JR堺市駅から、反正天皇 百舌鳥耳原北陵へ。



その後、本能寺の変時、徳川家康が滞在していた妙國寺(妙国寺)へ。(伊賀越え)



その後、堺県庁跡を見に行きました。

明治4年(1871)から明治14年(1881)年まで、本願寺堺別院に堺県庁が置かれた。その範囲は、当初、和泉・河内、つまり今の大阪の南半分ほどだったが、明治9年(1876)に奈良県を編入し、広大な面積を管轄することになった。びっくりびっくりびっくり

堺県は明治14年に大阪府に編入されて消滅した。このとき旧奈良県も大阪府に編入されており、明治20年(1887)に再設置されるまで、奈良県は存在しなかったガーンガーンガーン

幸いにも、堺県廃止後、敷地と建物はそのまま浄土真宗本願寺派で返還され、現在に至っている。現在の本堂は文政8年(1825)年に再建されたものなので、堺県庁当時の姿をとどめている。



現在は、本願寺堺別院。





そこから、町家歴史館 山口家住宅へ。走る人



その後、堺市立町家歴史館 清学院へ。

こちらは、入館しませんでした。





で、真裏にある鉄砲鍛冶屋敷跡へ行ったら改装中でした。。。ガーン

令和5年にリニューアル公開されると。



榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡。



ここ堺の街が特に有名なのは、江戸幕府、徳川家康の鉄砲製作御用達場所であったため。

榎並屋勘座衛門(えなみやかんざえもん)と芝辻理衛門(しばつじりえもん)らは大阪冬の陣(1614年)の前に徳川家康から1000挺の鉄砲を急いで作れと命ぜられたと言われています。





紀州街道。走る人



阪堺電気軌道 阪堺線。

路面電車です〜ラブ



うんはてなマーク ぎゃ〜ガーンガーンガーン



次に、旧堺港へ。



旧堺港から、環濠内へ戻る途中に。



天誅組義士上陸遺蹟碑がありました。

1863年8月15日、攘夷親征を掲げる天誅組が大坂から船で堺に上陸。天誅組は進軍して8月17日大和で挙兵しますが、8月18日の政変で攘夷派公卿は失脚。天誅組は後ろ盾を失い、幕府軍に鎮圧される。王政復古の5年前の事件。



環濠内に戻って。

与謝野晶子 生家跡。









からの〜。走る人

千利休屋敷跡。



閉まってました。。。ガーン





紀州街道へ戻ると、阪堺電気軌道通過ビックリマーク



次に。走る人

今井宗久の屋敷跡。







その後、環濠の南の端へ。

堀で囲われています。



堺環濠都市ラブ





てくてく。走る人



この後は、三好長慶像のある南宗寺へ。



そこから、仁徳天皇陵。



履中天皇陵へ。



退散します。



(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。

地名は、方違神社付近がかつて摂津国河内国和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。

中世貿易港として発展し、栄華を極めた。三津七湊。戦国時代には環濠都市となり会合衆と呼ばれる有力商人たちにより自治的な都市運営が行われた。

1569年入京していた織田信長が2万貫の矢銭と服属を要求、それまで軍事的な後ろ盾であった三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)が信長に敗退していたため要求を呑み、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた。

信長の死後は豊臣秀吉の傘下となり、1586年に秀吉によって堀が埋められ港に砂が流れ込み船が停泊できなくなり、港としての機能は失われた。

その後大坂夏の陣において全焼(堺焼き討ち)。現在見られる町割は江戸時代、元和年間の復興によるものである。(wikiより)



 

 








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