栃木とらくの局
徳川家4代将軍家綱公の
ご生母は栃木県の人です


徳川4代将軍の徳川家綱公の


生母宝樹院は家光の側室

であり、らくの局とか

らくの方と呼ばれた。

徳川実記によれば、

らくの局は

都賀郡高島村(太平町下高島)

の処士(浪人)青木三太郎利長

と島田村(小山市)の娘

増山織部箕の娘紫との間に

生まれた。紫は利長と死別

すると、古河藩永井家の浪人

七沢清宗と再婚して浅草辺りに住していた。

らくはそこで家光の乳母

春日の局の目に留まり

13歳で大奥に入り、家光の

寵愛を得て寛永18年(1641)に

世子家綱を生んだ。

これにより、母紫も

まし山のかたと呼ばれて

大奥に入り、将軍家の覚えが

愛でたかったという。

らくの姉は高家

(幕府の儀式や典礼を司る高禄の旗本)の品川高如に嫁ぎ

弟二人も幕府に登用された。

兄の増山正利は参河西尾2万石の藩主となり、弟の資ただ

は旗本の那須家を継ぎ、後に

那須郡内に1万2千石を与えられ、那須藩を立藩した。

異父弟も交代寄合(非役の大身旗本)平野家の養子になり

妹は長府藩の支藩清末藩主

毛利元知の室になった。

また養父の清宗も老いを養う

ためとして、月俸200口を

賜っている。

太平町下高島の宝蔵寺に

青木利長の墓がある。


母方性を継いだ増山正利が
1654年6月に建てたものである。平井町の太山寺は
らくの局の支援で再興されたといわれ、宝樹院の院号は
らくの局の法号に囲むもので
ある。境内の枝垂れ桜は
らくの局が手植えしたとの
伝承がある。

参考資料は、栃木歴史を歩く
影山博先生の新生栃木市の
歴史や史跡を探訪。

現在は遠くに出掛けて
食事したりができませんので
ネットで検索すればわかることですが、最後まで
読んで頂きありがとう。