和束井手線を、駒岩の左馬、岩壷を巡って、後醍醐天皇 松の下露跡へやってきました。🛵


京都府綴喜郡井手町多賀片原山

後醍醐天皇一行は、山城国綴喜郡多賀村の有王山をさ迷い歩いていたらしい。


太平記では1331年、笠置山に籠る後醍醐天皇が敗走し疲れきって、万里小路藤房、季房と和歌を詠んだ場所です。

笠置山からこの場所に来る道筋は、木津川を渡り瓶原(恭仁京跡)~(海住山寺?)~神童子を経て。


太平記巻第三 主上笠置を御没落の事


笠置が陥落、後醍醐天皇は万里小路藤房・季房兄弟とのわずか3人で、赤坂目指して落ちてゆく。
雨風にさらされ、食べるものとてなく、疲労は困憊の極地に達した。日中は動けば六波羅方に見つかる。岩を枕に、朦朧とした意識を現と夢の間にさまよわせているとき、風が吹いて松の枝が騒いだ。その音を雨かと思い、藤房か季房が後醍醐を木陰へ移動せしめる。
露が、後醍醐の袖に降りかかった。それを見て後醍醐が歌を詠むのだ。

さして行く笠置の山を出でしよりあめが下には隠れ家もなし

藤房は涙しながら返した。

いかにせんたのむ陰とて立ちよればなほ袖ぬらす松の下露


辺りの様子。

道は井手と和束を結んでいます。














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