石灰の町(栃木市鍋山町)
栃木市鍋山人車鉄道と
石灰運送
野州石灰は江戸時代初期に
発見される。
栃木町鍋山村(栃木市鍋山町)
の特産である。名主野沢家ら
が竈元として経営に携わり、
村人は農業のかたわら、
石取り人足、竈拵え、
焼立て日雇い、灰栫え、
俵入れ、駄賃運送、薪出し、
歩行荷の日雇いに従事する
石灰の村であった。
江戸時代の窯には、
名主窯(野沢四郎左衛門)・
落合窯(落合四郎左衛門)・
源之丞窯(田村源之丞)などが
あった。
明治前期までは日数も薪も
大量に心要な谷焼き法といわれる製法が主流で生産性が
低かった。
野沢四郎左衛門が燃料に
石炭を使用する七輪竈製法を
導入すると、生産量は飛躍的
に増加した。明治42年の記録
には、石灰業者は9人、最も
古い創業は田中石灰工場の
文久元年(1861)とある。
職工の人数はどこも十数人
程度の小規模工場であった。
鍋山産石灰は荷車や荷馬で
栃木河岸に運ばれ、巴波川を
利用して東京へ移出したが、
両毛鉄道が開通すると大量の
輸送が可能になった。
しかし、鍋山から栃木駅への
輸送費が高騰して経営に打撃
になった。
この現状を打開するため、
明治29年(1896)、
野沢四郎左衛門(翌年、大久保村名主落合四郎左衛門が創立委員長となる)が発起人
となり、鍋山・栃木駅間の
鍋山人事鉄道の設立を願い出
30年2月に認可された。
鍋山下川原→尻内→吹上→
野中を通り
栃木県第二中学校
(現在の栃木高等学校)の
西と南を廻ってそのまま大通りに出て、万町・倭町・室町
の市街地を経て開明橋を渡って栃木駅に至った。
架橋は3ケ所。永野川には
尻内橋の直ぐ下流、巴波川は
開運橋と開明橋の二ケ所に
架けられた。梅沢・尻内・
千塚・吹上・野中に停車が
設置され、現在も尻内町に
(停車場)の屋号を持つ住宅が
残っている。本社屋は
鍋山町、栃木事務所は
栃木県第二中学校(現栃木高等学校)の東に置かれた。
人車鉄道は
明治33年7月.客車8両、貨車
30両で開始した。明治43年の時刻表によれば、1日
10往復、下り坂になる
鍋山から栃木駅へは約
1時間20分、栃木駅から
鍋山は上り坂であったので
2時刻10分前後かかった。
下り貨物は、石炭、上り貨物
は石灰焼成に必要な石炭や
生活雑貨であった。貨車以外
にも客車も接続しており、
大正6年の乗客は21,565人
であったた。
明治44年の
栃木町の石炭取引量は
23,718噸、そのうち栃木駅
からは18,718噸、78パ-セントが東京他に移出された。
栃木駅輸送(移出)量のほぼ
39バ-セントが石灰であった。鉄道路線は栃木町の
市街地を通行したので、粉塵
の公害や人身事故、駅で荷下ろしを待つ車両が、市街地に
停滞するなどの問題がおき、
明治35年に栃木商業会所は
溝部県知事に(路線敷設変更)
を陳情し、大正9年(1920)の
県議会においても質問されている。このため、市街地に避け、西の田園地を通り栃木駅
に至る専用路線が、検討された、あわせて走力強化のため
ガソリン車の導入が検討された。唱和5年(1930)吹上村
野中(野中町)から箱森→
菌部→片柳を一直線に進み、
栃木駅に達する専用路線が、開通した。また、昭和16年
には動力としてディゼル車
3台が導入され、客車が廃止
され、無盡車50台をもって
運行された。その後、トラック輸送の発達によって
昭和32年に正式に営業が停止
され35年に正式に廃止となった。
とちぎの歴史を歩くを
借用いたしました
ありがとうございます。
2024年3月16日
廃止されたのが中学校3年の
ときです。残っていたら
出流山とか便利だったのかと思いましたけど当時は
バスの本数が多く
女性の車掌さんがいて、
栃木駅から出流方面と
栃木駅から星野→永野→予州の2路線が、こまめに走行していましたけど
最近は2時間20分に1本にそれに、星野→出流回りの
1路線になり、
車がないと不便になりました
最後までお夜道頂きありがとうございます。