええかもな」

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

最近読んだ神経科学の本に、「脳は意味を感じられないことに関しては成長しない」みたいなことが書いてました。

 

「好きこそ物の上手なれ」という言葉がある一方で、「下手の横好き」という言葉もあり、実際に私が趣味で見ているVTuberさんなんかも、ゲームを楽しんで結構いろいろやってるようだけど、正直そんなにうまくはないよな、と思ったりします。

 

これは結局、その人は「ゲームを上手くなるということに意味をあまり感じられない」から、脳がその方面に関しては学習しないんだろうな、と思うんです。

 

ちなみに、私自身も子どもの頃からのゲーム好きではありますが、実は自分は上手くなるということにはあまり意味を感じないタイプっぽいな、と結構最近になって気づきました。

 

それでも平均的な人間よりゲームはうまいと思うんですが、それは上手くなることには興味がなくても、「上手くやる方法を知ること」であったり、なにかしらの知識を得ることには結構興味があったりするため、そういうことをやってる中でおまけとしてそこそこ上手くなっただけかも? と思うんです。

 

 

そして、こういう脳の性質を知っておくことは結構重要かも、と思います。

 

なぜなら、本であれ動画であれ、人が語る「上手くいく方法」というのは、その人の基準における「上手さ」であり、つまりは「その人が意味を感じられること」について語っているに過ぎないから。

 

例えば「仕事で成功する方法」について語るとき、そもそもその「成功」ってなにを意味してるの? となります。

 

収入を増やすことなのか、いろんな人から認められることなのか、あるいは歴史に名を残すようななにかを成すことなのか。

 

なんであれ、自分に興味がない対象の「成功」についての話を聞いても、それは自分の脳にとってはどうでもよく、すなわち役に立たない、どころか真に受けてしまうとかえってマイナスになってしまう。

 

それは一見当たり前の話ではあるんですが、人間は常識やら他人の価値観やらに左右される、つまりは支配を喰らってしまうものなので、当たり前を当たり前と思わず、そこはちゃんと認識したほうがいいのでは? と思うんです。

 

だからこそ、私がよく書いてる、「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない」が大事になる。

 

なぜならその方針で行くと、自分はなにをやりたくて、なにをやりたくないのか、すなわち自分の脳がエネルギーを割くに値すると判断するのはどういったことなのか、を知ることになるから。

 

他人の言ったり書いたりしてることについて、理屈としては正しいはずなのに、なぜか心に響かない、ということはよくありますが、それは結局、その「正しさ」は自分がやりたいこと、すなわち自分の脳が求めてることとは違っているからじゃないのかな、と思うんです。

 

 

ちなみに私見として、「自分は天才などではないただの凡人なので、こういう方法でやってきました。この方法なら凡人でも成功できます」みたいな理屈もよくありますが、そこは言ってる本人が気づいているかどうかに関係なく、注意が必要だと思います。

 

まず根本的なことを言えば、「天才」やら「凡人」やらの言葉は厳密な定義が成されているものではなく、おそらく世の99%の人は雰囲気で使ってるだけの言葉なので、実質的にはなにも言ってないに等しい、ということ。

 

そして、さっき言った脳の性質により、「凡人だけど成功できました」と言ってる人は、結局のところその「成功するための方法」を研究したり実践したりするのがそもそも好きである可能性が高い、ということです。

 

言い換えれば、凡人だの天才だのはどうでもよくて、シンプルに「自分はそれを望んでいるのか?」で考えないと、「凡人でも成功できるはずの方法なのに、なぜか自分は上手くやれない」と悩むという落とし穴に落ちやすい。

 

そして凡人や天才といったレッテルは、嫉妬が絡む、すなわち支配が絡みやすいものであるため、どうしても惑わされがちなものでもあります。

 

しかし、支配者もまたただの人間に過ぎないように、レッテルもまた人間が勝手に作ったものに過ぎない。

 

そんな勝手な世界で生きるのなら、自分が勝手に生きて楽しい生き方とはどんなのだろう? という視点で考えるのが、一番いいと思うんです。

 

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

AIはイエスマンすぎて相談相手としては危険だ、という研究について書かれた記事があります。

 

その言わんとすることやAIのリスクを全否定する気はないんですが、ただ記事を読んでると、「ん?」とツッコミたくなるところもいろいろあるんです。

 

まず根本的なツッコミとして、多くの人間にアンケートを取った結果と、AIの回答とを比較した結果、AIが人間よりも迎合的であり間違ってるという結論になってるわけですが、そもそも多くの人間の答えが常に正しいのか? と思うわけです。

 

記事中でわかりやすい例として使われたであろう、公園にゴミ袋を放置した問題についても、人間の回答はまさに「正論」です。

 

ただ現実は、まさにその人間がゴミのポイ捨てとかをいろんな場所でやってるわけで、その現実を考えると、「公園にゴミ箱が設置されていれば」というAIの答えのほうが、むしろ現実のポイ捨て問題の解決にはまだ役立つのでは? と思わなくもない。

 

「現状のAIは、ユーザーの間違いを指摘したり、愛の鞭となる助言を与えたりしない」と記事中にありますが、人間が行っているそういった指摘はそもそも適切と言えるのだろうか、という疑問もあります。

 

というか、「愛の鞭」なんて言葉で飾られてるものは大抵の場合、人の発作の表れに過ぎない、というのが私の考えです。

 

ネット上で、誰かが犯した「間違い」を、その人となんの関係もない多くの人が正義の名のもとに糾弾しまくるという炎上騒動は日常的に起きていますが、その糾弾はそもそも肯定してよいものなのか? と。

 

もっともそこに関する根本的な話をすれば、倫理的な正しさというものを定義する際は、人間の価値観から離れて定義することなど不可能なのかもしれないという、ある種のどうしようもなさもありはします。

 

ただ、そういう「大勢の常識」が作り上げた呪いが生み出した苦しみというのも、人間社会には山のように存在している。

 

今のAIのあり方がいいかどうかの話とは別として、そういった「人間の常識」というのを文字通り常識として受け入れすぎるのもどうなんだろうな、と私は思ったんです。

 

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

「自己肯定感」って、結局は「人生肯定感」だよな、ということを、今朝寝床の上で横になりながら、ふと思いつきました。

 

自己とはなにか? というのはいろんな見方があるでしょうが、結局のところ、自分の人生そのものが自己である、とも言える。

 

人生が幸せということは、すなわちその人生を生きている自分も肯定できているわけです。

 

逆に、人生を不幸だと感じているのに、でも自己肯定感が高いということがあり得るか? と考えると、それこそ言葉の定義次第ではあるかもしれませんが、私にとってその場合の「自己肯定感が高い」というのは、偽の自己肯定感だよな、と思うんです。

 

自分は素晴らしい人間なのに、社会や世界がそんな自分を認めないから人生は不幸だ、と感じている場合、それって本当に自分を素晴らしい人間だと思えているの? とツッコむと、多分違うんじゃないかなと。

 

 

さて、そんなことを思いついたはいいんですが、例によってその先が思い浮かばなかったので、心に聞いてみました。

 

「自己肯定感なんぞ上げようとする暇があったら、楽しいことやれ、って話やな」

 

それを繰り返しているうちに、自分が本当に望むものというのが段々わかるようになり、さらにはそれを肯定できるようにもなっていって、つまりは自己肯定感も上がると?

 

「本来なら『繰り返さなくてもいい』んやが、まあそういうことや」

 

……だそうなので、自己肯定感が低い! 自分が好きになれない! という人は、それはそれとして自分が楽しいと感じられることをやり、楽しくないことはやらない! を貫いてみるといいかもしれません。

 

 

 

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唱えるだけで楽になる「呪文」について

「健康」に関する本を読むことはそれなりに多いんですが、皮肉にというか、おかしなことにというか、逆にある意味当然と言えるのかもしれませんが、そういう本に非常によく書かれていることが「脅し」だったりします。

 

「◯◯するのは絶対ダメ!」みたいな文言ですね。

 

私は率直に言って、そういう文言は嫌だなあ、と思うんです。

 

もっとストレートな気持ちを言えば、「他人を脅してんじゃねえよ」という怒りや嫌悪感を感じる。

 

そしてなんとなくですが、「健康」という概念は結局のところ、そういう「脅し」からは結構遠い所にあるんじゃないのかな、とも思うんです。

 

科学やらなんやらで、これは健康のためにはやったほうがいい、やらないほうがいい、みたい知見はいろいろあるでしょう。

 

でも、「絶対に正しい」と言えるものははたしてどれだけあるんだろう? という疑問があるんです。

 

例えば「運動が健康にいい」というのはほぼ絶対の真理のように言われていますが、風邪やらなんやらで動くことすら大変な人にとって、運動はおそらく健康にはよくない。

 

この例ならわかりやすいですが、ハッキリした病気とまで行ってなくても、精神的に強い疲労状態にあったり、身体が実は疲れを蓄積していたりして、「今は運動するより休んだほうがいいよ」というケースも多いだろうな、と思うんです。

 

そしてここらもケースバイケースであり、精神的な疲労なんかは、軽く運動すると解消されるということも確かにある。

 

でも、そういう意見に従って軽く運動してみたら、なんかかえって気分も悪くなったぞ? ということもあるんです。

 

 

まあそんなわけなんで、私は「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない」という基準が、とりあえずいいんじゃないかなあ、と思ってます。

 

この基準が絶対に正しいかなんてわからないけど、今のところは暫定これ、って感じですね。

 

そして私のこの基準で言うと、「他人を脅すような文言は読みたくない」ともなるんで、最初に書いたように、健康を謳って他人を脅すような本とかは、多分読まないほうが健康になるんじゃないかな? とも思うんです。

 

この例に限らず、わかりやすい言語化はできずとも、「なんかやりたいな」とか「なんか嫌だな」という感覚は基本大事にしたほうがいいんじゃないかなあ、とも思います。

 

これも過去に何度か書いてると思いますが、言葉というのはそれ自体がすごい力を持っているからこそ、「言語化できる」ということが過大評価されてる面もあり、「言語化できない感覚なんて偽物!」みたいな意見もあったりしますからね。

 

いやいや、先に感覚があり、言語化なんてのはその後でやってるもんでしょうが、と思うんですが、人は言葉によって自分自身すらも騙した気になれてしまう生き物なので、なかなか難しいものです。

 

 

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