どうぞどうぞ、とっとと退去して下さい。

ついでに土地不動産も売却して帰って下さい。

日本人は危害を加えたりする様な民族ではありません。一緒にしないで下さい。


奈良公園 荒池園地。







浮見堂とサンライズ🌄



鹿とサンライズ🌄🦌



白矮鶏の砂浴び 鳥鳥



桂矮鶏の砂浴び 鳥鳥



皇帝ダリア ラブラブラブ



そら豆、芽が出そう。



小松菜 🥬



サラダ水菜。



オリヅルラン。



ざくろ。



びわ。



ブルーベリー 🫐



大根。



ネモフィラ。



バラ。



金木犀。



ホトトギス。



サボテン🌵、日光浴。



メダカ。



ピーマン🫑、撤去しました。



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聖武天皇 佐保山南陵(法蓮北畑古墳)



参道。





🙏





御陵の中に鹿が。。。🦌





光明皇后陵(光明子上差し



若草山。


聖武天皇の生い立ち

「聖武天皇」(しょうむてんのう)は、701年(大宝元年)に第42代「文武天皇」(もんむてんのう)の第1皇子として誕生しました。

諱(いみな:生前の実名)は「首」(おびと)、諡(おくりな:死後に贈られる名)は「天璽国押開豊桜彦天皇」(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、「勝宝感神聖武皇帝」(しょうほうかんじんしょうむこうてい)と号されています。

母である「藤原宮子」(ふじわらのみやこ)は、藤原氏の始祖である「藤原鎌足/中臣鎌足」(ふじわらのかまたり/なかとみのかまたり)の子とされる「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の娘であることから、聖武天皇は奈良時代に藤原氏の繁栄を築いた家系とかかわる天皇でした。藤原氏を外戚に持つ人物が天皇となったのは、聖武天皇が初めてのこと。

また、聖武天皇の母である藤原宮子は「皇后」ではなく「夫人」という位でしたが、のちに「太皇太后」(たいこうたいごう)の尊称で号され、日本で初めて夫人から皇后となった人物でした。

しかし、聖武天皇は7歳のときに父である文武天皇と死別し、産後、病に陥っていた母の藤原宮子とも会うことなく幼少期を過ごします。

聖武天皇の系図は、古代日本最大の内乱と言われる「壬申の乱」(じんしんのらん)で勝者となった第40代「天武天皇」(てんむてんのう)の皇統です。この皇統を守るために、幼い聖武天皇に代わり、祖母(文武天皇の母)が第43代「元明天皇」(げんめいてんのう)、伯母(文武天皇の姉)が第44代「元正天皇」(げんしょうてんのう)として即位し、聖武天皇の皇位継承まで女帝によって中継ぎが行われました。

聖武天皇の即位と「長屋王の変」

714年(和銅7年)に14歳で立太子した「首皇子」(おびとのおうじ)は、716年(霊亀2年)に藤原不比等の娘で、聖武天皇の母である藤原宮子の異母妹に当たる「安宿媛」(あすかべひめ)別名「光明子」(こうみょうし)と結婚します。そののち、724年(神亀元年)に聖武天皇は24歳で元正天皇から譲位され、白亀の出現という瑞祥(ずいしょう:めでたいことが起こる前兆)にしたがって「神亀」と改元し、大極殿(だいごくでん:朝廷の正殿)で即位しました。

727年(神亀4年)には、光明子との間に待望の第1皇子「基王」(もといおう)が誕生します。基王は母方の藤原氏の邸宅で養育され、異例の早さで立太子が行われました。しかし、この翌年の728年(神亀5年)に基王は病気がちとなり、容態は悪化します。聖武天皇は全国で大祓の儀式を行うなど、我が子の回復のために手を尽くしましたが、基王はわずか1歳で薨去(こうきょ:貴人の死)してしまいました。

悲しみに暮れる聖武天皇に対し、勢力を失うことを恐れた藤原氏側は、光明子の立后(天皇の正妃として皇后の地位に就くこと)を提案します。このとき、藤原氏と対抗する皇親勢力の左大臣「長屋王」(ながやおう)が反発し、藤原氏側の画策は停滞することに。

そんななか、朝廷に長屋王による謀叛の密告が入ります。この藤原氏側の陰謀によって、729年(神亀6年)に長屋王は自害に追い込まれ、この「長屋王の変」で藤原氏は政権を手にすることとなったのです。そして、「天平」に改元されたあと光明皇后が誕生し、聖武天皇は皇后とともに朝政の安定化を目指していきました。

疾病の流行と不安定な政局に苦しむ

長屋王の変のあと、政治の実権を握った「藤原武智麻呂」(ふじわらのむちまろ)ら藤原四兄弟は、735年(天平7年)に起こった天然痘の大流行によって四兄弟全員が命を落としてしまいます。さらに、朝廷の高官も相次いで疫病に倒れ、政情は極めて不安定な状況に陥ることに。これに対し、聖武天皇は宮中に僧侶を招いて経を読ませましたが、政情不安が解消されることはありませんでした。

このような状況に懸念を抱いた光明皇后は、異父兄である「橘諸兄」(たちばなのもろえ)を右大臣に置き、朝廷の安定化を図ろうとします。ところが、橘諸兄は唐から帰国した学者「吉備真備」(きびのまきび)や、僧侶「玄昉」(げんぼう)を重用し、藤原氏側の思惑とは真逆の政治体制を固めていったのです。

このような橘諸兄による新たな政権に反発した「藤原広嗣」(ふじわらのひろつぐ)は、吉備真備や玄昉の追放を訴えました。しかし、藤原広嗣はこの返答を待たずに、740年(天平12年)に挙兵し、「藤原広嗣の反乱」を起こします。聖武天皇は藤原広嗣討伐の勅を下し、「大野東人」(おおののあずまびと)を大将軍、「紀飯麻呂」(きのいいまろ)を副将軍に任命。多数の軍勢を率いて藤原広嗣を捕獲し、処刑しました。

この乱の最中に、聖武天皇は突如関東へ行幸し、鎮圧後も「平城京」(現在の奈良県奈良市)には帰らずにそのまま都を遷します。約5年間で「恭仁京」(くにきょう:現在の京都府木津川市)、「紫香楽宮」(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)、「難波京」(なにわきょう:現在の大阪府大阪市)と遷都をくり返し、都を転々と変えながら朝政を行いました。

この時代は、聖武天皇の治世の中で「彷徨五年」(ほうこうごねん)と呼ばれています。そして、難局に立たされ続けた聖武天皇は、この間に仏教への帰依を深めていきました。

世の不安を和らげるために寺院と大仏を造立

天然痘の流行、政情不安、災害や飢饉など、世の中で不安が渦巻くなか、聖武天皇は仏教による鎮護国家を目的として、741年(天平13年)に各国に国分寺(こくぶんじ)建立の詔を発します。さらに、人臣の不安を取り除く方策として、玄昉などの意見を取り入れ、743年(天平15年)に「盧舎那仏」(るしゃなぶつ)の造立を発願しました。廬舎那仏とは大仏の正式名称で、「あまねく照らす」という意味を持っています。この廬舎那仏が、現代でも広く知られている「奈良の大仏」です。

当時、紫香楽宮近くの「甲賀寺」(こうかでら/こうがでら)に廬舎那仏を造立する予定で計画が進められていましたが、744年(天平16年)に聖武天皇が平城京に都を戻したことで、745年(天平17年)から現在の「東大寺」(奈良県奈良市)大仏殿の場所で改めて大仏造営が開始されました。

大仏造営は資金難に陥ったことで一時中断となりましたが、聖武天皇直々に依頼を受けていた仏教僧「行基」(ぎょうき)の勧進が功を奏し、造営再開を果たします。

聖武天皇は、「華厳経」(けごんきょう)の教えに基づき、大仏造営にあたって皆が一致団結して利益を分かち合おうとする趣旨の誓願を立て、鎮護国家思想の体現を示しました。そして、聖武天皇も造立の過程で必要な土を自ら運び、皇后や臣下達もこれにしたがって土を運んだと言われています。また、大仏造営には銅や錫(すず)、金、水銀などが150,000貫(562,500kg)費やされ、2,500,000人以上の人員が動員されたことが記録されています。

743年(天平15年)の発願から約10年の年月を費やして大仏は完成し、752年(天平勝宝4年)には大仏に目を入れて魂を迎え入れる「開眼供養会」が盛大に行われました。この開眼供養会には、来日していたインドの僧侶「菩提僊那」(ぼだいせんな)や、中国の僧侶「道璿」(どうせん)も参加し、菩提僊那が開眼導師となって法要を執り行ったと言われています。

三宝の奴であることを宣言して出家

大仏造営という大事業が進行するなかでも、聖武天皇は政情不安に苦悩する日々を送っていました。743年(天平15年)には経済政策として「墾田永年私財法」(こんでんえいねんしざいほう)を発布し、律令制の原則であった公地公民の崩壊を招きます。

不安定な政治情勢が続いた上、744年(天平16年)には聖武天皇の第2皇子である「安積親王」(あさかしんのう)が急死。その直後に聖武天皇は病気で重篤に陥ります。その後、回復の兆しを見せていた聖武天皇でしたが、748年(天平20年)、聖武天皇とともに政務を遂行していた元正太上天皇が崩御したことで、再び体調が悪化。

憔悴しきった聖武天皇は体調不良を理由に、翌749年(天平感宝元年)に皇女の「阿倍内親王」(あべないしんのう)に譲位することを決意します。第46代「孝謙天皇」(こうけんてんのう)が即位して「天平勝宝」(てんぴょうしょうほう)と改元されました。

聖武天皇は譲位の際、東大寺に行幸して大仏の前に着座し、仏の僕(しもべ)を意味する「三宝の奴」(さんぼうのやっこ)と自称し、譲位後に出家したと言われています。天皇の出家は、聖武天皇が初めてのこと。天皇が仏の臣下であることを宣言するという異例の事態に、当時の朝臣達は大変驚いたことでしょう。聖武天皇は在位期間中に精神・身体の疲労を抱えていたことで、仏教への信仰心を深めていったと考えられます。そののち、756年(天平勝宝8年)に聖武天皇は崩御しました。

聖武天皇の仏教傾倒は光明皇后の進言から?

一説によると、聖武天皇の仏教傾倒は光明皇后の存在が大きかったのではないかと考えられています。光明皇后は実母の影響で仏教を篤く信仰していたため、国分寺の建立や大仏の造立も光明皇后が聖武天皇に進言したためだと言われているのです。

また、光明皇后自身も仏教の慈悲思想に基づいた貧民救済のための「悲田院」(ひでんいん)や、病人のための「施薬院」(やくいん/せやくいん)といった施設を設置しています。

施薬院では、光明皇后が自らハンセン病患者を救済したという伝説も残っており、こうした慈悲深い光明皇后の思想が聖武天皇の心を支えていたのではないでしょうか。

光明皇后は、聖武天皇の七七日忌(なななぬかき:四十九日)の際、遺品を東大寺大仏殿に献納しました。これが、「正倉院」(しょうそういん:現在の奈良県奈良市)の始まりとされています。
















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