他の生き物を面白半分で殺したりするのは人間だけ! みたいな理屈を昔よく聞きましたが、だからどうしたという気持ちが、正直ずっとありました。
そしていきなり脱線すると、他の動物も普通に面白半分に他者をいたぶったりはするようなので、この点においても別に人間だけが例外というわけではないようです。
なんであれ、要は「人間のこういうところはみっともない!」と言ってるわけなんでしょうが、でも「みっともない」という価値基準自体、人間が勝手に作ったものだよね、となります。
大自然の法則の中に、みっともないとかカッコいいとか、そんなのがはたしてあるんでしょうか。
まあ結局ここが全てという感じで、支配者に関する理屈の根本にある、「支配者が偽りの神として人を裁いてる」というのは、つまりはこういう話なわけです。
大自然の法則の中では、罪も罰もなく、ただ全てがなるようになるはずなのに、そこに善悪という基準を持ち込み、まるで神のように人を裁くのが支配者である、という。
もっとも、それが一概に「悪」と言えないのは、それこそ根本的なことを言ってしまえば、「悪」という概念もまた大自然の法則の中には存在しない、というかあってもなくてもどうでもいい一つのものに過ぎないから。
後は、そういった罪と罰のシステムがそのまま共同体のルールを生み出し、それによって人間社会を円滑に回している――ように見える、というのが、心が言うところの「なんで支配者が『支配者』というネーミングになっているか、やな」になります。
別に権力者とかじゃなくても、人の心を罪の意識で縛ることさえできれば、それは支配となる。それこそ、生まれたばかりの赤ん坊であっても。
ここらへんのことを考えるとき、私は子どもの頃に読んだ『パーマン』のエピソードを思い出すんです。
(以下、パーマン最終話のネタバレがあります)
パーマンの上司であるバードマンが、地球にいる4人のパーマンのうち誰かを、将来のバードマン候補、つまりエリート候補としてバード星という星へ連れて行く、ということになった。
そうして選ばれたのは、主人公ではあるものの、能力的には4人の中で一番劣っているかもしれないパーマン1号でした。
なんで自分が? と疑問をぶつけた1号に対し、バードマンは、「僕から見れば君たち地球人の優劣など誤差みたいなもの。だが、君は人より劣っているのに頑張っているからその分偉い」みたいな返事をしてたような気がします。
まあこの記憶が合ってるかは正直わかりませんが、このバードマンが最初に述べた視点こそが、大自然の視点だよな、となるんです。
人間の偉さだとか愚かさだとかも、大自然のレベルで見ればどうでもいい話。
「生きてるだけで偉い」なんて言葉もありますが、あれも言ってしまえば、偉いとか偉くないとか誰が決めてんの? となるわけで、どうでもいいわけです。
そう、全てがどうでもいいからこそ本来は自由で楽なはずなのに、そこに罪と罰、正誤の概念が持ち込まれることで、いろいろと苦しくなっていく。
というのが支配者という概念の基本であり、さらに先の話もあるわけですが、実はそこらへんも過去の記事の中で多分たくさん書いてると思いますし、今日はここで終わります。